・説教 ルカの福音書8章19-21節「神の家族=み言葉を聞いて行う者」
2023.8.13
鴨下直樹
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今、私たちの教会では「信徒交流会」ということで、夏の間の祈祷会は、信徒の方々が担当してくださっています。担当になってくださる方はほとんどみなさん証しをしてくださっています。先週は、水曜日は私の娘のキャンプの報告と、Sさん、木曜日はMさんが証しをしてくれました。
先週話してくださった方も、その前に証ししてくださった方々もそうですが、決まって家族のことを取り上げられます。特に、木曜に話してくださったMさんは、今は結婚して山口県の岩国におられますが、今ちょうど帰省してきておられます。その証しでは、信仰に至るまでの、クリスチャンホームで育った中での葛藤をお話しくださいました。その証しをお聞きしながら、改めてクリスチャンホームの家庭の子どもたちが信仰に導かれる難しさというものに気付かされます。
先週の説教でも少しお話ししましたけれども、私たちは今、全体主義の世界に生きてはおりません。個人が尊重される時代のなかで生きています。家族がクリスチャンだから、子どもの自分もクリスチャンになるように期待されていることは分かるわけですが、親の信仰と、自分はまったく別物です。いくら親が強制したとしても、自分で神様と出会うことなしに自分の中には信仰心は生まれません。この神様との出会いというのは、自分で神様とお会いして自分の心が動かなければどうにもならないことです。
今日の聖書の箇所はまさに、主イエスの家族はどうであったのかということが記されています。
19節にこのように書かれています。
さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。
主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちが訪ねてきたというのです。
その続きはこのように記されています。20節と21節です。
それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」
イエス様の家族の立場で考えるとちょっと悲しい気持ちになってしまいます。ただ、ここを読んだだけでは、主イエスは結局のところ兄弟たちと会ったのか会わなかったのかははっきりしません。
私たちはこれと同じ出来事がマルコの福音書にも書かれていることを知っています。そこでは、主イエスがおかしくなってしまったのではないかという噂が広がって、家族が主イエスの活動をやめさせるためにやって来たという流れで書かれています。
ところが、ルカはそういう流れでは書いていませんので、マルコの福音書のことは一度忘れていただいて、ここを読んでいただきたいと思います。
そう思って、聖書の解説をいろいろ読んでいきますと、面白い解釈が出てきました。新改訳ではここを「しかし」と訳していますが、新共同訳聖書や、協会共同訳では「すると」と訳されています。これらの聖書はカトリックの人たちと一緒に使える聖書の翻訳を試みているのですが、最近のカトリックの解釈にはこんな解釈があるのです。
「『神のことばを聞いて行う人たち』とは、この人たちです」と主イエスの母と兄弟を紹介したのだという解釈です。これは、これまでの読み方とは正反対の解釈です。マリアさんたちこそが、み言葉を聞いて行う者なのだというのです。そのように理解するためには、この文章を「しかし」とは訳せないので「すると」と訳しているわけです。
さきほど、説教の前の「聖書のおはなし」でカナの婚礼の話がありましたが、そこではマリアが主イエスに執りなしたことで奇跡が起こりました。カトリック教会ではマリアさんが主イエスに執りなしてくださるのだという理解があって、そこからマリアも崇拝の対象になっているというわけです。そういうマリアさんですから、その前の18節に出てくるような、み言葉を聞いても行わない者の代表のように出てくると、困ってしまうのでしょう。ということでこれまでの理解と正反対の解釈が出てきてしまっているのです。
たしかに、ルカはマルコのように、主イエスが家族に対して厳しい態度をとったことは和らげられています。けれども、さすがにこの解釈はやり過ぎと言わなければならないと私は思います。
やはりこの文章の流れでは、21節の「しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです』」というのは、主イエスの母や兄弟のことではなくて、「神のことばを聞いて行う人たち」のことを神の家族と呼んでいると考えて間違いないと思います。
けれども、そうだとすると、ルカはここでどうしてこの文脈でこの話をここに置いたのかということを考える必要があります。
ルカは、8章の冒頭で十二弟子について語った後で、女の弟子たちを紹介しました。その後で、種まきの譬えと、明かりの譬えをしています。ここでは「神のことば言葉を聞いて行う者」というテーマが貫かれています。
