2023 年 6 月 25 日

・説教 ルカの福音書7章18-23節「あなたは救い主ですか?」

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2023.6.25

鴨下直樹

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 信仰者にとって絶えず繰り返される問いがあると思います。それは、聖書に出てくるイエスが、本当に私を救ってくださるお方なのか? という問いです。この問いは、私たちが教会に集う度に、ことあるごとに何度も何度も繰り返される問いなのだと思います。

「本当にあなたを信じていていいんですか?」
「あなたは私の救い主で間違いありませんか?」

 このような問いかけは、私たちの信仰の歩みの中で繰り返し起こってくることがあります。

 自分の願っているように事柄が進まない時、あるいは度重なる不幸に見舞われる時、私たちはこのような疑問が心の中に浮かび上がって来るのです。

 そして、今、この問いの前に苦しんでいるのは、他の誰でもないバプテスマのヨハネなのです。

 この問いは、私たちだけの問いではないのです。聖書には、福音書の中には、主イエスが来られた時に、この問いは何度も主イエスに向けて投げかけられているのです。

 今、バプテスマのヨハネは捕えられて牢の中にいます。

 少し想像していただきたいのです。ヨハネはそれこそ命懸けで、人々に悔い改めを語り続けました。そして、「やがて救い主がおいでになる」と告げてきたのです。このヨハネがキリストだと思っていた主イエスの働きはヨハネとはまるで違う働き方をしていました。ヨハネは、人々を避けて人里離れた荒野に住み、獣の毛衣を着て、野蜜を食べ、聖くあろうとしたのです。ところが、主イエスはヨハネとは対照的で、どんどん人の中に入って行き、罪人たちと交わり、食事をし、お酒を飲みます。こうして、「大食いの大酒飲み、収税人や罪人の仲間だ」と言われるようになるのです。こうして、主イエスは人々から注目を集めます。ヨハネも主イエスも、目覚ましい働きをするのですが、形は全く異なっているのです。そんな違いが、ヨハネの中にひょっとしてイエスはキリストではないのかもしれないと考えるに十分な理由となったのではないでしょうか。

 この福音書を書いたルカは、バプテスマのヨハネの誕生の物語から書き始め、ヨハネに対して非常に丁寧な記述をしてきました。そこではマリアがヨハネの母エリサベツのもとを訪ねたことが記されていて、ヨハネと主イエスが遠い親戚であったことまで明らかにされています。ヨハネの方が年長ですから、そういう意味では主イエスのことを気にかけていたということはあったと思うのです。

 そのヨハネは、今牢獄にあって自らの死を見つめています。まもなく自分の働きが終わろうとしていることを感じ取ったのかもしれません。そんな中で、その後のことが気にならないはずはないのです。しかも、バプテスマのヨハネが願っているのは来るべき旧約聖書で神が約束された救い主・キリストを待ち望んでいるのです。期待しないわけにはいかないのです。

 「救い主」は世を救うために来られるお方、それはイスラエルをもう一度神の民として歩ませるお方であるはずなのです。

 「おかしいではないか!」そんな疑問がヨハネの中に生まれてきたとしても不思議ではなかったのではないでしょうか。救い主であるならば自分のように歩むべきではないのか、そう考えたのではないでしょうか。ヨハネの中に、主イエスのしていることは不可解なこととしか理解できなかったのかもしれません。

 あるいは、ひょっとするとヨハネは疑っていなかったのかもしれません。信頼しているからこそ、確認したかったのかもしれません。そうだったとしても、「神の救い」というのは、今あなたがしていることなのですね? という確認をしたかったのかもしれません。いずれにしても、自分の方が何かが違っているのかもしれないと気づくのは、受け入れるのは、とても難しいことです。

 ここで明らかになっているのは、私たちが期待しているものと、目の前で示されているものとの大きなズレです。人はこの「自分が期待しているもの」「私が救いだと感じるもの」を取り下げるつもりはなかなかないのだということが、ここに明らかにされているのです。

