2011 年 5 月 1 日

・説教 マタイの福音書11章7-19節 「主の備えを見よ」

Filed under: 礼拝説教 — admin @ 14:26

 

鴨下直樹

2011.5.1

 

 先日の29日に、名古屋の一麦教会で私の関わっております東海聖書神学塾が主催してCS教師研修会が行われました。講演をしてくださっのは、神学塾の塾長であり、説教学の教師でもある河野勇一先生です。テーマは「福音を聴き語るために」というもので、教会学校の教師たちが説教するためにどのように備えるかということをお話くださいました。そして、この講演は本当に素晴らしい講演でした。

 その講演の最初に河野先生がこんな話をなさいました。字のない絵本と言いまして、昔からよく教会でつかわれる福音を語る教材があります。四つの色をつかって福音を語るという昔かある一つの福音の語り方があります。最初に黒色を見せまして、罪の説明から始めるわけです。あなたの心の中に、人を憎む思い、赦せない心がありませんか、そういう思いは罪ですと始まるのです。一般に言われることですけれも、教会に来るとすぐに語られるのが「罪」という言葉です。けれども、私たちが日常に使う罪という言葉は、何か犯罪を犯したという場合に使いますから、罪があるなどと言われても、言いたいことがなかなか伝わりません。聖書というのは、そもそも、イスラエルの民、もしくは教会に向けた書かれたものですから、神の救いを知っている人々を前提に語りかけられていると言われたのです。そうすると、神の救いを知っているにも関わらず、神から離れる、神に背く、そのことが罪であると聖書は語っているので、いきなりあなたは罪びとですよと、語りかけるのは問題ではないかという問題提起をなさいました。そして、神がどのように私たち人間をおつくりになり、どのように生きることを願っておられるかを語ることが重要だという話をなさったのです。

 その帰り道に、マレーネ先生と、この講演について話をしました。そこで、こんなことを言われた。「日本は福音を聴いて育つという土壌ではないから、日本人に、ヨーロッパやアメリカでなされているような御言葉と同じような語り方をすることはできない」と言われました。私はその言葉を聴きながら、深く考えさせられました。福音をすでに聴いて、そこに生きているいる人への語り方と、福音をまだ耳にしたことのない人への語り方は当然変わってくるということです。まさに、そのことを私たちはよく考えなければならないと思うのです。

 

 私たちの教会では、子供たちは下の部屋で、礼拝の子ども担当教師が御言葉を語ります。私は、子どもたちの抱えている問題と、この礼拝に集っている私たちの問題とは同じであると考えていません。そこで、こどもたちに耳を傾けなっがら、子どもたちの心に届く言葉を、教師たちは本当に良く祈りながら、整えて御言葉を語る必要があるのです。そして、そのために、この芥見教会ではすでに何人も、御言葉を語る教師が与えられていることは素晴らしいことだと思うのです。そして、本当に御言葉を語るこの教師たちのために祈っていただきたいと思いますし、そこで、本当に生きた主との出会いが起こるように、また、その時に語られる御言葉につまづくことがないように祈っていただきたいと思うのです。

 

 

 今朝、私たちに与えられている御言葉は、バプテスマのヨハネが弟子たちに質問を託して、主イエスにお尋ねになったそのあとの出来事が記されています。

 このヨハネは御言葉を語る人です。すぐれた教師です。けれども、ヨハネが捕らえられたと聞いて、多くの人々はこのヨハネに失望したようです。ローマの権力の前には、どれほど力強く、大胆に言葉を語っても、捕らえられてしまうなら、まるで無力ではないか、意味がないのではないかと考えた人々が多くいたのです。それは、私たちでも良く分かる事だろうと思います。私たちが毎日、祈りをしても、何も状況が変わらない、御言葉を信じても何も起こらないように思えるときに、多くの人がそこでがっかりします。つまづいてしまうのです。期待しても無駄ではなかったかと考えるのです。

 それで、主イエスは人々にお語りなられたのが、今日のところです。七節からのことで、主イエスは「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか」と問いかけておられます。ヨハネを訪ねて荒野に行くということは、神の御言葉を聴くため以外の何物ではないはずなのです。それなのに、荒涼として荒野を見ただけで帰ってきたり、着物を見ただけで、がっかりして帰ってきてしまったのだとしたら、洗礼者ヨハネと出会ったことにはならないのです。しかし、ここに多くの人々の躓くものが何かが語られています。

 

