・説教 ルカの福音書1章57-80節「伝統を乗り越える神の御業」
2022.12.18
鴨下直樹
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四年に一度のサッカーワールドカップが間もなく終わります。決勝戦はフランスとアルゼンチンです。今朝の三位決定戦もなかなか白熱した試合だったようですがクロアチアが勝ったようです。明日の決勝も今からとても楽しみにしています。アルゼンチンにはメッシという世界最高と言われている凄い選手がいます。フランスにはエムバペという、メッシを超えるのではないかと期待されている選手も出て来ています。メッシは年齢的に今年が優勝できる最後のチャンスで、このワールドカップで代表を引退すると言われています。さて、どちらの国が勝つのか、本当に今から楽しみです。
今回の大会は、日本は強豪国に勝ったこともあって、本当に楽しい時となりました。いわゆるサッカー大国と言われるドイツやスペインに勝ったのですから、これはもう歴史的な出来事でした。これまで日本はドイツにもスペインにも一度も勝ったことがなかったのです。
たとえばドイツには「ゲーゲンプレス」という伝統的な戦術があります。ボールを取られたらすぐ取り返すというやり方です。こういう戦術もあって日本はドイツやスペイン相手にほとんどボールを持つことができませんでした。ほとんどの時間ボールを持たれてしまっていたわけです。それなのに日本が勝ったわけですから、これまでのサッカーの価値観を大きく変えるような衝撃を世界に与えることになりました。
今、私は「それまでの価値観」と言いましたけれども、これを私たちは「伝統」という言い方をします。サッカーの場合、ボールを持った方が有利であるという考え方が以前からあったわけです。こういった伝統的な考え方というのは、サッカーだけではなく、様々な場面に出てくるとても大切なもので、そこには歴史性や民族性というような特徴が表れています。この伝統が重んじられるのは、やはりその習慣が意味を持っていて、とても大切なことなので、次の世代にもこの伝統といわれるものを受け継がせていきます。
今日の聖書の中にも、一つの伝統的な習慣が出てきます。それは、生まれて来る子どもに、親や親類の名前にちなんだ名前をつけるという伝統です。これは、とても大切な事でした。たとえば、イスラエルは家族に割り当てられた土地を代々受け継いでいきます。そうすると、ある地域にはその家族でいつもきまった名前の所有者がいるわけで、つける名前を固定することで、その父がどこの誰でどこの土地の所有者かが分かったのです。そうすると、子どもの代に替わったとしても、親類や家族の中で同じ名前が付けられていますから、すぐにこの土地はどの一族の土地であるというようなことが分かりました。これは、イスラエルの民にとっては非常に重要な伝統だったのです。そして、それはザカリヤのような祭司でも同様でした。
今みたいに、みんなが自由に名前をつけてよいということになると、この時代であればとても大変なことになったわけです。
さて、ここで母エリサベツは、生まれたばかりの子どもの名前を「ヨハネ」にすると言います。お祝いに駆け付けた人たちは、あなたの親類にそんな名前はないと言います。そして、今度はザカリヤに尋ねます。すると、話すことのできなかったザカリヤまでもが、書き板に「ヨハネ」と書いたので「人々は驚いた」と記されています。
なぜ、人々は驚いたのでしょう。ここを読むと、ザカリヤは話せなかっただけでなく、耳も聞こえなくなっていたことが記されています。それで、この夫婦はどうやって会話をしたのだろう。そのことに驚いたのだと考える人もあるようですが、問題はそこではありません。それこそ、書き板に書くことだってできるわけです。ここでの驚きは、「ヨハネ」と名付けることに、二人が確信を抱いていることに対する驚きです。このヨハネという名前をつけることの背後に、何かがあったのだのだということを、人々は悟ったのです。
すると、この一年の間言葉を話すことのできなかったザカリヤの口が開かれるようになります。
その結果が、65節と66節に記されています。