 こういうズレは、信仰のことだけではありません。私たちは毎日の生活の中で、この期待したものと、現実との違いに苦しむことがあります。よく起こるのは、結婚生活を始める時であったり、会社に勤め始める時であったり、そのような時に私たちはこの期待したものと、現実との差に苦しむことを経験します。それは毎日の買い物でも味わいます。期待した味ではなかったとか、期待はずれということは、こうして毎日積み重ねられていきますから、こういう不満を持つことが、いつの間にか当たり前のように感じられていくのかもしれません。

 そうして、この食べ物は期待したほどの味ではないとか、値段に見合わないと感じる。あるいは、この教会は期待したような教会ではなかったとか、この牧師は期待はずれだとか、そういうことも起こるのでしょう。そしてこういうことを毎日のように繰り返し続けることを通して、私たちは気づかないうちに自分本位になっていくのかもしれません。

 これは、私はとても恐ろしいことだと思っています。人間がどんどん醜くなっていくのです。わがままになっていくのです。そして、こういう思いが、あたりまえのように、神にまで向けられるようになるのだとしたら、この一番の被害者は神なのかもしれないのです。

 今から90年ほど前に、ドイツでパウル・シュナイダーという牧師がいました。この時は、ヒトラー政権の真っ只中で、信仰の戦いをした牧師です。このシュナイダー牧師は、教会の礼拝で、明確にヒトラー政権に対して「No!」という宣言をしたのです。そのために教会から転任を命じられ、やがては拘束されてしまいます。そして、ヒトラー政権の敵ということで、牢に閉じ込められ、強制収容所に送り込まれてしまいます。といっても、戻る機会はあったのです。自分の牧会する教会には戻らないという署名にサインさえすればよかったのですが、シュナイダー牧師はこれを拒否したために、投獄されることになったのです。この牧師は、どんなことがあってもみ言葉に耳を傾け、神に従うことを選びとってきたのです。そして、殉教していくのです。

 このシュナイダー牧師は達観していたのでよかったかもしれないのですが、その家族はもっと大変だったと思うのです。シュナイダー牧師にはまだ小さな子どもが二人ありました。結婚して、まだ10年ほどしかたっていないのに、捕らえられてしまったのです。ある時、彼が捕らえられていた拘置所に二人の子どもたちと奥さんが面会にやって来ます。そこで、追放令にサインさえすれば、そのまま子どもと妻と帰ることができると言われるのですが、シュナイダー牧師は、追放令にサインすることはありませんでした。

 その時、妻や子どもたちはお父さんが帰って来られると期待していたと思うのですが、シュナイダー牧師は、この信仰の闘いに屈することはできないと、サインすることを拒絶して、その数年後に、殺されてしまったのです。

 この聖書の箇所を読む時に、私はシュナイダー牧師のことを思い起こすのです。この牧師はどんな思いで牢獄の中にいたのだろうか、自分のいのちが奪われることを見越して、シュナイダー牧師も、私の教会はこのあとどうなるのでしょうか? と祈ったのではないかと思うのです。

 主イエスのもとに、バプテスマのヨハネからの使者が訪ねてきた時に、主イエスは、見たこと、聞いたことを報告しなさいと言われました。22節と23節にこう記されています。

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

 この時の主イエスの言葉は、ヨハネに対して語っている言葉です。バプテスマのヨハネであったとしてもつまずくことがあり得たのです。この言葉は決して、ヨハネに対して冷たく言い放った言葉ではないのです。ヨハネにそういう危険があることを伝えておきたいと主は思われたのです。

 この「つまずく」という言葉は「腹を立てる」とも訳せる言葉です。どうして腹が立つのか? それは、自分の思い描いたものと異なるからです。

 ヨハネにそういう危険があったということなのでしょう。自分が、正しいと信じる生き方がある、信念があると、相手にも同じように求めます。その人にとってそれが当たり前だからです。もう他の生き方が想像できないのです。

 ヨハネと主イエスはまるで違う生き方をしていますが、誰もヨハネの生き方が間違っているなどとは思わないと思います。そして、主イエスの歩みも、間違っているとは思いません。それは、私たちがどちらの生き方であっても、神がその歩みを認めておられることを知っているから、私たちは安心して見ていられるのです。

 これを、私たちの生活の中で考えみるとどうでしょう。主イエスとバプテスマのヨハネの生き方が違うように、他のキリスト者の歩みの違いや、教会のあり方の違い、互いの性格や、考え方の違いを受け入れることができるでしょうか? それとも、腹を立ててしまうのでしょうか?

