2010 年 3 月 7 日

・説教 「心の貧しい者の幸い」 マタイの福音書5章3節

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:57

鴨下直樹

 今日の聖書は大変短い箇所です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。という所です。先週より「山上の説教」と呼ばれる箇所から、御言葉を聞いていますけれども、その最初に九つの幸いの言葉が語られています。神の祝福の言葉が連ねられているのです。ところが、この幸いの言葉、祝福の言葉は、聞く私たちを驚かせます。

いきなり「心の貧しい者は幸いです」というからです。私たちが幸せだと思う人というのは、暖かい家族に囲まれている人、経済的に恵まれている人、健康にふるまっている人、沢山の良い友人に恵まれている人のことを見ると、「ああ、この人は幸せそうだ」と考えます。ところが、ここでは、「心の貧しい者は幸い」という。一体どういうことなのだろうかと、考えさせられてしまいます。

 「心の貧しい者」というのは、私たちが一般的に使う場合、例えば「思いやりがない」、とか「心の荒んでいる」、「人に親切にすることができない」というような人を見ると使う場合があります。根っから人に対する心のない人のことを、心の貧しい人と考えるのです。そういう人を私たちは、毎日、様々なテレビのニュースや新聞で見聞きします。しかし、そのような事件を引き起こしてしまうような心の貧しい人を、主イエスは幸せだと言われているとすると、それはどういうことだろうかと考えざるを得なくなります。

 そうすると、わたしたちはここで言われている「心の貧しい者」というのは、特別な意味なのではないかと考えるのです。たとえば、ルカの福音書でも同じことが語られているのですけれども、そこで語られているのは「貧しい者は幸いです」と語られている。ルカで語られている貧しさは、もっと現実的な貧しさです。心が貧しいだけではない、物質的にも貧しい人となると、やはりどう考えても幸せとは言えない。それで、マタイが、「心の」と付けたのには理由があるのであって、それは「神の前に貧しい者」という意味なのではないかと考えます。神の前に貧しいというのはどういうことかというと、「神の前にへりくだった思いの者は」という意味ではないかと考える。だから、ここで語られていることは「神の前で謙遜であること」ではないか。ここで言われている「心の貧しい者」というのは「謙遜な人は」という意味なのだと受け止めようとする人たちは少なくありません。

 ところが、ほとんどすべてのと言ってもいいほど、多くの聖書学者たちはこの考えに賛成しません。この「心の貧しい」という言葉は、「謙遜」を意味する言葉ではないと口をそろえて言うのです。マタイの福音書が語る「心の貧しさ」というのは、物質的な貧しさを含む貧しさです。物質的にも貧しいけれども、心も貧しい、そういう本当にどうしようもない貧しさのことがここで語られているというのです。ある書物では、今日の貧しさとこの時代の貧しさというのは異なっていただろうと説明しているものがあります。どういうことかと言いますと、今日の経済では、物資の供給は限りがないとされている。作ろうと思えば、なんでもどれだけでも生産することが可能なのです。ところが、需要と供給のバランスが崩れてしまうのでそれをしないのです。しかし、主イエスの時代というのは、物資には限りがあると考えられていた。だから、誰かが多くのものを手にいれれば、誰かがかならず貧しくなるという社会であった。そうなると、貧しいというのは、自分のものを守ることができないという意味をもったのではないかと説明します。そうであるとすれば、貧しいというのは、どうしようもない貧しさです。必要なものがないということです。必要なものが無ければ生きることすらできない、そういう貧しさがここで語られている貧しさなのです。

 それと同時に、もうひとつ心に留めなければならないのは、やはりマタイはこの貧しさに「心」という言葉を補っているということです。ここで「心」と訳されている言葉は一般的に「霊」と訳されている言葉です。「霊において貧しい」ということです。つまり、神との関係における貧しさのことも語られているのです。物質的に貧しいだけに留まらず、神との関係においても貧しい、はっきり言うと神との関わりにおいて貧しいのですから、神と関係なく生きている者ということになります。

 そうすると、主イエスはここでどうしようもなく貧しい人間、物質的にも貧しい、心も貧しい、神との関係においても貧しい、そのような人は幸せだと語っているということになります。そして、そのことが、多くの人に驚きを与えるのです。どうしようもない人です。そんな人が果たして幸せと言えるのか、と誰もが思います。

 