近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。
ここに何が記されているかお分かりになるでしょうか。
ここでなぜザカリヤとエリサベツは子どもの名前を親類の名前にしなかったのか? 伝統を破ったのか? ということはもはや問題にならなかったのです。人々の関心は、「この子は何になるのか?」という興味に関心が移ったということなのです。ここではもはや伝統は問題にならず、この時生まれたヨハネに示された神の御業に、期待するようになったのです。
ザカリヤの近所の人たちというのは、祭司たちです。神に仕える者たちです。この人たちは、ザカリヤとエルサベツ夫婦に起こった神の出来事に恐れを抱き、この子どもに興味を抱き、期待するように変えられていったのです。
神の御業は、人々が生活の中で生み出した習慣や伝統にまさるものです。ひとたび神が語られるならば、そこに神の御業が起こるのです。そこでは、私たちの常識や、私たちの価値基準を超える出来事が起こるのです。
さて、この子どもにつけられた「ヨハネ」という名前ですが、これは「主は恵み深い」という意味の名前です。
話すことができなくなったザカリヤはこの一年の間、頭の中で何度も何度もこの「ヨハネ」という言葉を心に留めたに違いありません。この沈黙の期間の間、自分の不信仰を悔いたでしょう。そして、妻エリサベツのお腹が大きくなるのを見守りながら、老夫婦に与えられたこの主の御業を心に留めたに違いないのです。ザカリヤ自身、この沈黙の間、主の恵みを深く味わったことでしょう。この子は、主の恵み、主は恵み深いお方だということが良く分かったに違いないのです。
そして、子どもが生まれた時に、書き板に「ヨハネ」と記した時、突然耳が聞こえるようになり、ヨハネの泣く声を耳にしました。生まれて八日目の割礼の儀式の日、この子どもを神様にお捧げすることを心に留める時、この神の御業に感動を覚えたに違いないのです。
どれほど嬉しかったか。ザカリヤはどれほど平安を覚えたか。
すると、ザカリヤの口から自然と賛美の言葉があふれて来たのです。68節。
ほむべきかな、イスラエルの神、主。
主はその御民を顧みて、贖いをなし、
救いの角を私たちのために、
しもべダビデの家に立てられた。
そう言って、賛美をはじめたのです。
ザカリヤにとってそれは自然なことだったはずです。一年の間、沈黙の中で聞き続けた神のみ言葉への思いが溢れ出したのです。70節、71節。
古くから、その聖なる預言者たちの口を通して
語られたとおりに。
この救いは、私たちの敵からの、
私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
このザカリヤの賛美の一節一節は、御使いガブリエルが告げた内容、1章16節と17節のみ言葉を味わった者の応答です。御使いは告げていました。
その子は・・・イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。
彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。
イスラエルが悔い改め、約束の救い主が与えられる。その道備えをする者が、今、布にくるまれて泣いている赤子のヨハネなのだということを、ザカリヤはよく理解したに違いないのです。
神の御業が起こるのです。イスラエルの民が長い間待ち焦がれて来た神の御業が始まるのです。そう考えると、そこで出てくる賛美は約束された神の救いの御業を思い起こすことです。神の救いというのは、解放の業です。
このザカリヤの賛歌は、前半と後半とに内容が分かれています。前半部分は68節から75節までの部分です。ここには、神がこれから私たちに何をしてくださるかが語られています。この「私たち」は、イスラエルの民のことを直接的には言いますが、これは、今日に至る「私たち」のことももちろん含んでいます。この私たちに神がしてくださる何かとは、「救い」という言葉で言い表されていますが、「解放」というテーマが歌われています。
そして、後半の76節以下は、ヨハネがこれから何をなすかが語られています。そして、この後半のテーマも、語られているのは「解放」です。
