・説教 ヨナ書1章1-10節「主の御顔を避けて」
2022.10.02
鴨下直樹
⇒ 説教音声の再生はこちら
Lineライブ
午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。
今週から、私としては珍しく、旧約聖書の小預言書の中にあるヨナ書の講解説教をしていきます。以前、祈祷会でこの箇所を扱ったことがありますし、家庭集会などでも行ったことがありますが、それも10年ほど前のことです。今日から、改めてこのみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。
ヨナ書というのは、旧約聖書の中でも比較的有名な箇所です。この12小預言書の中でも、唯一と言っていいくらい、よく取り扱われます。子どもの絵本などにもなりますし、教会学校などでも取り上げられています。ただ、だからと言って、ここで語られているテーマが、よく理解されているわけではありません。
物語は魅力的です。海に投げ込まれたヨナが魚に呑み込まれる場面は、知らない人がいないほどで、ピノキオにもそんなところが出てきたりするほどです。
さて、聖書の中ではこのヨナ書というのは、神の啓示の新しい段階を描き出しています。それは、イスラエルの敵の国であるアッシリアに、預言者を遣わすという神の言葉からはじまっているからです。
アミタイの子、ヨナは第二列王記14章章の25節にその名前が出てきます。北イスラエルのヤロブアム2世が王様の時代の時の預言者です。この後、数十年後には、北イスラエルはアッシリア帝国に滅ぼされてしまいます。そんな時代です。そして、この神がヨナを遣わそうとしたのは、イスラエルの敵国であるアッシリアの首都、それがニネベと呼ばれる町です。地図で確認したい方は新改訳聖書2017の後ろにあります「地図の7」を見ていただくと、ニネベの場所がすぐに見つけ出せると思います。
このニネベについては、ヨナ書の少しあとにナホム書というところがありますが、そこにこんなことが書かれています。ナホム書の3章の1-4節を読んでみたいと思います。
わざわいだ、流血の町。
すべては偽りで略奪に満ち、
強奪はやまない。
むちの音。車輪の響き。
駆ける馬。飛び跳ねる戦車。
突進する騎兵。
剣のきらめき。槍のひらめき。
おびただしい戦死者。山なす屍。
数えきれない死体。
死体に人はつまずく。
これは、遊女の淫行の数々に、
呪術を行う女の麗しさによるものだ。
彼女はその淫行によって国々を、
その呪術によって諸部族を売り渡した。
ここに記されているのは、ヨナの時よりも時代は少し遅いのですけれども、ニネベという町がどんな町であったかがよく分かります。人々は攻撃的で、戦争に明け暮れ、道徳的にも、宗教的にもかなり腐敗している町だったのです。
こういう国は、神の御心ではない異教の国々でしたから、それまでの聖書の考え方で言えば、滅んでしまっても問題のない国でした。ところが、このところから、神の啓示のなさり方が少し前に進みます。
神は、ヨナに向かって、こう告げます。2節です。
「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
神は、預言者ヨナに、アッシリアの首都であるニネベに行って、彼らの悪を悔い改めるように語るよう命令されたのです。これは、ヨナにとって考えられないことでした。これまでの神の語ってこられたことと、まるで違うことを要求されたからです。これまでは徹底的にイスラエル中心でした。異邦人の国が悪い国なのは当たり前のことでしたから、さほど気にも留められてこなかったのです。
それで、ヨナがどうしたかは、私たちは聖書を読んで知っています。3節です。「しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした」のです。
ここに「主の御顔を避けて」という言葉が記されています。今日の1節から10節の中に3度も記されています。これは、明確なヨナの神の要求に対する「No!」という意思表示です。
「主の御顔を避ける」というのは、主を見上げることをやめるということです。信仰を捨てるというような意味と同じと考えてもよいと思います。
ヨナが行こうと思っていたタルシシュというのは、新改訳2017の最後にある地図15に「イスパニア」という地中海の一番はずれの国があります。ここにある国だと考えられています。この時代で言う世界の果てです。神から遠く離れて、自分がこれまで生きてきた愛する祖国を捨ててでも、神の命令を忘れて生きることをヨナは選び取ろうとしたのです。
「そんな命令に従うことは絶対に嫌」それが、ヨナのこの時の思いだったのです。
どうしてなのでしょう。なぜ、ヨナはそう考えたのでしょう。ニネベは敵の国です。その国に行って、悔い改めを語ることは、ヨナとしては何としても阻止したいと思ったのです。最後の4章の2節で、ヨナはその時何を考えていたか、こう告げています。
「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたは情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。」
ヨナは神のご性質を知らなかったわけではありませんでした。よく知っていたのです。そして、その神のご性質のために、この命令に従いたくないと考えたというのです。
これは、神の理不尽な要求に対するヨナの怒りです。ヨナにとって、アッシリアのニネベという国は、絶対的に悪なのです。赦されるはずがないような、最悪の国だとヨナは考えていたのです。そして、そのような国を亡ぼすことこそが、神のみこころなのであって、その国を救うようなことはあってはならないと思ったのです。
ここにあるのは、ヨナの正義感です。大きな正義感です。自分の怒りは正しいとヨナは信じているのです。
そこで私たちに問われるのは、これはヨナだけの物語なのかということです。絶対的な悪に対して、神はどうなさるのか?
