2011 年 7 月 3 日

説教:マタイの福音書13章1-23節 「天の御国の秘密」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 19:20

2011.7.3

鴨下直樹

私たちの教会では年に二回、「楽しいキリスト教美術講座」を行なっています。前回は二週間前に行なわれました。講座を開いてくださっているのは、私たちの教会の長老でもあり、岐阜県美術館の館長でもある古川秀昭さんです。特に、今回は20世紀の宗教画家ともいえるジョルジョ・ルオーの絵を紹介してくださいました。

これは大変興味深い講座でして、いつもよりも多くの方々が参加してくださいました。この講座の中で古川さんが、いくつも興味深い話をしてくださいましたが、私の心に特に残ったのは、このルオーが娼婦と道化師を沢山描いているのですが、どれも非常に醜く描いているということでした。あるいは裁判官も描いているのですが、それもやはり非常に醜く描かれているのです。なぜ、そのような人間をルオーが好んで醜く描くのかというと、古川さんはその講座の中で、醜い人間の姿のなかに、現代の人間の闇を捕らえていて、そこに、キリストの光が届くことを願っていた画家であったと言われました。

こういう大きなヒントをいただきますと、私たちはこのルオーの作品をもう一度見る時、“視点”を持つができます。今まで気付かなかったことにまで、気付きながら、それこそ新しい発見をしながらルオーを見る喜びを教えられました。同じ絵を見ていても、この話を聞く前と後とでは、絵が違って見えるのです。それは私にとって新しい発見でもありました。

今朝、私たちに与えられている聖書は、私たちに正しく見ることを教えています。このマタイの福音書の第十三章は、主イエスが話されたたとえ話がいくつも集められています。マタイの福音書だけではなくて、すべての福音書がそうですけれども、そこにはおもに、主イエスがなさった教え、主イエスのなさった奇跡、パリサイ派や律法学者たちとの論争、そして、たとえ話と、だいたいその内容をこの4つにわけることができます。そして、マタイの福音書では、ここではじめてこのたとえ話というのがなされているのです。

そして、ここで最初のたとえ、一般に“種まきのたとえ”と言われていますけれども、この話をなされたあとで、主イエスはこの十三節で。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見ているが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしないからです」。と言っておられるのです。

「なぜ、たとえで話すのですか」という弟子の問いかけに対して、主イエスはこう答えられたのです。本当に見てはいない、本当に聞いていないからだと言われたのです。

礼拝の説教の中でも「たとえば・・・」と言って、たとえ話をする時というのは、普通は難しい話を分かりやすくするためにするものです。私の説教にはたとえ話が少ないとよく言われるのですけれども、その場合は、たいていの場合は難しい話しだという意味です。分かりにくいというのです。それこそ、これは一つのたとえですけれども、このように私たちはたとえ話というのは、話を分かりやすくするものだという理解を持っていると思います。ところが、主イエスがたとえを話された時というのは、そうではないと言うのです。

十一節以下で主イエスはこのように答えておられます。「あなたがたは、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。というのは、持っている者はさらに与えられて、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」。 ここで、主イエスが語れているのは、天の御国の奥義を知らせないためだと答えておられるのです。天国には秘密があるというのです。その秘密はそんなに誰にでも明かすことはできないので、たとえを使って話したのだと言うのです。つまり、物事をはっきりさせないために、たとえばなしを用いているのだと答えられたのです。

ところが、このたとえは今お聞きになっても分かるようにそれほど難しいものとは言えないと思います。このたとえ話で、主イエスがお語りになったのは種まきの時のことです。昔はロバに種の袋を背負わせて、その袋に穴があいていて、そこから種が落ちるようにして蒔いたのだという説明があります。あるいは、手で一面の畑にばら撒くように蒔いたとしても、それほど変わるわけではありませんけれども、種は色々なところに落ちたのです。