 毎日、さまざまな事件が起こっている。人のものを盗む、家族の中で傷つけあう、あるいは、自分は満ち足りていると思いながら、貧しい者に目もとめない生活がある。次々に職を失い、住むところを奪われている人々がいる。そのような人に主イエスはあなたがたは幸せなのですよ、と語っておられる。神との関係において、生きていない人に同じように言われているとすると、それは何を意味するのでしょう。ここで語られている心の貧しさというのは、この人は貧しいから恵んでやろう、と思うしかない人ということです。気の毒だとしかいいようがない。だから助けなければどうすることもできない。この貧しさに何かあるとすれば、ただそれだけのことです。それは、ただ、貧しいということであって、祝福でもなんでもない。謙遜でそれをしているわけでもない。しかも、その貧しさがあるからといって、そこに、その貧しさを打ち破る者が隠されているというのでもありません。そこに、幸があるなどととうてい見出し得ないような貧しさが、ただ、ここでは語られているのです。

 

 私たちは貧しさの中にある時、そこで生まれる感情は妬みやひがみといった感情です。あるいは、そこから自己憐憫が生じるか、社会や環境や政治に代表される誰か他の人や物の責任にしたい思いが浮かび上がってくる。少し何かを手にいれたと思うと、すぐにその次に浮かんでくるのは貪欲です。もっと、もっとという思いです。そして、そのような貪欲は尽きることがありません。だからこそ「貧しい者が幸い」、「心の貧しい者は幸せ」などという言葉は理解できないし、したくもないのです。いや、貧しさの中に幸があるなどということを、人は本来理解することはできないのです。

 

 

 さきほど、マタイの福音書に先だって、エレミヤ書20章の御言葉を聞きました。7節から13節です。この預言者エレミヤは主によって預言者とされた。自分の思いではなかったので、ここでは「あなたは私を惑わした」と言っています。エレミヤが神の言葉を語れば語るほど人々はエレミヤをあざ笑う。だから、もう語るのを止めようと思うのにそれもできない。そうして、文字通り貧しい者になったのです。人が慕わしいと思うものは何もないのです。けれども、最後の13節では「主に向かって歌い、主をほめたたえよ。主が貧しい者のいのちを、悪を行なう者どもの手から救い出されたからだ。」と、神を賛美するのです。 エレミヤはここで、理解できない理不尽な厳しさを神からつきつけられながら、その貧しさの中に生き続けました。その苦しみを味わいつくしたのです。けれども、そこで不思議なことを経験させられるのです。神の守りです。神の支えです。ここでエレミヤが自らを「貧しい者」と語っています。ここでエレミヤが語る「貧しい者」と、山上の説教で主イエスが語る「心の貧しい者」は、同じ意味であることがお分かりいただけるのではないかと思います。

 

 あるいは、「貧しい者」という言葉と聞くと、すぐに思い出すのは、宗教改革者のマルチン・ルターです。ルターはその死の二日前にある文章を記していました。その結びにこう記されていました。「私たちは乞食である。そしてそれは本当のことである」と。この言葉がルターの最後の言葉となったことは大変よく知られています。このルターの言葉は、この山上の説教の冒頭の「心の貧しい者は幸いである」をもっともよく表わす言葉として、歴史の中で記憶されてきました。ルターは、預言者エレミヤと同様、本当に自分が何も持たないものであり、貧しい者であったことを自覚していました。謙遜でこの言葉を残したのではないと思います。まさに、貧しさの中で、自分は何もないという戦いの中から、ただ神のみに期待し、神のみを求め続けて自分の生涯を閉じたのです。そして、このルターを神は祝福なさったのです。このルターが神の御前でわたしは乞食であると言いつつも、尚も自分に絶望しないで、神に期待しつつ生きる人生をお与えになったのです。ここに神の祝福があります。神が与える幸いの姿があるのです。

 

「杖をついた物乞い」(Ernst Barlach: Bettler auf Krücken)1930

バルラハ「杖をついた物乞い」

「乞食」というと、わたしはすぐにドイツの彫刻家エルンスト・バルラハの「乞食」という作品を思い起こします。両脇に杖を抱えながら天を仰ぎみている者の姿の作品です。以前、写真とともにお見せしたので覚えておられる方も多いと思います。私はこの作品と、ドイツのいたるところで出会いました。ウルムの大聖堂でも、北に位置するハンブルグの美術館を筆頭に、さらに北のリューベックや南の街ウルム、やや中心にあるミュンスターの教会でも見かけました。おそらく探せばもっとたくさんのところにあるのではないかと思います。この作品は、本来は他の作品と共にシリーズとなっているものですけれども、この作品を色々な教会で置いているのは、私の想像ですけれども、おそらくこのルターの言葉と、この作品が一つの連想を生みだすからなのではないかと思っています。そして、この「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」という御言葉を思い起こさせるのです。神を見上げる他何もできない乞食、けれども、主イエスはそのような物を幸いだと語って下さり、その者に天国を下さると言われる。そこに、多くの人々が慰めを見出すのだと思うのです。 