私たちが誰かと争っているときのことを、思い起こしていただいたらよいのだと思うのです。その人に自分が深く傷つけられていたとしたらどうかということです。聖書が赦すよう要求することは百も承知の上で、それでも、その神の思いに逆らいたいという思いが私たちの中にはないでしょうか?
これは、教会の中では誰にも話せないテーマなのかもしれません。答えは分かっているからです。愛しなさい。赦しなさい。受け入れなさい。それが、神の思いなのだということは、私たちはよく分かるのです。でも、主の御顔を避けて、私たちは神の思いとは違う決断をする。
それこそが、ここで私たちに問われているテーマです。
なかなか赦すことができない、神の思いを受け入れられないのには理由があります。それは、私たちが、その人に傷つけられてきたという事実があるからです。しかも、私がゆるしたとしても、相手は変わらないだろうということが想像できる。そんな時です。
これは、とてつもなく大きな、私たちにとって厳しいテーマです。
さて、このヨナはどうなっていくのでしょうか?
今日の箇所はとても興味深いのですが、まずヨナの行動を見て見ましょう。3節です。
しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。彼はヤッファに下り、タルシシュ行きの船を見つけると、船賃を払ってそれに乗り込み、主の御顔を避けて、人々と一緒にタルシシュへ行こうとした。
ここからヨナの決意がうかがえます。それに対して主はどうなさったのでしょうか?
4節です。
ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった。
と記されています。
すると、嵐の中で船乗りたちは、それぞれに神の名を上げて祈り、また、積荷を軽くして、自分たちの出来得る対策を講じます。人々は生きたいのです。そのために、できる限りのことをします。困った時の神頼みだろうが何だろうが、ありとあらゆる神々に祈ることでもしないと気が収まりません。しかし、ヨナはそれを無視するかのように、「ヨナは船底に下りていて、横になってぐっすり寝入っていた」のです。
船の荷物を捨てるわけですから、船底には人がひっきりなしに入って来ては荷物を担ぎ出して捨てるわけです。寝ていられるはずがないのです。船の中はパニック状態だったはずです。状況は船が沈みそうなのです。それなのに、寝入っているというのは、ヨナは言ってみれば、ここでもう嵐に沈んでもいいとさえ思っていたということです。船乗りたちには協力しない。生き延びるための方法なんか必要ない。神の眼差しに気づいているのですが、ヨナは主の御顔を避けているのです。
自分なんてどうなってもかまわないとさえ思っている。それほどの、深い怒りが、ヨナの心の中には潜んでいるのです。ニネベに対して過去にヨナと何があったのかは書かれていませんので分かりませんが、とても大きな感情をヨナは抱えています。
神はそれでも、ヨナにアプローチし続けます。
この嵐の原因探しをし始めて、くじ引きをすると、そのくじがヨナに当たったというのです。神は、あろうことか、人々の迷信的なくじによる原因究明などというどうしようもない迷信的な方法さえもお用いになられ、ヨナにメッセージを伝え続けます。その神からのメッセージはこうです。「あなたはどこにいるのか?」です。
くじは見事、ヨナに当たります。ヨナはこの時、人々にこう答えています。9節。
「私はヘブル人です。私は、海と陸を造られた天の神、主を恐れる者です。」
と。
自分が天地を創造された神を恐れるヘブル人であるということは、自信を持って答えることができるのです。自分自身に絶望しているわけではないのです。しかし、人々には「ヨナが、主の御顔を避けて逃れようとしている」ということが伝わっていきます。
意地っ張りなヨナと、それでもヨナにご自身を示し続ける神の戦いがここに記されています。
神は自分の正義のために怒って、絶望したままのヨナをそのままにしてはおかれないのです。ヨナは下へ、下へと神の御顔を避けて、海の奥へと、神の手の届かないところへ行こうとするのですが、神は、さらにその所にも手を差し伸べることがおできになるのです。私たちは、その姿を主イエスの苦難の姿を通して知っています。神は、ここでまさに、この新約聖書でやがて示される神の愛の姿を、怒りに身を任せているヨナに示しておられるのです。
主は何という、愛に満ちておられるお方なのでしょう。自分の正義感という考え方から抜けだせないヨナに対して、神は実にあわれみ深いお方です。こんな男、捨てておけばいいのにと考える人もいるでしょう。ヨナは自覚的に神に逆らっているのです。しかし、神は、ヨナを諦めないのです。大勢の人を巻き込みながらも、神の思いを届けるために、神は全力でヨナにみこころを示し続けられるのです。
ここで大切なのは、私たちがどういう意見を持っているかではありません。主がどういう考えを持っておられるのか。そこに、価値があり、意味があるのです。私たちがそれに徹底的に逆らって、主の御顔を避け続けたとしても、私たちの神、主は諦めないお方なのです。神の御心が、この地でなされるのです。
私たちの周りの国も、民族も、隣人に対しても、家族や友人に対しても、この主のみ思いは変わることはありません。主は、私たちが頑なであったとしても、その私たちに愛想をつかされたりはしません。むしろ、主はそのような私たちに激しいほどに、ご自分の思いを届けようとしておられるのです。
今日、私たちはこの主のあわれみの思いを心に留めたいです。
お祈りをいたしましょう。