・説教 ルカの福音書8章16-18節「明かりのもたらすもの ―聖書とキリスト教の歴史のはなし― 」
2023.8.6
鴨下直樹
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今日の聖書の箇所は前回の種まきの譬えの続きの部分です。この18節には、種まきの譬え話の全体の結びが記されています。最初の予定では先週この18節までを扱う予定にしていたのですが、二週に分けてお話しすることにしました。ですから、覚えていただきたいのは今日の箇所は先週の種まきの譬えと一つの話だということです。そのことを初めに踏まえておいていただいて、この16節以下の部分の、み言葉に耳を傾けたいと思います。
さて、今日の譬えは「明かりの譬え」です。16節にこうあります。
明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。
この主イエスの譬え話そのものは、単純明快です。明かりには、暗い部分に光をもたらす役割があるわけで、その役割を果たさないようにはしないでしょということです。ところが、この分かりやすい譬え話を聞いて、私たちは皆、誰もが同意できるかというとそうではないわけです。
「明かり」というのは、この場合何を指しているかと言えば「神の国の福音」のことであることは明らかです。じゃあ私たちは、この「神の国の福音」を、誰から見ても、その光に照らされるように掲げて生きていますか? と問われたらどうでしょう。
安倍元首相銃撃事件以降、キリスト教カルト集団のことが連日報道されました。統一教会とか、エホバの証人のようなカルト教団のことが取り上げられて「宗教二世」という言葉で、宗教を信じる家の子どもたちは可哀想だという論調が生まれました。ただ、この「宗教二世」という言葉は、どんどん一人歩きしていって、宗教を子どもに強要することの問題点がクローズアップされています。専門家は、ちゃんと「カルト二世」と言った方が良いという主張をしていますが、あまりそういう意見は取り上げられません。そして、日本人の多くは何かの関わりがある神道も仏教も、キリスト教も総じて宗教というものは悪いものだという理解になりつつあります。
昨日もある方と話していたのですが、自分の子どもに教会へ行くことを強要しないようにしていると話しておられました。とても残念なことですが、親の通う教会に子どもを連れていくのは悪いことをしているような感覚が最近では生まれてきてしまったようです。
こういうご時世ですから、私たちキリスト者も「私はクリスチャンです」ということを公にすることに抵抗を感じるようになった人たちも少なくありません。
いくら聖書が「明かりは燭台の上に置いて、光を見えるようにするのです」と言っても、「いや、今は隠しておいた方が賢い選択なんです」という声の方が勝ってしまうような社会に、私たちは置かれているのです。
けれども「明かり」というのは、その性質上、隠せるものではありません。そのため、クリスチャンの家族の中でも、子どもに信仰教育をする上で葛藤があるのだと思います。子どもに信仰を強要するのか、自分で選び取ってもらうのかというのは、いつの時代も振り子のように揺れ動いています。
とても簡単にではありますが、主イエスが来られてからこの「キリスト教」という「明かり」が、どのようにこの世界を光で包むようになったのかという話を少ししてみたいと思います。
皆さんもご存知のように、主イエスの十字架と復活の出来事の後、弟子たちがこの明かりを、人々の前で語るようになったのは「ペンテコステ」の出来事以降の話です。パウロという力強い伝道者が現れて、キリスト教がローマ諸国に広がっていきました。ところが、それは簡単に広がったわけではありませんでした。いわゆる「迫害」を経験したのです。キリスト教がローマの中で認められていくには長い迫害の時代を経験し、約300年という時間を必要としました。けれども、313年にキリスト教がローマの国教として認められると、この教えは瞬く間に世界中に広がっていきます。
この時代になりますと教会には非常に多くの人々が集うようになり、まさに福音の明かりが、世界中にまばゆいばかりに輝く時代となっていったのです。
その後、どうなったのかというと、当時の教会はこの勢いをそのままに、世界中にこの明かりをもたらそうとしていきます。当時の教会は「十字軍」を率いて各地に遠征し、ローマは領土を拡大させていきました。大義名分は「キリストの福音を世界にもたらすため」であったかもしれませんが、この強引な手法で世界を支配し、世界中にキリスト教を強要していきます。けれども、そのあまりにも強引な手法は、様々な問題を生じさせてしまいます。動機が正しければ、方法は何でも良いというわけにはいきません。確かに、この働きでキリスト教の教えは世界に広がりますが、同時に世界は「全体主義」に陥ってしまいます。
この時代になると、キリスト教会は同時にヒエラルキー制度を浸透させて、上が決めたことに下は従うということを強要していきます。こうなると「個人」は無視されていきます。つまり、「キリスト教の拡大」=「聖書の理解の拡大」ではなかったということです。ここからも個を無視して強要することの問題点が明らかになったといえます。このような結果、絶大な権力を持つようになったキリスト教指導者は、その力の持つ魅力に抗うことができず、残念ながら聖書からどんどん離れていってしまったのです。