 前回のところでも、最後の六節で「わたしにつまづかないものは幸いです」と語られていました。人々は、主イエスの御業を見てつまずき、ヨハネの言葉を聞いてはつまずいたのです。それは、こんな荒野にいて何が語れるかという思いで、その言葉を聞いたり、ヨハネの姿だけを見て、まるで人柄が分かったかのような思い込みをしてしまうのです。それは、私たちにも良く分かることです。実にいろいろなことがつまずきの材料になってしまって、本当に語られている言葉が届かないのです。ですから、ここで、主イエスは洗礼者ヨハネに対して最大限の称賛の言葉を与えています。

「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人はでませんでした」と十一節に記されています。

 ヨハネほど優れた人はいないと、主イエスに語られながらも、人々はそのヨハネにつまずくのです。ここで、神がご覧になるまなざしと、人が評価し、期待する人物像とがどれほど大きくことなっているかが明らかにされていると言えます。

 残念ながら、私たちはこの神のまなざしで人を見ることができないで、目先のことで多くのことを判断し、決断してしまっているのです。そして、そのような自分の誤った見方で、つまずいているのです。「しかも、天の御国の一番小さな者でも、彼より偉大です」とあります。

 この地上で、人々の世界で最も優れた者はヨハネであると、一方で主イエスはかたられながら、もう一方で、天の御国ではもっとも小さな者でも、ヨハネより偉大であると言う。そうすると、一体ほめられているのか、貶されているのかよくわからないと感じるかもしれません。けれども、まさに、主イエスはそのように、人の心にあれ?と思うように語っておられるのです。

 「天の御国に住む者」は、ヨハネよりも優れていると主イエスは語られました。ということは、天に御国には、神のまなざしに叶うものばかりがいるのだということを、教えてくださっています。そうすると、人の心の中に浮かぶ思いは何かというと、私もそのような神の目に叶うものとして、天の御国に入りたい、入れられたいという思いが出てきます。天の御国で自分はヨハネよりも優れた者としていただくことができるのですから。それほどまでに、素晴らしいところへ招かれるのであれば、自分も是非とも天の御国入りたいものだと考えるようになるように、主イエスは促しておられるのです。

 

 そして、主イエスはこの部分でもっとも大切なことをお語りになられました。それが、十二節の言葉です。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」と。

 この主イエスの言葉は簡単に理解できる言葉では残念ながらありません。ここで、最も大事なことをお語りになりながら、意味がはっきりしないのです。

 「天の御国は激しく攻められています」という言葉は、新共同訳聖書では「力ずくで襲われています」と訳されています。「攻められている」にしても「襲われている」にしても、そこで連想するのは「攻撃されている」と悪い意味にとることができます。それは教会の迫害のことではないかと理解される場合もあります。

 けれども、この言葉は少し変わった言葉でして「天の御国が激しく攻め込んでいる」と訳すこともできる言葉なのです。むしろ、このように訳す方がいいという意見もあります。そうなると、天の御国はヨハネの時から、ヨハネが説教するようになって以来、激しくこの地上に入り込んで来ていると理解することもできるのです。

 すでにマタイの福音書の最初に、このバプテスマのヨハネは「悔い改めなさい天の御国が近づいたから」と語り始めました。そして、主イエスの説教も同じ言葉です。いや、今日の教会で語られている説教も、天の御国が近付いたということです。それは、牧師の説教であろうと、教会学校の教師であろうと同じです。

 天の御国が、私たちの生活の中に入り込んでくるのです。まるで、これまでの生活に攻撃を仕掛けるように、これまでの生活とは全く異なる生活があるのだと、天国が勢いをもって、私たちの日常の生活に割り込んでくる、入り込んでくるのです。神ご自身が私たちの日常に深くかかわってくださるというのです。

 

 十三節で、「ヨハネに至るまですべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。」とありますけれども、これは、旧約聖書の時代がこのヨハネに至るまで、神のこの福音の備えをしてきたのだということです。そして、今、ここで、主イエスがこの神の国をまさに、この地上にもたらすために、備えてきたものを現実のものとするために、今まさに、この神の国が、天の御国が始まろうとしているのだと主イエスは語られるのです。

 

 先日の河野先生の講演の中で、神は人間を神のかたちに創造されたということを、何度も、何度も語っておられました。人間はもともと、神と共に歩むものとして造られたのです。神が私たちの生活に関わってくださる、私たちに必要な時に語りけて下さり、、必要なことを教えてくださるのです。そして、本当に安心して生きることができるようにされていたのです。