そうすると、この芥見教会の隣にも畑があるような土地に住んでいる私たちからしてみれば、少し考えにくいことかもしれません。畑の種というのはちゃんと耕して、うねを作って、そこに等間隔に穴をあけて種を一粒ずつ落とし込んでいくものだと考えているかもしれません。聖書の時代はそうではなかったということではないだろうと思います。広い畑なのです。一粒、一粒丁寧に種をまくことよりも効率よく蒔くことの方が大事であったのでしょう。そうであるとすれば、そのような種まきの姿も理解することは難しいことではないでしょう。

そのように蒔かれた種は色々なところに落ちたはずです。道端に落ちた種は鳥が食べてしまい、岩地に落ちた種はすぐに枯れてしまう。茨に落ちた種は育たなかった。けれども、よい地に落ちた種は百倍、六十倍、三十倍の実を結んだ。そのように主イエスがお話になったたとえ話は、それほど難しい話であると言えないと思います。このたとえ話が言いたいことは明らかです。よい地に落ちた種は豊かな収穫があるということです。

このたとえ話自体は難しいものではないのです。けれども、このたとえを通して主イエスが語ろうとしていたことは、ここで「天の御国の奥義」と言われています。この奥義と言う言葉はギリシャ語で「ミステリオーン」と言う言葉です。“ミステリー”という言葉の元になった言葉です。ミステリーというのは、それほど説明する必要はないと思いますけれども、“秘密”というような意味もある言葉です。

この種が豊かな土地に蒔かれれば何十倍もの収穫を得るという物語に、主イエスはある秘密を込められたのです。そして、それは聞いているようなつもりになって聞いていても、分からないのだと言われたのです。

何度も話していますけれども、このマタイの福音書では、ほとんど神という言葉を使っていません。その代わりに“天”という言葉を使います。しかし、私たちは天国という言葉、天の御国という言葉を耳にすると、どうしてもすぐに死後の世界のことと考えてしまいます。けれども、これは神の国という意味ですから、死後の世界のことではなくて、神が支配してくださるという意味です。

この前の十二章で、主イエスはわたしと一緒にいるところに神の支配があるということを語られました。そこに本当の安息があるのだと教えられたのです。主イエスと一緒に生きるということは、神に支配されて生きること、天の御国で生きることなのだと語られたわけです。ところが、その主イエスの話を聞いていた当時の人々には、そのことがよく分かりませんでした。分からないどころか、主イエスの話を聞いていながら、そこで起こった反応は、“腹を立てた”のです。

ちゃんと見ていなかったのです。ちゃんと聞いていないのです。なぜ、そういうことが起こってしまうのかと言うと、自分の判断に頼っているからです。だから、自分で考えていること以上のものを見ることも聞きとることもできなくなってしまっているのです。

今、ある方と水曜日の祈祷会の後で、信仰の学びをしています。時々、時間を忘れてしまって夜の十一時位になってしまうこともありますが、実に真剣に信仰について語りあいます。その時に、その方がこう言われた。「自分は今まで色々な宗教に足を運んで来た。そこで色々ないい話を聞いてきたと言うのです。それで、鴨下牧師が礼拝で説教される言葉を聞きながら、いいことを言っていると思うし、その通りだとも思うけれども、では、それと、自分が今まで聞いてきた、宗教家の話しとどう違うのかというと、そこがよく分からない。こっちがいい話で、あちらは悪い話だというように考えることはできない。」と言われたのです。

私は、この方はずいぶん正直に感想を述べてくださったと思います。そして、これはとても大事な問いだと思いながら、その夜も遅くまでそのことについてお話したのです。

主イエスが、この話は天国の奥義であると言われたことと、実は深く関わっているのです。秘密なのだと言われたのは、まさにそのことを表しているのです。確かに宗教的ないい話をするというのは、簡単なことではないでしょう。その言葉に説得力を持たなければ人の心を動かすことはできません。けれども、ここで、主イエスは一見分かりやすい、いい話と思えるような説得力のある話を、たとえを用いて話されながらも、この言葉が何を語っているか、見えなければ、聞きとれなければ、何の意味がないのだと言われたのです。

ここで主イエスが何をおっしゃりたかったかというと、つまり、この主イエスの言葉を通して、神がここで生きて働いておられるということが分かるかどうかだということなのです。

