2023 年 10 月 1 日

・説教 ルカの福音書9章1-17節「主イエスと共に働く~神の国のインフルエンサーとして」

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2023.10.1

鴨下直樹

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 先週、私たちは東海合同礼拝を行いました。東海地区の64の教会がオンラインで、一つの礼拝を行いました。約3,000人の人々が集まって礼拝したのです。これは画期的なことで、これまで、こんなことができるなどということは誰も考えたことのないような礼拝でした。

 東海地区では、この伝道会議のために、ひとつのテーマを掲げました。そのテーマが「神の国のインフルエンサーとなる」です。「インフルエンサー」というのは、ここ数年前から語られるようになった言葉で、「影響力を及ぼす人」という意味のある言葉です。主にSNSなどに新しい情報を発信する人たちのことを言います。

 「神の国のインフルエンサーとなる」というのは、私たちクリスチャンが、この世界に神の国の福音を伝える影響力のある人になっていきましょうということです。そこで、合同礼拝では、開催地企画室長を務めてくださったインマヌエル名古屋キリスト教会の内山勝先生が、「地の塩、世の光」というテーマで、マタイの福音書の5章から、私たちは、すでに地の塩、世の光とされているのですから、もう私たちは神の国のインフルエンサーなのだという力強い励ましのメッセージを語ってくださいました。

 今日の聖書箇所はルカの福音書9章です。少し長い箇所で、1節から17節までの中に、十二弟子の派遣、ヘロデの主イエスへの関心、そして五千人の給食の奇跡という3つの出来事が記されています。この3つの出来事にはすべて「神の国の福音」がどのように広がっていくのかが記されています。

 まず、簡単に9章の流れだけ見てみたいと思います。主イエスは十二弟子を遣わします。1節と2節にこのように記されています。

イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。
そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。

 まず、この1節と2節で、主イエスの弟子たちは神の国の福音を宣べ伝えるために派遣されていくのですが、そのために悪霊を制して、病気を治す力と権威が与えられたと記されています。

 「神の国の福音」とは何でしょうか? 神の国というのは、神の支配のことです。神が一緒にいてくださるということです。それは、主イエスがおられるところには、神が一緒にいてくださって、共にいてくださって、神が私たちと共に歩んでくださるということです。

 神が共にいてくださることは、病気が癒やされたり、悪霊が追い出されたりすることで分かるようになるのです。この悪霊からの解放や、病気の癒やしということは、この前の8章でも語られています。神の支配というのは、具体的に、体感的に神が共にいてくださることが感じられるようになることだと、すでに8章までで明らかにされています。

 やがて、この権威を与えられた弟子たちの働きが噂になって、当時のユダヤ地方の総督であったヘロデの耳にまで入ります。ヘロデはこの噂に驚きを隠せませんでした。というのも、ヘロデはすでにバプテスマのヨハネを殺害した後だったからです。もう、このような人物はいなくなったと思っていたのに、主イエスとその弟子たちが同じような働きをし始めて、その影響力が無視できなくなってきたことが、ここで明らかにされています。

 つまり、主イエスの弟子たちは「神の国のインフルエンサー」として、この時点で地域に影響力を与え始めていたわけです。そういう意味では、主イエスとその弟子たちによる神の国のインフルエンサー事業はそれなりの成果を収めたわけです。

 それで、派遣の期間が終わって弟子たちが戻ってくると、主イエスは弟子たちをつれて「ベツサイダ」という町で休憩を取ることにします。

 ところが、休むために訪れた場所にも、群衆はやってきます。11節にこうあります。

ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。

 主イエスにしてみれば、そこまで人々が熱心に神の国の福音に興味をもって集まって来てくれるわけですから、もちろん喜んで人々を迎え入れます。ところが、弟子たちはというと、そうではありませんでした。

 12節を読むと、もう休みたいという気持ちになってしまっている弟子たちの思いが全面に出てきています。

日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」

 ここに、弟子たちと主イエスの、人々に対する思いの差が明らかになります。主イエスとしてみれば、弟子たちを休ませてあげたいという気持ちはあるのですが、優先順位は断然、神の国の福音が広がることが先です。

 けれども、弟子たちからすれば、休みは休みのはずです。言ってみれば自分たちの当然の権利だという思いがあったのかもしれません。常識的に考えれば、弟子たちの休みたい、もう群衆たちを帰して欲しいというのは、私たち誰もが共感できることでしょう。

 むしろ、それでも十二弟子に、群衆の食事のもてなしをしなさいと命じたとすれば、コンプライアンス的にどうかということになりかねません。こんなブラック企業のような環境に私たちを置いて、こき使うなんて、この指導者は悪い指導者だということにもなりかねないわけです。