 ところが、ある時から、人間はそのように生きることを拒みました。神無しで生きていきたいと思ったのです。神など不要だと考えるようになりました。神との関わりを自ら放棄してしまいます。それが、エデンの園で起こった出来事でした。つまり、善悪の知識の木の実を取って食べたのです。神は、人間に、この木の実から取って食べてはならないという約束を人間としました。河野先生がそこで例えにだされたのは、この約束というのは対等なものでなければ約束は成り立たないと言って、こんな話をなさいました。犬に、この実を取って食べてはならないと約束するのとは違うのだというのです。確かに、犬に、「待て」と餌をやる前に、命令を出すことはできます。そのように、しつけることはできるかもしれないけれども、それは、対等な者同士として信頼しあっているわけでないでしょうと言われました。

 神は、私たち人間に、そのような命令をなさったわけではないのです。すべてのものは食べても良いという約束を与えられて、けれども、これだけは食べないようにと約束を結んだのです。なぜ、そんなことをなさったかというと、人間を信頼されたからです。神が人間を信じてくださったのです。ところが、人間はそれを自ら放棄してしまうのです。その時から、私たちは神を信頼するよりも、自分の計画を、自分のやり方を、自分の生き方をまず最優先するようになりました。これを、聖書は罪と呼んでいるのです。

 けれども、主イエスは、この罪によって追い出されたエデンの園、天の御国にもう一度人間を招くために、長い間準備してくださって、私たちをそこに招こうとしてくださったのです。この天の御国に、もう一度私たちを招くために、備えをしてくださったのです。

 

 そのようにして、主イエスは何としてでも、私たちを天の御国に、神の国には入れたいと考えてくださっているのです。ところが、この主イエスの心がすぐに人々に理解されたのではありませんでした。なかなか、神の御計画がよく分からないのです。

 十六節、十七節にこういう御言葉が記されています。「この時代は、何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけてこう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』」と。

 これは子どもたちがするごっこ遊びのことが記されています。今の子も、昔の子もすることはそれほど違いはないのかもしれません。中でも人気がったのが結婚式ごっこだったようです。結婚式ごっこをしながら賑やかに笛を吹くのに、誰ものってくれない、楽しんでくれなければ遊びは成り立ちません。もうひとつがお葬式ごっこです。弔いの歌をうたって悲しみを演出しているのに、それにつきあってくれないのです。

 そのような子どもの遊びの姿を描きながら、神ご自身が一緒に楽しもう、悲しみも共にしょうと招いていると言われるのです。ところが、この時代の人々は、その神からの招きに対して、拒んでしまうのです。この姿は現代人の姿にそのままあてはまっているということができます。

 神が人と関わり共にしてくださろうとして、働きかけてくださる、神の側から救いの手を差し伸べてくださっているのに、それは気に入らないとか、これは見た目にかっこうが悪いとか、いろいろなことを口実にして、この神の救いの手を拒んでしまうのです。ここに描き出されている人の姿は、本当に頑固な姿であるということができるかもしれません。自分のことしか見えていないのです。自分の体裁や、自分の損得という計算が働いて、そこで働きかけてくださる真の神の救いの姿を見ることができないのです。

 

 主イエスはここで、神がどれほどまでにへりくだって、人間を救いたいと思っておられるかを描いて見せてくださっています。ヨハネが使わされて、その備えをしているのもその一つです。いや、ヨハネだけではない、長い旧約聖書の時間をかけて、神は救いの計画をこつこつと実行してこられたのです。それは、今、ここに生きている私たちが、もう一度神と共に生きることができるようになるためです。結婚に代表されるような人の喜びも、葬式に代表される人の悲しみ、主自らが共に担おうと語りかけてくださっているのです。

 神の救いに、自ら反旗を翻して、逆らい続ける人間に対して、神はこれほどまでに、救いの御手を差し伸べてくださるのです。

 

 今日は、復活節の第二主日です。この日は、「今、生まれたばかりの乳飲み子のように」と名前がつけられた主の日です。クアジ・モド・ゲニティと呼ばれる主の日です。この世界を創造し、人間をも造られた神は、私たちの歩みを、もう一度新しくすることのお出来になる方であると、そのことを覚えて祝う日です。私たちに新しく生きる道を、神は私たちに備えてくださるのです。

 神であられる主は私たちに新しく生きる道を私たちに備えてくださり、今、生まれたばかりの乳飲み子のように、新しく生きることができるように、天の御国に生きることができるように、この世界に激しく入り込んで来ているのです。そのように、神ご自身が、私たちを力強く招いていてくださるのです。

 お祈りをいたします。

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