ザカリヤは、長い沈黙を破って、神の解放の御業を歌っているのです。
最後の79節に「平和の道」という言葉が出てきます。神の解放の御業は、私たちを平和の道へ導くのです。
特に、この最後の部分、78節の後半と79節にこういう言葉があります。
曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、
私たちの足を平和の道に導く。
「曙の光」という言葉がここで語られています。直訳すると「日の出の光」の事をいいます。それまで、日の光が出る前まで、この世界は闇に覆われています。ザカリヤの生きていた時代は、まさに暗闇の時代でした。イスラエルは次々にその支配者を変えながら、長い間外国に支配され続けていたのです。けれども、今「主は恵み深い」という名前をもつヨハネが生まれ、これからおいでくださる救い主の道を備える者が生まれる。ザカリヤは、まさに、我が子の誕生の出来事の中に、神の解放の御業が始まったことを確信したのです。
今も、私たちは様々な暗闇を経験しています。ウクライナの国の人々は今年どうやって冬を越すのだろうと思います。私たちの国でもそうです。多くの人が今も何かに怯えて生きています。自分では抗うことのできないものが、私たちに覆いかぶさって来る時に、私たちは闇を覚えるのです。
先日私は、昔自分が書いた文章を見つけました。そこには、今から20年ほど前に、この教会の前任の浅野先生と、私たち夫婦と一緒にマレーネ先生の案内でドイツの教会学校教師のための研修会に参加した時のことが書かれていました。確か10月の終わりころだったと思います。
その旅の最後に、私たちはドイツのハンブルグに泊まりました。ハンブルグというのは北ドイツにある港町です。ここには、ドイツ自由福音教会のハンブルグ教会があります。私たちはこのハンブルグの中心にあるカトリックの施設の5階に泊まりました。このハンブルグの自由福音教会は病院だとか老人ホームも経営していまして、近くには様々な教会の建物が並んでいました。私たちが泊っている建物の並びに大きな礼拝堂がありまして、道を挟んだ右側にはハンブルグ自由福音教会、反対側にはドイツの国教会、私の好きな神学者でヘルムート・ティリケがいたという大きな会堂も建っています。
五階の窓から見ると、いくつもの会堂が見えます。私が起きたのは朝の7時くらいだったのですが、まだ真っ暗で、8時になりますとようやく明るくなりかけるのです。
ちょうど8時になりますと、一斉に教会という教会の鐘の音が鳴り響きます。誰も寝ていることなんかできないほどの、大きな鐘の音が、まだ薄暗いハンブルグの町に鳴り響くのです。まさに、暗闇の中から日の光の訪れを告げるような、この朝のハンブルグの光景を私は忘れることができませんでした。
「今日は主の日、主のよみがえられた日、闇の時代は終わり、世界に光が、平和がもたらされた!」とその教会の鐘は、世界中に高らかに宣言しているような、そんな思いになったのです。
今日は、第4アドヴェントです。今週の土曜日の夜、私たちは、主の降誕をお祝いするクリスマス・イブの礼拝の時を持ちます。
私たちは、この暗闇の世界の中で何とか生き抜こうと試行錯誤しながら生きています。人の知恵はさまざまな良い習慣を見つけ出し、良い習慣は伝統となっていきます。これは、悪いものでも何でもありません。それらは優れた人間の知恵です。けれども、そのような人間の知恵も、闇に対して、こと悲しみの出来事の前には大きな力になりえないことがしばしばなのです。
しかし、神の御業は闇の世界に、光をもたらし闇そのものの力を打ち破ることさえできるのです。神の光が、この暗闇の世界にもたらされる。これが、神の御業です。神の御業は、暗闇の中に光をもたらすようなものです。そして、この御業は、暗闇の中にある人々の平和の道を備えるものとなるのです。
このクリスマスにもたらされた平和の光が、今、暗闇を感じている人々の光となる。この神の御業を、私たちは見るのです。ともに、この時、主の光を仰ぎ見つつ、主の御業に期待して、主を待ち望みましょう。
お祈りをいたします。