でも、そんな間違いを教会が認めることはできませんので、キリスト教世界は暗黒期を迎えることとなります。そんな中で、この全体主義のキリスト教に異を唱える運動が起こります。「ルネッサンス」と呼ばれる改革です。これは、キリスト教が隠してきた部分を明らかにしようという運動とも言えると思います。この「ルネッサンス」を通して、キリスト教は「個」というものを取り戻していくようになります。例えばそれまでのキリスト教美術は作者の名前を出さないで、「イコン」のように同じパターンの絵を描くようにルール化されていたわけですが、ルネッサンス期になると芸術家の個性が前面に出てくるようになります。
そんな流れの中で、マルチン・ルターという人物が登場します。ルターは「キリスト教の教えは聖書を根拠にしている」と信じていたわけです。しかし、実際には聖書ではなくて、「聖書と伝承」というものにすり替えられていることに注目して「聖書のみ」を基準にする必要があると語ります。ここで、キリスト教会は、二つに分けられていきます。ところが歴史はこれを全体主義のカトリックと、個人主義のプロテスタントというように二分されていったと認識していきます。
確かにプロテスタントは、私たち一人ひとりが主イエスと出会って、信じて、「わたし」という個人が救われることを大切にしました。ですから、大きく分ければプロテスタントは個人主義ということになるわけですが、ここに新しい問題が潜んでいることがやがて明らかになっていきます。
宗教改革以降のキリスト教世界はやがて「産業革命」を迎えていきます。目覚ましい技術的進歩を経験して、個を重んじるキリスト教世界は、個の力の活躍によって豊かさを手に入れていきます。それと同時に、世の中はどんどん進歩していくのだという考えに惹きつけられていきました。
こうして、世界はより進歩的、より合理的なことを行うようにと舵を切り、現代に至るまでその価値観が浸透していくのです。そこでも、個の利益追求は人をどんどん自分勝手にしていって、弱肉強食の時代となっていくのです。つまり、個を尊重すれば良いというわけでもないということを歴史は教えているのです。
このように、一つの正しいと思える考え方が生まれれば、人々はそれに飛びつきますが、その欠点が見えてくると、反対意見が出てきます。そして、その中間が正しいのではないかと中庸を選択することで世の中はどんどん進歩していくと考えるようになります。このような考え方は、「正反合」などと呼ばれるようなりますが、一つの「正」(テーゼ)、正しい考えが生まれる。例えば、技術世界は最高であるというテーゼができると、「反」(アンチテーゼ)として「そうすると環境破壊が起こるので自然を大切に」という考え方が起こるわけです。更には、技術革命は大事にしながら、自然とも共存していきましょうという新しい「合」という考え方が生まれるようなるわけです。こうしてどんどんより良い世界になると人々は考えるようになっていったのです。
しかし、このように産業革命によって生み出された合理主義的な世界は、環境破壊と共に、その誤りに気がつき始めます。
そして、何でこうなったかという原因探しをし始めると、この世界を悪くした張本人は「個人主義」を生み出したキリスト教にあるという「アンチテーゼ」が生まれます。
それで、今ヨーロッパの国では、この世界をダメにしたキリスト教を捨てて、アジアの世界観、宗教観が大切だ、自然と共生していく教えが素晴らしいと言って、世界は「ニューエイジ」と呼ばれる思想が台頭しています。ヨーロッパではキリスト教は古い教えで、アジアの宗教こそが新しいという流れが出てきています。こんなふうにヨーロッパから認められると、日本人として悪い気はしないのかもしれませんが、事柄はそんな単純な話ではありません。これは汎神論と言いますが、この世界そのものが神、あれもこれも全部神であるという考えになってしまうわけです。
今、私はこの世界のキリスト教の歴史を単純化して説明したわけですが、この単純化によってたくさん欠落したものがあります。世界は実際にはそんなに単純ではないのです。たとえば十字軍によって、キリスト教が広がったことの中にも、良い面と悪い面があるはずで、そのどちらにも目を向ける必要があります。ルネッサンスにも、宗教改革にも、産業革命にも、アジアの宗教にも、光と闇は存在するのです。
物事を単純化していくと、分かりやすいのですが、それによって大事なものがいくつも抜け落ちていってしまいます。
たとえば最近の考え方である「宗教は怖いもので、子どもの自主性を奪うものである、だから悪である」とは単純には言えません。その逆も同じで、子どもの自主性を強調すれば良いものを選び取るのかというと、そういうわけでもありません。考える基準を持たなくなってしまえば、そこで大切な多くのものを、どぶに捨ててしまうことにもなりかねないのです。
明かりのもたらす役割は何か、福音とは何か、そのことが分かっていないと、人にこの明かりを良いものだと紹介することもできません。また、その光を間違った受け取り方をすれば、闇を照らすはずの光は、強制されたもの、ただ眩しいものでしかなく、自分には合わないものだったとなる可能性だってあるのです。
光の役割はこの17節ではこのように言われています。
隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。
