2011 年 6 月 5 日

説教:マタイの福音書12章22節―37節 「真実の言葉をもって」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 23:09

2011.6.5

鴨下直樹

私たちの教会には、他の教会にないいくつかの特徴がありますが、その一つは何と言っても俳句の句会が行われていることでしょう。毎月新しくこの会に加わってくださる方が起こされていまして。とても賑やかな、楽しいひと時です。

ところが、会がはじまりますと、みんな黙ってまわってきます俳句を次々に書きとめます。良いと思った句を書きとめて行くわけです。それで、最後に自分が選び取った句を詠みあげますと、誰が書いたかという名乗りを上げます。その時まで誰が書いた句であるか分かりません。昨日も中にいくつも面白い句がありました。

「大百足(おおむかで)滅多切りして礼拝へ」

礼拝に来る前に大百足が出たのでしょう、それを切り刻んでから礼拝に来たというのです。私はすぐに教会に来ておられるある男性の顔を思い浮かべながら一人で笑い堪えるのに必死でした。この句は何人かの方が選んだのですけれども、これは教会の執事もしておられて、同人でもある古川昭子さんの句でした。ちょっと意外だったのです。

すると、すぐに疑われた方が、「『人は見かけによらん』と昔から言うではないか」と言って、みなで楽しく笑いました。見かけによらずあの人はずいぶん厳しいことを言うなどということは実際にあるわけで、その意外性にびっくりいたします。俳句の場合はこの意外性がまた面白いところであるのかもしれません。

さて、今日の聖書は少し長いところですけれども、終わりの方の三十四節にこう言う言葉あります。「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです」という主イエスの言葉があります。「心に満ちていることを口が話すのです」。心にあるものが言葉になって表れるのだと主イエスがおっしゃいました。

俳句の世界と言うのは、私は最近はじめてばかりで、なかなか見た物を上手に言葉に表現することができませんけれども、自分の見たもの、感じたものを言葉にして表現します。それは心の中に浮かんだことをいかに的確に短い言葉で言い表すことができるかということでもあります。それを面白く切り取ったり、そこからさまざまな思いが見えてくるように切り取ったりいたします。しかし、そのように日常の生活の中で起こった出来事を言葉にするというのは俳句に限ったことではありません。私たちが日常使う言葉もまた、私たちの心の中にあることが言葉となって出てくるのです。そして、私たちはそのような言葉をあまりよく吟味しないで使ってしまっているのかもしれません。

この主イエスの言葉、「心に満ちていることを口が話すのです」という言葉のきっかけになったのは主イエスが目も見えず、口もきけない人を癒されたことに端を発しています。それを見た人々は驚きました。それで、二十三節によりますと、「群衆はみな驚いて言った。『この人は、ダビデの子なのだろうか』と言った。」とあります。

病んでいる人をご覧になられた主イエスが癒しをなさった、それで、人々はダビデの子としておいでになると約束されていたあの救い主・メシヤなのではないだろうかと言い始めたのです。

ここに「驚いて」とありますけれども、この言葉は「我を忘れて」という意味の言葉です。自分を忘れてしまうほどに、主イエスの力ある御業に心奪われたのです。これこそがメシヤのなさることだと人々は思ったのです。

ところが、続く二十五節にこうあります。「これを聞いたパリサイ人は言った。『この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。』」と言いました。ベルゼブルというのは悪霊たちの支配者の名前です。悪霊の親玉だから、悪霊を追い出せるのだとパリサイ人たちは言ったのです。パリサイ人たちに言わせると、それは驚くようなことでもなんでもない、これは、悪霊たちの間の出来事で悪魔の親分が、子分の悪霊を追い出しただけのことと言ったのです。それで、理解できるではないかと言ったのです。

このパリサイ人たちは、自分たちはそんなことで騙されたりはしないぞと思ったのです。自分たちにはこの種明かしができると、自分たちの知恵を披露しようとしたのです。そうすることによって、主イエスの御業に心奪われた人々に、自分たちがいかに優れた理解力をもっているか、知恵に満ちているかを示そうとしたのです。

ここで、パリサイ人たちがしようとしたことは、今日の世界でも良く見られることです。いや、私たちでも同じようなことをすると思います。テレビでマジックショーをやると、これはこういう種明かしだなどとテレビの前で自分の推理を説明しはじめているようなものです。

けれども、この出来事から主イエスは次のような言葉を投げかけられました。「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません」。三十一節の御言葉です。

このパリサイ人たちの言葉に対して主イエスは大変厳しい言葉で答えられたことが良く分かります。ここで「聖霊に逆らう冒涜は赦されません」と言われた。この言葉は続く三十二節でも繰り返されています。