 そうです。主は、そのようなどうしようもない貧しさの中にいる者、神との関係においてさえ貧しいような者をも神の国へと招いてくださっている。ニュースにでてくるような、人を傷つけてしまうような心の貧しい者、人から搾取してしまうような心の貧しい者、憤りを覚えるほどの不当な行為をする者を主イエスは天国へと招いてくださる。

 そうです。この世界に生きる貧しい私たちを、主イエスは天国に住まわせるために招いてくださるのです。

 

 今、何人かの方々と個別で洗礼のための準備会をしております。今学びをしているある方と、ハイデルベルク信仰問答の話をいたしました。その方が読んでみたいと言われたのでお貸ししました。先週、その方がこれを読んで、最初の問いに驚いたと言われた。最初の問いはこうです。

 問い 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

 答え わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。

 この方はもうすでに、この言葉を暗唱しておられました。その方は、自分はここに語られている「私は生きる時も、死ぬ時もキリストのものである」ということを本当の意味で理解したいと言われ、最後の祈りの時にも、この言葉をそのまま自分の祈りとして祈られました。このことが理解できますようにと。その姿に私は感動を覚えました。

 ハイデルベルク信仰問答は人間の悲惨さ、惨めさはどこから来るかということろから始まります。その悲惨がどれほど大きなものであるか、どうしたらこの罪と悲惨さから逃れることができるかを語ります。それが、わたしは神のものであるというこの慰めのなかに生きることだと教えるのです。だから、ハイデルベルク信仰問答の問い一の答えは続いてこう答えます。

 主は、その尊き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの御父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪の毛も落ちることはないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の命を保証し、わたしが、心から喜んで、その後は、主のために生きることができるように、してくださるのであります。

 この信仰問答は、私たちがキリストのものであることを知らないことが、私たちの悲惨のみなもとであり、そのことが罪であると語っています。そして、このお方が、キリストの者であることを知らないわたしに代わって、神と貧しい関係にしか生きていないわたしに代わって、罪の代価を十字架で支払ってくださったので、この主イエスによってわたしたちは、その後、喜んで生きることができるようになると語っています。

 ルターの言葉で言えば、わたしたちは乞食であるという表現が、ここでは、キリストがわたしたちのすべてであるという積極的な言い方で、同じことが表現されていると言うことができます。真のなぐさめ、それは、主イエスのものとなるところから来るのです。わたしのすべては主のものである、との信仰問答の言葉は、言い換えればわたしは乞食であるということです。

 牧師という仕事をしていますと、多くの方々の悩みごとを耳にします。病の中での苦しみの言葉を聞く。悩みの言葉を聞く。家庭の問題、子どもや夫婦の問題。本当に、誰もが真の慰めを求めています。そこで、いつもわたしの心に響いてくる一つの言葉があります。「様々な問題を今、抱えていたとしても、それでも、わたしは主のものです。だから、大丈夫です。」と言うことができるように、主は私たちにしてくださっているのではないかと思うのです。そういつも信じてさまざまなことばに耳を傾けているのです。「いろいろありますが、それでも、大丈夫です」と応えられるのが、信仰に生きることではないかと。

 けれども、わたしたちはそこで、自分の貧しさに嘆いてしまう。まだ、わたしのここが足りないから。ここが不十分だからこうなってしまうのですよね、とそういう自分の足りない所を見つけることで、自分を納得させてしまっているのではないか。結局自分を責めて、そこに解決があるかのように考えてしまう。もっと、自分がちゃんとしていないといけないと。

 しかし、主がここで語っておられる貧しさは、自分の足りない所を見つける余地もない貧しさなのです。どうしようもない貧しさです。貧しさは貧しさとしか言いようのないものです。そして、それほどあなたが貧しいからこそわたしはあなたを恵みたいのだ、そのことに気づいて欲しい、と主はあなたにここで語っておられるのではないのでしょうか。すべては主から来るのです。私たちは乞食にすぎないのです。私たちがそのことを認める時、主は私たちに天国をお与えくださる。神の祝福を与えてくださるのです。

 私は貧しいのです。わたしを憐れんで下さい。私たちはここに立つほかないのです。そして、そこからすべての慰めと、喜びが生まれてくるのです。わたしたちがここに立つことができる時、わたしは生きている時も、死ぬ時も、どんなことが身に起こる時でも、わたしは神のものであると応えることができる。そこに、わたしたちのまことの慰めがあるのです。

 

 お祈りいたします。

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