その言葉が分かりやすいかどうかという問題ではないのです。言葉が明快であるとか、聞きやすいというかそういうことを超えて、その言葉の中に自分が神との出会いを経験することができるかどうかが、もっと大きなことなのです。

このたとえ話で土地と種のことが話されています。そうすると、聖書の話を聞きなれている人は、この種というのは、神の言葉のことだということがピンときます。畑と言うのは私たちのこと、あるいは私たちの心の状態のことだということが、想像つくわけです。ところが、百倍の実を結ぶというその結論に差し掛かりますと、そんなに簡単にはいきません。御言葉が育つということは、自分が育つということだからです。実を結ぼうとすると、それはどうしても自分自身と分けることはできません。

しかも、このたとえ話は4種類の土地が出てまいります。道端、土の薄い岩地、茨の生えた土地、そして、よい土地です。そうすると、私たちは、自分はどのタイプかということを考えてしまいますと、話はさらにややこしくなってしまいます。自信のない人などは、このたとえ話を読みますと、自分はこの悪い方の3つのタイプのどれかではないかと考えて、自分は実を実らせることはできないのではないかと言うようなことになってしまうことさえあるのです。そうすると、ここで神が生きて働いておられることを知るどころか、出来ない自分が強調されてしまうことにもなりかねません。

幸いなことに、主イエスはこの土地について十六節以下でその説明をしてくださいました。丁寧に説明する時間はありませんけれども、ここで説明されていることも実はそれほど難しいことが説明されているわけではないのです。御言葉を聞いた後で、色々なことが起こるのです。まさに、私たちの生活の中で、です。説教を聞いて家に帰ります。そうすると、聞いたはずの聖書の言葉が実生活の中でそれほど役に立たないというような経験をするのです。カラスであろうが、岩地であろうが、茨であろうが同じことです。さまざまな私たちの現実の生活が、聞いた聖書の言葉を無力化させようとしているのです。それは誰もが毎週のように経験していることであるかもしれません。

そうすると、ほら、教会でどんなにいい話を聞いたって、自分の生活は変わらないということになる。それでは聞くべきことが聞けていないではないか、ということになってしまいます。しかし、そうすると、ここで主イエスが弟子たちに語ろうとしたことの全く反対のことが起こってしまうのです。だから、こそ、主イエスはそうならないために弟子たちにはこの秘密を明らかにしてくださったのです。

ここで主イエスが解説をなさるときに、こう言われました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。またあなたがたの耳は聞いているから幸いです。」と十六節にあります。「あなたがたは幸せだ」と言われたのです。祝福の宣言をなさったのです。

神の言葉を聞いている、見ているのだから、幸せだと主イエスは言われたのです。私たちは日常の生活の中で、私は神の言葉を味わうことができない、そんな牧師さんが言ったとおりになんかなりっこないじゃないかと思うような生活のただ中で、主イエスは、あなたは、自分の生活の中で、聞こえているはずだ、見えているはずだと言ってくださっているのです。一体何が見えるのでしょう。何が聞こえるのでしょう。

それは、“神が自分の生活の中に生きてくださっているという事”が、です。神が自分の生活を支配してくださっていることを、見ることができる、聞きとることができる、と言っておられる。あなたは自分の生活の中でそれを体験できるのだ。だから、あなたは幸せですねと、ほかの誰でもない主イエスが語ってくださったのです。宣言してくださったのです。

神の言葉は、あなたにも見えると、あなたの生活の中で神が支配していてくださることを体験することが、それこそが天の御国で生きること、天の御国の秘密なのだと主イエスはここで語ってくださったのです。こうして、自分の人生を、もう一度正しく見直すことのできる眼差しを主イエスは私たちに与えてくださったのです。

今朝は何度も古川長老の話をいたしますけれども、今、古川さんの家で、毎月行なわれております家庭集会でヨハネの手紙第一を学んでおります。先月行なわれる学びの中で三章九節の御言葉を学びました。「誰でも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです」という御言葉です。ここに「神の種」と言う言葉がでてきます。

