・説教 ローマ人への手紙11章1-12節「恵みの選び」
2022.03.27
鴨下直樹
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パウロは当時の文化と世界の中心都市であるローマに手紙を書き送っています。この時、パウロはまだローマに行ったことがありません。けれども、パウロから福音を聞いた人々がローマに移って行って、そこで集まりを開くようになったのです。
そこで、パウロはまだ見ぬローマの教会の人たちに、主イエスが私たちに与えてくださった救いについて、丁寧に書き記していきました。この手紙を読むだけでキリスト教のことが分かって、信仰に入ることができるようになることを願ったのです。
1章から8章では、信仰の土台となる主イエスが私たちに何をしてくださったのかを書きました。そして、そのあとの9章から11章では、神の約束の民であるユダヤ人たちはどうなるのかということを書き始めたのです。
ユダヤ人は一体どうなるのかということを、今の私たちはあまり気にしないと思います。ユダヤ人のことは良く分かりませんし、昔の出来事です。大切なことは、やはり自分たちのことです。けれども、この時代、聖書のことを知ろうと思うと、ユダヤ人たちの集まっている「会堂」「シナゴーグ」と呼ばれるところに行くしかありませんでした。そして、キリストの福音について触れた人たちも、自然にこのユダヤ人たちの「会堂」というところに集まるようになっていました。
そうすると、どうしてもユダヤ人たちと、主イエスを信じるキリスト者とかキリスト教会の人たちと、何がどう違うのかということを説明する必要があったのです。それで、パウロはここで丁寧に、ユダヤ人たちは神様に対して信仰的ではなく、神に逆らって歩んできたことと、それでも、神様はそのユダヤ人のことを大切に思っているということを語っていったわけです。
先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、使徒の働きを学びました。前回は使徒の働きの2回目で、パウロの宣教の部分が記されている12章から最後の章までを扱いました。
パウロは、神から使徒として召されて、異邦人の伝道に遣わされます。三回にわたる伝道旅行で、かなり広範囲の地域に福音を宣べ伝えます。ところが、使徒の働きを読むと、異邦人伝道と言いながら、パウロはいつも、「会堂」と呼ばれたユダヤ人たちの築いた信仰と聖書の教育をする場所を伝道の拠点にしたのです。
ユダヤ人たちはその長い歴史の中で、「ディアスポラ」と言いますが、各地に「離散」してきます。国土を奪われたユダヤ人たちは各地に散らばって、そこでユダヤ人たちの集まりを作っていきます。その中心拠点になったのが、「会堂」とか「シナゴーグ」と呼ばれるところです。
私たちも良く分かっていることですけれども、この「ユダヤ教」と「キリスト教」には大きな違いがあります。ユダヤ教は「旧約聖書」しか扱いませんが、キリスト教には「新約聖書」があります。ただ、問題はパウロの伝道していた時にはまだ新約聖書はありません。その当時のキリスト教会は、旧約聖書をベースにしながら、主イエスの教えられたことをそれまでのユダヤ教の人たちの考え方とは違う解釈をしていきました。
それは、異邦人はキリスト者になるためにユダヤ人のように割礼を受ける必要はないし、ユダヤ人たちの生活習慣、おもに食物規定と言われる食べ物に関する戒めを守らなくても良いという考え方です。それで、エルサレムの教会は、パウロが第一回目の伝道旅行から戻ってきた後で、この問題について一つの見解を示しました。それは、異邦人たちにユダヤ人のような戒めを課さないということです。割礼も必要ないし、ユダヤ人の律法を守る義務も課さない。それが、エルサレム会議の結論だとパウロは理解したのです。
けれども、エルサレム会議は結論の最後に一つの文言をつけ加えます。これまでどの会堂でも大事なこととして扱ってきた食べ物の規定と、みだらな行いは気をつけるようにという一文です。そして、この最後の一文が付いたがために、パウロはその後も、どの町に行ってもユダヤ人キリスト者たちと戦うことになってしまうのです。やはり、パウロのしていることは、教会の主流の考え方ではないとなってしまったのです。
パウロにとって、このユダヤ人キリスト者たちというのは、ずっと伝道の邪魔をする嫌な存在でしかありませんでした。また、生粋のユダヤ人たちもなかなかパウロが語る福音を受け入れない心の固い人と思って来たはずなのです。
ユダヤ人たちの立場からしても、自分たちが建てた会堂で、自分たちが教えていることとは異なることをパウロが教えるわけですから、いい迷惑だったに違いないのです
そのパウロがここで、ではこのユダヤ人たちはどうなるのかという結論を語っていきます。それが、この11章です。
パウロはまず自分もユダヤ人であるということを、語り始めます。ただのユダヤ人ではありません。「アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です」と語りました。
イスラエルは12部族いますが、10部族はこの時までに世界中に散らされ、なくなってしまいましたが、ユダ族とベニヤミン族だけは存続し続けます。しかし、その南ユダとよばれた国も、ギリシャやローマの波に飲み込まれてしまっていました。
そこで、旧約聖書に出て来るエリヤという預言者がいた時に、エリヤがアハブという北イスラエルがまだ残っていた時の王の時代の物語を例に出して語り始めました。このアハブという王は、非常に悪い王さまで、イスラエルの神を捨てて、バアルとアシェラという神々を信じるようになります。それで、エリヤは、この時、アハブ王擁するバアルとアシェラを信じる祭司たちと対決をして、勝利を得ます。エリヤは見事に勝つのですが、今度はアハブの奥さんのイゼベルに命を狙われるようになってしまいます。それが、先ほど読んだ第一列王記の19章に記されていた出来事です。そこでエリヤはもう、怖いから死にたいとまで言い出してしまうのです。ところが、その時に、神はエリヤに「わたしはイスラエルの中に七千人を残している」と言われたのです。
パウロはこの話を取り出して、神は国の危機の時にも神による「恵みの選びによって残された者たちがいます」と語ったのです。それが、この11章の5節です。
