2022 年 7 月 10 日

・説教 ローマ人への手紙15章7-13節「神の栄光のために」

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2022.07.10

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日私たちに与えられている聖書の7節に「神の栄光のために」という言葉が出てきます。神の栄光のために生きる。教会に来るとよく耳にする言葉かもしれません。
 
 ウエストミンスター大教理問答の最初の問いに、こう記されています。

問1「人間のおもな、最高の目的は、何であるか。」
答 「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」

 教理問答というのは、洗礼を受ける方のために、聖書の基本教理を教えるために作られたもので、牧師が問いを尋ねると、その問いに、信者が答えるという形式で書かれています。つまり、答えをまるまる暗記するように求められているわけです。

 人間は何なのために生きていますか? 人生の目的は何ですか? と尋ねられたら、「人間の目的は、神の栄光をあわらし、永遠に神を全く喜ぶことです」と答えるように教えるのです。

 私も、子どもの頃に、牧師であった父からこの問答を聞かされていました。何のためにこんな勉強をするのか? なぜ仕事をするのか? なぜ結婚するのか? 私たちが生きるために必要ななぜそれをするのか? という問いの答えは、神の栄光を現すために私たちは生きているのだということです。

 今日の聖書は7節でこの「神の栄光のために」という言葉が出てきます。私たちは神の栄光を現すために生かされている。そのためにも、お互いが受け入れ合いなさいというのです。

 私たちは、この神の栄光を現すために生きている。そのことを基準に考えるのだとパウロはここでまず語っています。

 これは、前の6節の祈りの言葉を受けて語ったものでもあります。教会はいろいろな人たちが心を一つにして、父なる神をほめたたえるところなのだからといいます。

 さて、この「神の栄光のため」と書かれている次の文章にこう書かれています。

キリストがあなたがたを受け入れてくださった…

と。この言葉は、この箇所の中心です。

 「あなたがた」は、だれのことを指しているかというと、ローマにいる二種類の人たち、つまりユダヤ人のキリスト者たちと、ローマ人のキリスト者たちを指しています。そのお互いを、キリストは受け入れてくださったのですよと言うのです。

 さらっと書かれていますが、この背後にはとてつもない出来事が起こっています。

 ユダヤ人のキリスト者たちは曲がりなりにもこれまでの歴史の中で神の教えを心に留め、主イエスがキリストであると信じた人たちです。聖書に書かれ、預言者たちが語り継いできた救い主とはキリスト・イエスなのだということを受け入れた人たちです。

 この人たちは本当にダイヤモンドのような人たちです。ほとんどのユダヤ人たちはこの神の約束を捨ててしまったり、キリストのことを認めない人たちばかりの中で、ユダヤ人のキリスト者たちは、それが主イエスなのだと分かったのです。

 彼らは律法を大切に、ユダヤ人のしきたりに生きて来て、その結果今の自分たちがあるということを受け止めることのできた人たちです。その人たちの感覚からすると、自分たちはキリストに受け入れられたというのは、喜びであったはずです。誇りであったはずです。

 ところが、異邦人は神を信じてこなかった人で、むしろユダヤ人のキリスト者を苦しめ、神に敵対してきた人たちです。ユダヤ人のキリスト者からすれば異邦人というのは、言ってみれば悪魔の手先のようにさえ思えたと思います。

 パウロはここで、「キリストはその異邦人たちも受け入れられたのだ」と言いました。まさに、奇跡的な出来事ですが、それが主イエスの十字架と復活だったと言ったのです。そのことを説明するために8節から12節までの言葉を使って説得を試みます。

 8節はそれほど難しくはありません。キリストはユダヤ人たちのために、約束を確証するために来てくださったのだと言いました。

 ところが、9節から12節までで、パウロは4つの旧約聖書の箇所を引用します。欄外の注を見ますと、どこからの引用であるかが記されています。

 9節は第二サムエル記22章50節から、10節は申命記32章43節、11節は詩篇117篇1節、12節はイザヤ書11章1節です。これは、旧約聖書の歴史書、律法の書、詩篇、預言書、それぞれの書物の中から一節ずつ選び出していることが分かります。つまり、旧約聖書はずっと異邦人を受け入れるという約束を語り続けていたでしょと言うのです。