 「人はこうあるべき」という見方は、聖書の中に登場してくるパリサイ人の姿と重なります。それは、主イエスがもっとも苦しめられた考え方でもあるのです。そして、このテキストは、このことを、ヨハネに問いかけているように、私たちにも問いかけているのです。

 22節に示されている主イエスのお姿を見て、疑問を抱く人がいるでしょうか? ここに記されている主のお姿は、私たちがよく知っている隣人に愛を示される主イエスのお姿そのものです。けれども、実は、この22節に記されている主イエスのお姿は、当時の人々が思い描いた想像の救い主像、キリスト像とは大きくかけ離れていたのです。

 やがてイスラエルに現れるメシヤ、救い主とは、ダビデのような力のある人物であることを人々は期待しました。戦いに勝利し、イスラエルをもう一度復興してくれるような救世主を人々は思い描いていたのです。あるいは、モーセのような指導力や、エリヤのような影響力を期待したかもしれません。偽預言者たちと対決して、国王さえも屈服させるような、目に見えた力、神の権力を行使するメシアを期待していたはずなのです。

 それなのに、主イエスが示しているのは、目の見えない人を癒し、足の不自由な人を歩かせ、汚れの病を癒す・・・思い描いたスケールからすると物足りないと映ったのだと思うのです。

 教団の代表役員をしていると、いろんな教会から様々な訴えが届きます。ある時、その教会に呼ばれてヒヤリングをすることになりました。その教会の役員さんは、牧師のことを訴えたくて、それをA4のレポート用紙に何枚も書き込んでいました。ヒヤリングの中で、書き込んだ文章が一つ一つ読み上げられていきました。

 うちの牧師、一生懸命やろうと思っているのは分かるんですが・・・から始まります。そして、リストが一つずつ読み上げられていきました。いろんなのがあったのですが、たとえば、教会に行っても牧師が留守なことが多いんですとか、週報には毎回誤字があるんですとか、洗礼を受けた方へのプレゼントに2000円の本を買ってきたんですというものまでありました。「それは、何が問題なんですか?」と私が尋ねるとその前の先生の時は500円だったんですと続いたんです。

 読み上げられるリストを聞いているうちに、私自身どんどん小さくなっていくような気持ちで、途中で私はついに口を開きました。あのぉ・・・多分、それはだれにでもあると思うんですよ・・・なんなら私も全部当てはまる気がします・・・と言ってもうそれ以上何も言えなくなってしまいました。

 多分、教会とちゃんと話し合いができればなんの問題もないような事柄ばかりでしたが、話し合いができなかったから、訴えられたのでしょう。結果的にその牧師は辞められたのです。心が痛んで仕方がありませんでした。その方が召命を感じて、神学校で学び、毎週どれだけの時間を教会についやして来たか。主に祈り、み言葉に向かい、教会の方々と接する。教会の期待する牧師像ではなかったのでしょう。確かに、それほど人付き合いの器用な人ではありませんでした。完璧な人間はどこにもいないのです。合格点を決めるラインというのは、どのように決めたら良いのでしょうか? 80点なのでしょうか? 30点でもいいのでしょうか? その評価さえも、みんな違うのです。100点満点の主イエスにさえ、人々はつまずくのです。ヨハネでさえ、相手が主イエスであってもつまずくのです。つまり、人の評価は完全に当てにならないということでしょう。

 私が加藤常昭先生の主宰された説教塾に出ていた時に、加藤先生が何度も語っておられたのは「キリスト者の潔癖症は罪です。私たちはこの問題に立ち向かい続けていかなければならない」という言葉でした。