おそらく、これはパウロの実感だったのだと思うのです。パウロは次々に新しい町を訪ねて伝道するたびに、会堂を訪れます。その土地はイスラエルの中ではなくて、ローマの支配下にある国々です。そのような、まさに世界中に会堂が作られていることも驚きですが、どの町に行っても、そこで主イエスを信じる人たちが起こされていくのを目の当たりにしてきたのです。
この人たちは、ユダヤ人がそれまで大事にしてきたような、律法を必死に守って正しい行いをすることによって、自らの正しさを主張する人たちではなくて、律法とはまったく関係なく歩んできたユダヤ人や異邦人がほとんどで、そのような人たちが主イエスを信じるということだけで、信仰に入っていったのです。
それを、パウロは6節でこう言っています。
恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。
行いによるのでなくて、恵みによるのだと言ったのです。それは、全部神の業だと言ったのです。
恵みというのは、私たちの努力や行いではないということです。毎年、春がくると温かくなって、雨が降って、花が咲き乱れます。これはすべて神の業です。人間はこれを手助けすることもできますし、邪魔をすることもできます。けれども、基本的に神様がすべて面倒をみておられるわけです。
私たちが生きていくために必要なものを、神はすべて与えてくださいます。その中でもっとも大切なものが3つあります。一つは、私たちの心臓がちゃんと動いていて、生きるための必要なものが備えられているということです。もう一つは、私たちがどこに向かって生きているのか、何のために生きているのか分かるということです。そして、もう一つは神様と一緒に生き、周りの人と一緒に生きるということです。
この三つのものを失ってしまうと、かならずひずみが生じます。この三つ、簡単に言うと、いのちがあること、目的があること、そして、関係を持って生きること。この三つのものが成り立って、人ははじめて生きることができます。
神様の民であるイスラエルはその三つを与えられていたはずなのですが、それがひとつずつその手からこぼれ落ちていってしまいました。より良く生きたい、ちゃんと生きたいと願っていたのに、気がついてみたらイスラエルの民の歩みは崩壊してしまっていたのです。
それで、慌てて周りを見るとどうでしょう。神の民ではない異邦人たちが、神の約束されたこの救いを手に入れて、安心して、幸せそうに生きているのです。
それを、見てイスラエルの人たちはショックを受けます。それを、この聖書の言葉で言うと、「つまずいた」と言います。11節にそういう言葉が書かれています。
私たちも人生につまずいたとか、試練につまずいたと表現するときがあります。けれども、この「つまずいた」という状態は実は絶体絶命の状況ではないのです。
つまずくとその後に待っているのは転ぶか、持ち直すかのどちらかです。
11節でパウロはこう言います。
それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。
とあります。
つまずきの先には「倒れる」ということがあります。倒れてしまうと被害は甚大です。マラソンなんかで、選手がつまずいて、その後倒れる場面を見ると、誰もが思わず「あーーっ」と叫びます。
確かにイスラエル人も、つまずいたのです。ですが、まだ倒れてはいないのです。私たちはどうでしょうか。つまずきそうになっている人がいるかもしれません。いや、もう私はダメだ。もう倒れてしまったという方があるでしょうか。
そもそも、どうして神様は人がそんな状態になるまでほおっておかれるのだろうと文句の一つも言いたくなるのかもしれません。イスラエルを見てください。神があれほど愛したイスラエルを神はどうなさったか。そうです。簡単に手を差し伸べたりはしないのです。ほおっておかれているという現状を私たちは見るのです。
それを知るときに、私たちはショックを受けます。神様らしくないではないか。神様なら、もっとその前に先回りしておいて、失敗することのないように守ってくださればいいのに。そのように考えたくなるのかもしれません。
実際に時々そのように考えてしまっているクリスチャンの方にお会いすることがあります。私が質問します。「なぜ、そうしようと思ったのですか?」「だって私には神さまがついていてくださるので、もし失敗しそうになったら神様が助けてくださると思って安心しています」と。
神様は、私たちに仕える奴隷ではありません。私たちの人生を守ると約束する守護天使でもありません。私たちのくだした決断は、私たちのところ帰ってきます。ですから、当然うまくいかないこともあるのです。私たちの願ったように、祈ったようにならないことだって当然あるのです。
神の、この無関心の作戦には一つの意図がありました。それをパウロはここでこう書いています。「イスラエルにねたみを起こさせました」と。
その結びとして12節にこう記しています。
彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。
この12節の「彼らがみな救われることは」という所に注が付いていまして、直訳「彼らの完成」と書かれています。もう一度、読み替えてみるとこうなります。
彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。
この失敗は彼らの完成に繋がっているのだとパウロは言うのです。それは、彼らの救いに結びつくことになるというのが、この言葉の意図することなので、新改訳はそのように意味を分かるように訳したわけです。
なぜ、神は異邦人の方を救われたのだろう。そうやってねたみを引き起こすことで、この失敗は、このつまずきは、ここで倒れてしまうことは、やがて復活へと至るのだと言うのです。これが、神の計画なのだというのです。
イスラエルはやがて復活するとパウロは言いたいのです。この失敗は失敗のままで決して終わらないのだと。
この完成に至るには、大事な要素があります。それは、キリストから目を離さないことです。途中で投げ出さないことです。諦めてしまわないことです。
私たちのつまずきも、背きも、失敗も、それらはやがて富となり、救いとなって、完成へと向かうのです。
それが、神のご計画なのです。
お祈りをいたします。