神の種がその人のうちにあるから、罪のうちを歩まないのだと言う言葉です。この神の種とは何か。この言葉は珍しい言葉です。神の種などと言う言葉はほかのところで出てきているわけではないのです。救いのこと、ともいえますし、聖霊のことと言うこともできるかもしれません。あるいは、今朝、私たちに与えられている主イエスのたとえばなしを連想させるものであるとも言えるかも知れません。

私は神の種と言う時に直ぐに思い出すのは西村正幸というモダンアートの芸術家です。古川さんとも交わりがある方で、キリスト者です。わたしは神学生の時に奉仕していた教会でこの方と知り合いになりました。今は名古屋芸大の教授をしている方ですが、いくつもの作品を造りだしておられます。ちょうど私が神学生の時に、この西村さんは「種」というシリーズでいくつかの作品を作っておりまして、その個展を見に行きました。私は、実はその時までほとんど美術に関心がなかったのですけれども、そこで一枚の絵の西村さんの絵の前で立ち尽くしました。「イクサス・種」という絵です。真っ黒のバックですが、それがまるで格子の中にあるように描かれていまして、その真ん中に種が植えられているのです。その種が、ちょうど魚の形を立て向きにしたような形をしています。この魚は初代のキリスト者たちは自分たちのシンボルとして使用してきたもので、「イエス・キリスト・神の御子、救い主」という言葉の頭文字をとると「魚」になるのです。この魚のシンボルを、そのまま使わないで、立て向きにしまして、種のように描いているのです。この種はイエス・キリストそのもので、暗いこの世界に埋められているかのようだけれども、やがて、ここから命が芽吹き、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、そのような力強さが満ちているのです。私はこの絵を見て、はじめて絵を見る楽しさを知りました。そのことを西村さんにお伝えしたら、この絵を私たちが結婚する時のお祝いにとくださって、そのおかげで今朝、みなさんにこの絵を直接お見せすることができるわけです。

わたしはこの絵を見るたびに、神の言葉が、どれほど暗い世界の中に閉じ込められていたとしても、いや、私自身が闇の中を生きているかのようであったとしても、この福音の種はここから大きな実を結ばせるのだということを、私自身に語りかけます。そして、私は見えないものを、見ることをこの絵から気付かされるのです。この神の言葉に生きる者は、神の種が与えられている者は、それは、“神の支配に生きている者は”と言いかえることもできるのですが、罪のうちを歩みませんと、ヨハネの手紙は語ります。闇の中に生き続けることはないのだと言うのです。闇を打ち破る力がこの神の種にはあるからです。自分のいたらなさ、自分の無理解、自分の中にある不信仰というさまざまな闇を、罪を、この神の種は打ち破るのです。

そこで、私たちは神の支配というものが、自分の身に現実的に起こることを知ることができるのです。そして、この神の支配に生きる幸いを体験することができるのです。

今朝、最初にルオーの紹介をいたしました。この20世紀の宗教画家と言われたルオー―は自分の醜さをよく知っていた画家でした。しかし、そのような自分の醜さが、神の光に照らし出される喜びもまた知っていたのです。ですから、ルオーの自画像は、キリストの姿と重なるように描かれていたのだと、美術講座の中で古川さんは話されました。醜い自分の姿と、重なるはずのないキリストの姿とが重なるというのです。なぜ、そんなことが起こるかと言うと、神の言葉が、私と言う畑にまかれるからです。そして、そこで、自分とキリストが一つとなるのです。私の中に蒔かれた福音の種、神の言葉は私の中で現実的なものとなっていくのです。つまり、この御言葉によって自分が変えられていくという経験をするのです。

そのようにして、神の言葉が、私たちのものとなるのです。神の言葉を、自分の生活の中で味わうのです。そこで、私の生活が本当に変わるということを経験し続けて行くのです。それは、本当に幸いなことです。御言葉を聞き続けて行くときに、私たちは“神の祝福の存在”として変えられていくのです。それは本当に幸いな経験です。その幸い中に、ほかの誰でもない、あなたが生かされているのです。

お祈りをいたします。

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