 なぜ、こういう問題が起こってしまうのでしょうか? どうして、私たちは人に期待し、現実に裏切られ、つまずき、腹を立てるのでしょうか? この問題点は明らかです。私たちが期待しているものと、主イエスが見てほしいと思っているとが、噛み合っていないからです。私たちが期待しているものは、自分の思い描く理想像なのです。

 主イエスは理想主義を語る救世主ではありません。また、人々を完璧な聖人にするためにこの世に来られたわけでもありません。まったくその逆です。

 主イエスは罪人を救うために来られたのです。収税人と友達になり、遊女たちと交わり、酒飲みたちと仲間になって、そういう欠けのある人たちの傍にいたいと思ってくださるのが主イエスなのです。このような救い主を当時の人々はだれも求めていませんでした。

 主イエスは、たとえその人が病を抱えていてもいい、人々からのけ者にされるような人でもいい、貧しい人であったとしても、その人と関わることに他の人から見て何のメリットを見出すことが出来なかったとしても、わたしはあなたの隣にいたいと願っているのだと、言ってくださるのが私たちの主イエスなのです。

 主イエスの愛はつまずきなのです。人が目を背けたいと思うところに、主イエスは目を注がれるのです。それが、聖書が語る福音そのものなのです。

 なかなかそのことは分かってもらえません。みな、自分の願う完璧なものばかりを欲するからです。

 この教会の長老のFさんの描かれた絵を見られたことがあるでしょうか? Fさんが、その画家人生のテーマとして描き続けているのは「カラス瓜」です。オレンジ色の丸いピンポン玉のような大きさの瓜の絵を、これまでに何枚も描いてこられました。

 なぜ、烏瓜を描くのかというと、Fさんから「これは何の役にもたたない物だからだ」という返事が返って来ます。烏瓜はとても魅力的な花を咲かせる植物で、一晩だけ咲くその花は、とても美しい神秘的な花を咲かせます。ですが、Fさんはその美しい花の方を描くわけではないのです。その神秘的な美しさの花の方を描いたらいいのにと思えるほど、初めて見た時は驚きました。けれども、烏瓜はその美しい花を咲かせたあとに実を実らせます。その実は、カラスさえも見向きもしない実です。その実は食べることもできず、何の役にもたたないのですが、それがいいとFさんは言うのです。

 この烏瓜に自分を重ね合わせ、主がそんな価値のないように思える自分であっても大切にしてくれていることを、そこに見ているのです。

 これが、主の示された福音です。無価値な者を見出す主のあわれみのまなざし、慈しみの愛です。それなのに、どうして私たちは他の人には完璧を求めるのでしょう。いや、別に完璧を求めているわけではない。合格点でいい、そういう思いがあるかもしれません。けれども、それこそが主イエスを苦しめた罪そのものの姿なのです。他の人を愛して、赦して、受け入れることはそんなにも難しいことなのでしょうか?

 難しいことなのでしょう。なぜなら、私たちの中にはキリストのような愛がないからです。この愛を受けた者にしか、この愛は分からないのです。だから、つまずくのです。

 主イエスはここで「つまずいてはいけない」とも言われてはいません。みな、つまずくことを知っておられるからです。人は完全ではないことも知っておられるからです。つまずいてしまうことが悪いことだということでもないのです。大切なことは、主イエスのことを知ってほしいということです。主の愛の思いを知ってほしいということです。だから、主は、ヨハネに使者の口を通して、自分のことを語ってほしい、知らせてほしいと言うのです。聞いて、知ることを通して、主イエスと出会うことができるようになるからです。

 どうか、主イエスを、主イエスの愛を知ってください。このお方の語る言葉を聞いてください。主イエスがどれほど大きな愛に生きておられるか。どれほど、人を赦したいと思っておられるか、どれほど主が人を裁かないお方なのか、その愛と赦しの大きさを知ってほしいのです。主イエスを知ること、これだけが、私たちをつまずきから守ることができるのです。

 お祈りをいたします。

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