 それならば、なぜ、主イエスは弟子たちに「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」と言われたのでしょうか? 弟子たちはこの時、13節で「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」と答えています。

 この弟子の答えで分かるのは、弟子たちはこの時、これだけの食べ物で満足しようとしていたということでしょう。主イエスを入れて13人の食事として、パン5つと魚2匹は十分とは言えません。けれども、みんなで分け合って、それで食事としようと考えていたわけで、その食べ物を男だけで5,000人もの人に配ることは、できることではありません。

 そんなのはパワハラですと言いたくなるような思いであったかもしれません。きっと、今なら、それはパワハラですと言うのだと思うのです。一人100円のパンを買って与えたとしても、もし1万人いたら100万円は必要ということになります。

 先日行われた伝道会議で、開催地の私たちは1,000人以上の人たちの食事を毎回準備しなければなりませんでした。食べる物をどの店で注文するか。食べた後のゴミの処理をどうするか。ご飯を食べずに帰ってしまう人の分をどうするか。それをお昼と夜と、3日間考えなければなりませんから大変です。しかも、余らせて捨てることもできないので、この準備は大変でした。

 開催地の先生たちはよく、この五千人の給食の話をしました。途中で予定を変えてしまって帰られる人たちがたくさん出るので、100食単位で食事が余ってしまうのです。けれども、12のカゴにいっぱい余りましたで「良し」とはできません。担当の先生が余った食事をあの手この手で配った結果、毎回余ることも足りないこともないように、完全に食事を配り切ることができたので、それは本当に嬉しい出来事でした。

 ただ、誰も知らないところで、こんな作業があるのだということが今回本当によく分かりました。弟子たちは、まさにそういう誰にも見えないところで、食事を整えることの大変さを知っていたからこそ、これを私たちがやるんですかという思いがあったのだと思うのです。

 主イエスはそういう裏方の仕事の大変さを知らなくて、弟子たちに命じたわけではないはずです。そうであるとすれば、ここで主イエスが食べ物を準備することで、弟子たちに見せたい物、気がついて欲しいことがあったはずなのです。

 肝心なのは、主イエスが弟子たちに見せようとされたのは何かということです。このことが理解できないと、この奇跡の持っている意味は分かりません。

 主イエスはなぜ、弟子たちに5,000人の食事を用意することを求められたのでしょうか?

 主イエスはこの後、人々を50人ずつ組にして座らせて、5つのパンと2匹の魚をとって、天を見上げ祈ってから、それを裂いて群衆に配りました。

 これは、聖餐式の手順とまったく同じだということに気づきます。つまり、ここで主イエスはパンを与えて、群衆の空腹を満たそうとしておられるのですが、これは、まさに神の福音を、目の前で見せてくださっているのだということに気がつくのです。

 神の国の福音とは、神が共におられ、その神の支配の中で平安を覚えることができるということを示しています。そして、ここでは主イエスと共にあることで、食べ物が与えられるという平安を体験させておられるのです。

 神の国の福音というのは、精神衛生上の平安のことだけを言っているわけではありません。心が平安になるということだけではないのです。衣食住のすべてが実際に備えられることを、ここで示しておられるのです。弟子たちは派遣された時に、着る物も食べる物も何も持って行かないようにと主イエスに命じられました。食べる物も、着替えも不要だと言われたのです。住む所も、受け入れてくれる人の所に入りなさいと言われました。そして、弟子たちはその通りに経験をしてきたはずなのです。

 神の国の福音というのは、神が共にいてくださって、生活を支配してくださるということです。そこには目に見える必要なものも備えられることが含まれています。だから、悪霊を追い出したり、病気を治したりする権威を弟子たちにもお与えになったのです。

 しかも、そうして与えられる平安は、ギリギリなんとかなりましたというものではなくて、12のカゴに余るほどのものだという事実を、主イエスは弟子たちの前に示したかったのです。

 自分たちが語っている神の国の福音の力強さを、現実的な幸いの姿を、主イエスは何よりもまず弟子たちに体験させたいと思っておられたのです。

 これが、主イエスと共に歩むということです。主イエスは私たちに、私たちの実際の生活が支えられる幸いを味わってもらいたいと願っておられるのです。そして、私たちは誰もが、この神の国の福音の中に生かされているのです。このことが分かるなら、私たちは誰もが神の国のインフルエンサーになることができるのです。

 神の国を、自信を持って、私たちの周りの人に示すことができるのです。

 先週の合同礼拝でも語られていたことを、もう一度ここでお伝えしたいと思うのです。私たちは、すでに地の塩、世の光です。もうすでに、神の国の福音を味わう者とされています。だから、このことを、私たちは私たちの周りの人たちに証して行く者となりたいのです。

 お祈りをいたします。

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