そうだとすると、主イエスは、神の家族、神の国に入れられる神の民というのは、血縁や、イスラエル民族であるということではなくて、自分で神のことばを聞いて、自分で神に応えていく人々なのだということをここで明らかにしようとしていることが分かってきます。
主イエスの母であろうと、兄弟であろうと、そこに忖度は通用しません。親がクリスチャンだから、子どもも神の国の民に自動的に選ばれるということではないのです。自分自身で、神の言葉をどう聞いて、どう応えていくかという、まさに自分の信仰がここで問われているのです。
もちろん、主イエスは家族を大事にしていなかったわけではありません。主イエスは公生涯=公の生涯を始められたのは「およそ30歳で」とルカの福音書の3章23節で語られていますから、それまでの間は家族と共に歩んでいたと考えられます。お父さんのヨセフさんは大工をしていましたから、大工の仕事を手伝ったのではないかなどと考えられています。そこから独り立ちして、伝道の生涯を送られたのです。
そして、やがて、主イエスの兄弟たちも、弟のヤコブはエルサレム教会の指導者になり、もう一人の弟ユダも聖書の後半には手紙を書く人物になっていますから、それぞれ自分自身で信仰の道を歩むようになったことは間違いありません。
それこそ、どのように主イエスの弟たちが信仰に導かれたのかお会いしたらぜひ伺ってみたいとも思います。
主イエスは言われました。
「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」
ここから、「神の家族」という考え方が生まれるようになります。これまでの血縁の家族を超えて、もっと大きな神のみ言葉を中心とした、隣人を愛して受け入れていく大きな神の愛の家族を築き上げるようになっていったのです。
その中心にあるのは「神のことば」です。神の思いです。神を愛して、隣人を愛するという神の意志が中心になって広がる愛の家族による世界の形成を、神は願っておられるのです。
先日Mさんが証しの中で「洗礼を受けた時に分かったことが全てではなくて、その後の歩みの中で、神様の愛の大きさと、自分の醜さにどんどん気付かされていく」と話してくださっていました。そのような歩みを、私たちは誰もが繰り返すのです。
私たちは人と比べて落ち込むこともあります。あるいは、自分が思い描いているような幸せな生活になっていないことに苦しんだり、もがいたりしながら生きています。そんな中で、神の言葉が、私たちに向かって語り掛けられていく中で、神のみ思いを知ると同時に、それまで気づいていなかった自分の醜さや、自分の罪に気付かされていくのです。そして、そのような罪さえも、主イエスは受け入れ、自分を愛して、赦してくださるということに大きな驚きを感じながら、主の愛に触れていくことになるのです。
主は、いつもみ言葉をもって私たちに語りかけてくださるお方です。私たちに語られたみ言葉は、私たちの心の中に残らなくて、右から左にこぼれ落ちてしまうこともあるでしょう。「そんなこと言ったって、現実は甘くない!」という思いでみ言葉を受け入れられない時もあるし、み言葉が分かったと思っても、長続きしなくて、なかなか実を実らせるまでにはいかない、そんな経験ばかりなのかもしれません。
「世界の大谷さんでも3割バッターなのだから、3割しか実を結べなくても大丈夫」とか、「私の頭はザル頭で、聞いたことがほとんど抜け落ちている」ということも体感としてはあるのかもしれません。その時の自分の心の状態というのがありますから、どんどん吸収できると思える時もあれば、最近はダメというようなこともあるのかもしれません。
けれども、私たちに語りかけられているのは神のことばです。その種の中には、爆発的ないのちが宿っているのです。何が、どこで、どのように実を結ぶか分かりません。間違いないことは、み言葉を聞いていなければ、何も起こらないということです。
0×神様=0なのです。けれども、1でもあれば、神のことばには無限大に広がる可能性があるのです。
大切なことはみ言葉を聞いて、行うことです。聞いて、行うことです。大切なので、二度言いました。聞くだけで終わりではないのです。この「行うこと」に意識が向くことが必要です。
愛すること、受け入れること、赦すこと、そこには実践が不可欠です。それが、身につくまでは、習慣になるまで続けることが大切です。野球でも、サッカーでも、それこそ俳句を作ることでも、やり続けることで身につくのです。
ぜひ、このみ言葉を聞いて、行うことを実践してみてください。そこに大きな祝福があることを、身をもって味わうことができるはずです。
うまく泳げるようになるためには、理屈だけ分かっていても泳げるようにはなりません。み言葉がそこにあるだけにするのではなく、み言葉に生きてください。
そういう話をすると、どうしても「ああ私はダメだ・・・」と自信を失ってしまう方もあるかもしれません。「み言葉を行わなければダメ」ということではなくて、まずみ言葉と共に歩んでいただきたいのです。そのために私たちには聖霊が与えられています。聖霊が私たちを助けてくださいます。
神の国は、み言葉を聞いて、行うことで、神の家族が築き上げられていきます。人を愛すること、人を受け入れること、人を赦すこと、そのようにみ言葉に生きていくところに、豊かな実りが約束されているのです。
お祈りをいたします。