 神は、その約束をこれまで語り続けて来ておられて、その約束がキリストによって私たちの前に示されているのですとパウロは言いたいのです。

 ここに何度も出てくる「異邦人」という言葉があります。これは、私には少し抵抗を感じるのですが、外国の人をみんなひとくくりに「外人」というニュアンスが含まれているように感じます。以前、マレーネ先生が外国人登録証明書に「エイリアン」と書かれていると言って苦笑いされていました。調べてみるといまだにエイリアンカードと言うようです。外から来た宇宙人のようですが、そのくらい外国の人のことを、全部まとめてエイリアンと呼んでしまうような十把一絡げのニュアンスがあります。

 「異邦人」というのも、ニュアンスとしてはこの外人という感覚だろうなと思うのですが、もともとの言葉は「もろもろの国々の人」という意味の言葉です。ですから、厳密にいうとローマ人だけではなくて、その背後にはいろんな国の人のことが想定されています。

 この異邦人、もろもろの国々の人々と、ユダヤ人のキリスト者たちが一緒に神に受け入れられる。そのことを通して神は栄光を現そうとしておられるのです、とパウロは言いたいのです。

 先週の祈祷会でこの箇所をみんなで読んだ時に、妻が一冊の本を紹介してくれました。

 先月書店に並んだばかりの本で『戦争をやめた人たち』という絵本です。この本は、教会員で、書店に勤めているNさんが妻に教えてくれて、それで知ったのです。

 サブタイトルに「1914年のクリスマス休戦」とあります。

 イギリスとドイツが戦争をしていた第一次世界大戦の時の話です。その戦争はクリスマスまで続いていました。最前線での出来事です。12月24日、ドイツ軍の塹壕から「きよしこのよる」の賛美歌が聞こえてきました。イギリス軍の方は、ドイツでもクリスマスを祝う人たちがいることを知り、イギリスの塹壕の方でも賛美歌を歌い出します。しだいに、同じ賛美歌を、それぞれの言葉で歌い出したというのです。その夜、お互いに戦争をやめてクリスマス休戦をすることになったのです。そうして、いままで銃をむけあっていたお互いは、一緒にクリスマスの歌を歌い、一緒にクリスマスをお祝いし、ついには翌日の25日のクリスマスにはサッカーまで一緒にしだしたというのです。

 こういうことが、戦場のあちこちで本当に起こったようです。残念ながら、その戦争はその後も4年間続きましたが、クリスマスを祝い合ったところでは、お互いに銃を空に向けて撃って、相手の兵士に危険を知らせたといいます。その人たちは戦争をやめたのです。

 この本を書いた鈴木まもるさんは、これはイギリスもドイツも共にキリスト教を信じていて、多くの人がクリスマスを祝い、同じ歌を歌っていたから起こったことなのでしょうと書いています。多くの人はこの時の出来事を奇跡が起こったと言います。

 この時に起こった出来事を通して、この神は素晴らしいと言われるようになりました。ここに神の栄光が現されたのです。敵対しあう人たちであっても、互いに受け入れ合うことができるのです。この1914年のクリスマス休戦の出来事は「神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい」というこの7節のみ言葉そのものを表す姿となったのです。

 パウロは13節でこう祈ります。

どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

 パウロは、この神のことをここで「希望の神」と表現しました。

 「キリストはあなたがたを受け入れてくださいました」というキリストの御業は、私たちにとって希望だと言うのです。

 この人たちは敵だ。この人たちはダメだ。そう思っていた相手を受け入れることができるようになる。この福音のメッセージは、小さな家族の中でも、国と国との間においても希望となる知らせです。

 家庭でも、職場でも、国どうしであっても、主義主張が異なる相手であったとしても、相手がまだキリスト者ではなかったとしても、相手がまだ心優しい人に変わっていなかったとしても、キリストはそのような人をも受け入れられるお方です。

 このメッセージが世界中の至る所に届いていくときに、この知らせはまさに希望となるメッセージなのだと思うのです。

 神の御前にはどんな人であったとしても受け入れられるというメッセージです。これが、希望の神です。

 今も、戦争が起こっています。コロナも、依然として力が衰えず第七波が始まったと言われています。また今は参議院の選挙中ですが、その中で安倍前首相が命を失うという出来事が起こったばかりです。

 福音による希望は命を奪うものではありません。互いに受け入れ合うこと、愛し合うことを通して人を生かし、喜んで生きることができるようにすることです。そうすることで、神の栄光が現されるからです。これが、希望の神の望んでおられることなのです。

 人は、神の栄光を表すために生かされています。私たちは、お互いに主に受け入れられている者であることを心にとめ、ともに主を見上げ、主を褒めたたえていきたいのです。

 お祈りをいたします。

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