このパリサイ人たちの言葉は赦されない罪だと主イエスは言われたのです。そして、私たちはこのような言葉を耳にすると、多くの人が驚くのではないかと思うのです。赦されない罪があるのだと、主イエスが言っておられるからです。

なぜ、主イエスがこのような厳しい言葉を語られたのかというと、パリサイ人たちの心の中にある思いがここで明らかになったからです。ではこのパリサイ人たちが語った言葉の中にあったものとは一体どういうものなのでしょうか。主イエスには、この言葉は単なる口からついつい出てしまった言葉としてすますことのできるような言葉ではなかったのです。この中に、心の中にある醜い思いが露呈してしまったのです。

私たちは、毎日言葉の世界の中で生活しています。そして、ついうっかり口が滑ってしまったということを経験することがあります。あの時余計なことを言ってしまったと、後悔することがあります。あとで一生懸命に弁解しながら、あれは悪気があって言ったことではない、ついつい心にもないことを言ってしまったのだなどと言うのです。けれども、主イエスはここで、「心に満ちていることを口が話すのです」と言っておられる。そして、そういう言葉が、赦されざる言葉を発してしまうのだということを、語っておられるのです。

ですから、私たちはこの物語を、呑気に聞いていることはできません。よくよく注意して耳を傾けなければならないのです。

私が神学生のころのことです。この「聖霊を汚す罪は赦されない」というのは何故かということを議論いたしました。神学生にとって、このような理解することの難しいことをテーマにディスカッションするには格好のテーマです。それほどに、この御言葉は理解することが困難であると言われています。

そのころからでしょうか、教会の中にカリスマ運動というムーブメントが起こりまして、聖霊の働きについて色々言われるようになりました。聖霊が働くと、癒しの奇跡が起こるとか、実際に悪霊が追い出されるとか、異言といいまして、異なる言葉を書きますけれども、天国の言葉で祈ることができるようになるなだというようなことが、語られはじめました。そのころ、教会の中にずいぶん色々な混乱が起こりました。それで、福音派と呼ばれる大きな教会の交わりは二つに分かれることになります、聖霊派と呼ばれるカリスマ派、あるいはペンテコステ派と呼ばれるグループと福音派とに分かれたのです。

その時に何度も語られたのがこの御言葉でした。聖霊による癒しを否定することは聖霊の御名を汚すことになるなだということが語られたのです。まだ、今からそれほど昔のことではありません。こうして、このようなカリスマ派の働きを否定することは、ここでしているパリサイ派の罪を犯すことになると語られたのです。それで、神学生たちは、それは実際にどうなのかということを色々と語りあいました。

もちろん、ここでカリスマ運動の話をすると余計に分かりにくく感じてしまうかもしれませんけれども、この「聖霊に逆らう冒涜は赦されません」という言葉は強い言葉ですから、どうしても色々と考えさせられます。この言葉は聖書の中でも最も理解することが難しい個所の一つであるなどと言われてさえいるのです。なぜ、この言葉が理解しがたいかというと、それは一つには、主イエスは赦されない罪があると言っているからです。そうすると、すぐに考えますのは、赦される罪は何で、赦されない罪は何か、あるいは、どこまでが赦されて、どこからが赦されないのかという線引きをしようとすることです。

この三十二節には「人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。」とまずあります。主イエスに逆らう言葉を口にするということは、それだけで大きな罪ではないかと私たちは考えます。ではなぜ聖霊は赦されないのか。私たちはこの聖書をそのように読んでしまいます。

かつて、ギリシャ語の辞典を自ら作られた織田昭という新約学者が、このマタイの福音書の注解を書きました。日本人の書いた注解書としては非常に分量の大きなもので、非常に優れたものです。この人は、ここの所で、そのように”主イエスに逆らってもいいけれども、聖霊はいけない”というように理解すると、ここで主イエスが語ろうとしておられることが分からなくなるのだと書いております。それではどういうこと言うと、もっと素朴に読むべきだと言うのです。

このマタイの福音書の前のところの十八節で、預言者イザヤの言葉が紹介されています。

「これぞわたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる」とあります。

ここですでに語られているのは、父なる神が神の霊を注いだ者が主イエスであったとマタイは記しているのです。神の霊を託されたのが、主イエスです。その主イエスは人に必要な真の安息、真実な救いを与えるというのが、この十二章で語られているところです。この神から託されている救いの霊を拒むということは、どういうことか、それは、神の救いの意思を拒むことになる、それは自分で神からの救いを捨てたことになるのだと、織田昭は解説しているのです。