ルカはここで明かりの役割は「隠れているものをあらわにする」と言っています。つまり、善悪の基準ができるわけです。光が当たることで、影を生み出すものが何かが分かるようになるのです。人を苦しめるものは何か、人から自由を奪うものは何かが分かるのです。そのことが分かれば、人はそこから自由になっていくことができるのです。
「真理は私たちを自由にする」のです。光と闇のもたらすものが分かって、自由になるのです。その役割を果たすのが、聖書であり、神の言葉です。
そこで考えたいのは、たとえば神の言葉を聞くときに、不自由を感じることがあるかということです。もし、悪いことをしたいと思っている人がいれば、光は不自由さを与えるものになるに違いありません。人のものを奪いたい人にしてみれば、聖書の教えは邪魔な教えです。けれども、この教えが無ければ、この世界は秩序を失います。つまり、聖書はこの世界に善悪を教え、秩序をもたらすためにあると言うことができるのです。
少し前に行われた東海聖書神学塾の公開講座で、「異端・カルト問題におけるキリスト教会の使命」という講座がもたれました。そこで、講師の先生がカルトの定義としてこう言っておられました。「その教えで誰かが悲しむのだとしたら、その教えはカルトである」そんなふうに言われました。私はこれを聞いた時に概ね同意しましたが、そこで苦しむ「誰か」や「悲しみ」の中身をきちんと定義しないといけないなと思わされました。というのは、例えば家族の中で自分だけがクリスチャンで礼拝に出れば、家でお昼ご飯を待っている夫は悲しむわけです。あるいは、日曜日に教会に行く為に欠勤すれば、同僚がその代わりに出勤しなければならないということもあるでしょう。そうすると、どんな良いものでもカルトになってしまう可能性があるからです。
カルトというのは、実は宗教だけに限りません。一つの考えによって集められた集団もカルトとなる可能性があります。けれども、カルトかどうかを見極めるために他の基準として「危険性」というものが取り上げられます。その危険性の故に、周りに悲しむものがあるかどうかが、見極める大切な要素です。たとえば精神が侵される、金銭的な要求がある、生まれ育った環境から切り離される、健康が脅かされる、これは一部ですが、そのような危険性が含まれているかどうかでカルトかどうか判断できるのです。
キリスト教や、聖書に関連する名前を使いながら、さまざまな危険性をもたらす教えは、周りの人々に悲しみをもたらします。それらの教えは明らかに「明かり」の役割を果たしていません。
「明かり」の役割というのは福音ですから、人に喜びをもたらすはずのものです。暗闇に怯えなくてもよくなるものであるはずです。そして、そのような良い教えであるなら、その明かりはこの世界に自然にもたらされるものとなるはずなのです。
こうして、実際にキリストの福音の明かりは世界に証しされてきました。そしてそれと同時に、明かりではないものもまた、それに付随して世界に示されてきてしまったのも事実です。教会の歴史は、人の罪と誤りの歴史であると言うこともできるのです。聖書の語ることから外れたら、それは福音の光とは別物の、「のようなもの」になってしまうのです。
宗教改革者ルターは、「日毎の悔い改め」と言いました。私たちは間違う存在だからです。ですから、いつも客観的に、外からの目で自己批判をし、「これは本当に福音か?」ということを再検討していかなければならないのです。
18節にこうあります。
ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。
福音の聞き取り方が大切なのです。
先の譬え話にあったように、ある種は道端に落ち、鳥が持っていってしまいます。ある種は岩地に落ち、根が無いので枯れてしまいます。ある種は荊の中に落ち、さまざまなものに塞がれて、実を実らせることができないのです。
分かったつもりは、分かってはいないのです。福音は百倍の実を実らせます。何が真実か、何をどう判断するのか、その真理を見抜く力を私たちにもたらすのです。隠れているもので明らかにされないものは無いのです。悪い考え、悪い教えは、かならず明らかになります。人を苦しめる教えは、人を苦しめるものにしかならないのです。
けれども、神の言葉は、光です。福音には明るさがあり、人に安心感と、慰めをもたらします。私たちに平安をもたらし、喜びを与えるのです。もし、何かの教えを大事にしていたとしても、そこに、平安が、喜びが無いなら、それはもう一度再吟味することが必要となるのです。
美味しいものを食べれば、「あのお店のこの料理は美味しかったよ」と伝えたくなります。聖書から、確かな基準を受け取れば、「聖書のこの考え方は自分に自信と確信を与えたよ」と教えたくなるものとなるはずです。
私たちは自分たちの子どもに、間違った教えを強要したいわけではありません。まず、必要なのは、自分自身がこの神の福音によって生かされている喜びを経験することです。そうしたら、その喜びは子どもにも同時に伝わっていくのです。
皆さんにとって、聖書が、福音が、そういう喜びの知らせであると、まず、皆さんの心の中に受け取られることが、何よりも重要なのです。
この福音は、今も世界中で多くの人々を惹きつけ、多くの人を慰め、喜びを与え続けています。この福音の光を、私たちも、私たちの周りの人に届けていきたいのです。
お祈りをいたします。