2011 年 5 月 15 日

・説教 マタイの福音書12章1-8節 「真の安息を与えてくださる主イエス」

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 鴨下直樹

2011.05.15

 

 

 先週の水曜日と木曜日の聖書学び会の時に、妻の愛が御言葉を語りました。聖書の個所は出エジプト記第二十章八節から十一節までの「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という十戒のところからです。私が言うのもなんですが、大変良い御言葉の解き明かしでした。スイスの神学者ヴァルター・リュティーが書きました「あなたの日曜日」という小さな書物があります。その本を手掛かりに、ここで語られていることを、自分なりに語りなおしたのです。

 この本については何度か教会でも紹介しております。最初に記されているエッセーは次のような言葉で始まります。

「月曜日の朝の野らで働く丈夫な馬は声高くいななきます。一週間の作業がはじまるこの最初の日には、馬具をつけてもらう間ももどかしげに、せかせかと落ち着きません。やがて、いつもよりさっさと納屋から駆け出すと、ぐいぐい綱を引っ張っていきます。 私たち人間もまた、月曜日の朝はいつもと違うようです。一週間を通して、月曜日の朝ほど、職場への道がつらく感じられる朝はありません。」そんな語り出しです。

 妻の愛も、学び会の中で、最初にこの言葉から語り始めました。この本は、スイスで今から六十年も前に書かれたものです。スイスやヨーロッパというのは日曜日にはほとんどのお店が閉まっています。パン屋もしまっていますから、うっかり買い忘れるととんでもないことになります。それほどに、日曜日は徹底して休むのです。ところが、そのように徹底して休んでいるスイスであってもやはり働きに出る人は、月曜日の朝は気が重たいのです。日曜に十分休んだとはいえないのです。あるいはそれ以上に、月曜日からの生活が心苦しいのかもしれません。

 この聖書が語っている「安息日」というのは、今でいう土曜日のことですけれども、今日の日曜日と同じように考えても、それほど問題にはなりません。仕事を休む日なのです。私たちにとってこの日曜日というのは、心から安息を覚えることのできる日となっているでしょうか。月曜には気力も十分整って、農耕馬のようにガリガリとヒズメを引っかきながら早く働きだしたいと思えるほどになっているのでしょうか。心から平安をもって、新しい週に向かっていくことができるでしょうか。聖書学び会でもそのように問いかけられたのです。そして、この朝も、私たちはこの問いかけを聞く必要があると思っています。

 

 

 さて、今日私たちに与えられている聖書の御言葉はマタイの福音書12章に入ります。この冒頭に「そのころ」という書き出しで書かれています。「そのころ」というのは、「ちょうどそんなときに」というような意味の曖昧な言葉ですけれども、ギリシャ語はそうではありません。ここは「カイロス」という言葉が使われています。この「カイロス」という言葉は「時」を表す言葉ですけれども、曖昧な時ではなくて、限定された時間を表す特別な言葉です。この場合は、「ちょうどその時」と言ってもよいような意味です。

 「ちょうどその時」というのは、この十二節で主イエスが語られた「重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」とのまことの安息について主イエスがお語りになられた時に、という意味です。そういうタイミングでパリサイ人たちが安息日にしてはらなないことを主イエスたちがしていると訴え始めたのです。

 

 と言いますのは、「イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、麦を摘んで食べ始められた」と一節にありますように、ここで主イエスたちは麦の穂を摘んで食べ始めたのです。それを見てパリサイ人たちは腹を立てたのです。パリサイ人たちは安息日の戒めである「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という御言葉を非常に大切にしていました。この日はこの戒めのために労働してはらない日として定められたのです。

 私がまだ神学生のころでしたけれども、ドイツ人の宣教師と共に働いていました。そこ宣教師夫人はこの安息日の教えを厳密に守るように教会の方々に教えた人でした。こんなことがあったのです。教会に来られるある方のご主人が土曜日まで工場で働いていました。そうすると、土曜の夜遅くに家に帰ってきますから、土曜にはこの作業服を洗濯することができません。それで、日曜日にどうしてもしなければならないけれども、礼拝に来る前にそれをしておかないと乾かないから困るというこを話していたのです。すると、その会話を横で聞いていたこの宣教師は、非常に厳しくこの女性を戒めました。「安息日に働いてはならないと聖書に書かれているでしょう。この日に洗濯することは罪です。」とまで言ったのです。私はそれを聞きながら、一方では厳しいと感じたのですが、もう一方ではさすがドイツ人だなぁと思いました。ドイツの人々というのは、このようにして主の日を大事にしてきたのです。