聖霊は癒しの奇跡を起こすことができるとか、聖霊の働きはこうだというようなことよりも、もっと根本的なことがここで語られているのです。主イエスがここで神の救いを示しているのです。病のために悲しんでいる人に、解放の喜びをもたらしたのです。安息日に癒しの御業をなさったのは、まさに、神にこそ真の安息が、本当の安らぎがある、神にこそ、本当の救いを与えることができる、それが、今、主イエスによって目の前で宣言されているのです。

この主イエスによってもたらされる真の救いを、それは偽物だから信じない、悪魔によって悪霊が追い出されたにすぎないということで、神の救いを自ら捨てたのだ。それでは、神は救いようにないということを、ここで主イエスは宣言しておられるのです。

パリサイ派の人々の心の中にあるのは、明らかに主イエスに対する嫉妬心でした。人々の前で救いの御業を示したことに対して、そんなものは救いでもなんでもない、そんなのはトリックだと言ったのです。神の救いというのはそんなものではないのだと言ったのです。その心の中に、目の前で病の人が癒されていて、救いを喜んでいる人がいるのに、それに対して目を向けないようにして、喜ぶことができない心がここに明らかにされてしまったのです。

聖霊とは、今ここで働いていてくださる神の御業です。そして、悲しみの人に喜びを与え、絶望している人々に希望を与えるものです。この聖霊を否定するということは、神の御業を否定するのです。目の前で神の御業を見ながらも、これは神の御業ではないと言うのです。そこで喜んでいる人に向かって、これが本当の神の救いではないのだと言うことです。そして、自分の方がもっと知っている、もっと分かっているのだと、神よりも自分の考えの方が優れていると考えてしまうのです。

ここに、人の傲慢さが際立つのです。人の罪深さが明らかになるのです。その心の中にある思いが、言葉となって表れてしまうのです。

主イエスはこのパリサイ人たちに言われました。「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことがいえましょう。心に満ちていることを口が話すのです」と。「まむしのすえ」と言う言葉を主イエスは語られました。

ここでどうしても思い出さざるを得ないのは、あのエデンの園でアダムとエバを園の課した蛇のことです。「善悪の知識の木から取ってたべてはならない」と言われた神からの命令に、蛇は背きました。その実を食べればあなたがたは、神のようになることができると言ったのです。

神の御業を否定して、他にもっと優れた道があるかのように教えたあの蛇でした。このパリサイ人の罪を、創世記の最初の出来事と重ねて見ておられるのです。これは、神の救いの否定だ、ここであなたがたは知恵者ぶっているけれども、あの蛇の罪を犯していることに気づかないのかと主イエスは言っておられるのです。

私たちは、私たちが思い描く救いというものを持ちやすいのです。神の救いというのは、自分のイメージにあったものでなければならないと考えるのです。そして、そのような自分のアイデアに支配され続ける限り、神が示す救いを見ることはできません。

主イエスは常にここで真実な言葉を語っておられます。憤りを覚えるほどに真剣に人々と向き合っておられるのです。いや、私たちと向き合っておられるのです。そして、この方の言葉こそが、真実な言葉であり、人を生かす言葉です。

昨日の句会で、古川長老は不在でしたが、俳句をだされました。それが昨日の句会の特選でした。特選といいますのは主宰の辻恵美子先生が一番いいと選ばれたものです。こんな句でした。

「悩みごと悩めるままに衣更」

衣替えの季節になって、外側は新しく着替えたのだけれども、その心の中の悩みは、悩みのまま留まっているという句です。見事な句です。指導しておられる恵美子先生が、この句の解説をするのを聞きながら、本当に見事な句だということを改めて気付かされました。

私たちの心の中は、そんなに簡単に変えることはできないのです。外側がいくら変わっても、装いを新たにしても、変わるものではありません。しかし、主イエスの言葉は、人をその内側から変えることがお出来になるのです。そして、主イエスこそが、その人が真実に生きた者となることを願っていてくださるのです。生きた者となることを願っていてくださり、救いの手を差し伸べてくださるのです。この主が、神の霊を私たちの心に注いでくださるからです。この主によって私たちは新しく生きる者に作り変えていただけるのです。

今朝、私たちは復活節の第七主日、「聞きたまえ」と言われる主の日の礼拝を祝っています。よみがえりの主は私たちの言葉に耳を傾けていてくださるお方なのです。私たちの心の奥底にある言葉にまで耳を傾けてくださり、変わることのない私たちの奥底に潜んでいる悩みにも、よみがえりの力によって解決を与えてくださるのです。私たちの外側だけではない、私たちの内側から変えてくださるのです。

お祈りをいたします。

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