 私たちはこのような話を聞くと、ああ、この物語はドイツ人のように日曜日は何もしてはならないという、厳しい国の人々のことを語っているのかと考えてしまいがちですけれども、そうではありません。

 むしろ、私たち日本の方がもっとひどいとさえ言えます。日曜日に何か用事があればそれを優先して礼拝は二の次にしてもかまわないということにだってなりかねないのです。そして、私はパリサイ人のような信仰ではないからと、それを正当化することさえできてしまうのです。このように安息日というのは、重んじすぎてしまったり、軽んじすぎてしまったりしているのが、今日の私たちの世界です。そして、それが私たちの生活に非常に根深く浸透しています。このマタイの福音書の第十二章というのはパリサイ人たちとの論争がどんどん激しくなってきているところです。そして、やがてこの論争の行きつくところは、十四節によると「パリサイ人は出て行って、どのようにイエスを滅ぼそうかと相談した」とありますけれども、この対話によって明確な殺意が生じるようになったのです。それほどまでに、パリサイ人たちの考え方と、主イエスの考え方は異なっていたのです。

 

 パリサイ人たちが安息日をどのように考えていたかはそれほど難しいことではありません。「安息日にしてはならないことをしたのです。」と一節にあるとおり、してはならないと決められている戒めを侵したと考えたのです。それは、主の戒めを厳格に守ろうという考えです。決められていることを、正しく行うことが、より宗教的な、より信仰的は判断だと考えていました。パリサイ人にかぎらず、誰もが一般的に考えることでしょう。安息日というのは、休む日です。それを文字通り行おうとしただけのことです。スイス人でなくても、ドイツ人でなくても、誰もがそのように考えます。安息日は働かない。それを文字通り実践するというのは簡単なことではありません。お店を閉めるということ一つにしたって、それは非常に大きな決断です。みんなが休んでいる日に、お店を開ければ、お客さんは沢山やってくるでしょう。沢山の利益を得ることができるのえす。けれども、主が命じられたのだから、私たちは働かなくても養ってくださる主を信じて働かない自由を選び取ることができるというのは、非常に信仰的な決断であるということもできるのです。ですから、キリスト教会はこのような信仰の伝統は大切な信仰の表し方だと信じて、現代の安息日である日曜日は働かないことによって神への信頼を現わすという道を選び取ってきたのです。

 

 では、主イエスと弟子たちはどうだったのかということを見て見ると、「弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた」のです。私は今あえて一節の後半のところだけを読みました。「ひもじかったので、穂を摘んで食べ始めた」という行為は間違ったことではありませんでした。

 旧約聖書の申命記第二十三章二十四節、二十五節に次のように記されています。「隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。隣人の麦畑の中にはいったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまをつかってはならない」

 ここに記されているのは、明らかです。人のぶどう園であろうと、麦畑であろうと、おなかが空いていたのなら、そこで手でとってお腹がいっぱいになるまで食べてもよかったのです。実に寛容な教えです。もちろん、今の日本の家庭でみなさんが趣味でやっているような小さな畑でそんなことをされたらたまったものではないでしょう。誰かが入ってきてお腹いっぱい畑の作物を食べられたのではたまったものではありません。もちろん、規模が違うのでこういうことが許されたのです。お腹いっぱい食べることが許されていたのです。けれども、、ここで語られているもう一つのことは、そのように取って食べることは許されたけれども、籠にいれてしまう、あるいは、収穫するということは禁じられたのです。それは、当り前のことです。人の畑の作物を収穫するようなことは許されてはいないのです。ですから、ここで弟子たちがお腹がすいてひもじかったので、畑に入っていって、手で麦を摘んで食べたというのは何の問題もない行為でした。ところが、問題はそれが安息日であったということです。安息日にはあらゆる労働が禁止されているのです。そして、パリサイ人たちにしてみれば、この弟子たちの行為は労働に当たると考えたのです。

 最初に十戒の戒めとして「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」があるといいました。けれども、この時代には安息日の戒めは一つではなくて、この戒めを侵さないために三十九の安息の戒めを守るための労働のいましめが作られていたと言われています。その中には、安息日には刈り取りをすること、刈り入れをしたものをふるいにかけること、食事の支度をしてはならないなどという項目があったようです。ところが、この三十九の規定をつくるだけではなくて、さらにこの三十九のそれぞれの項目に、そこからさらに細かい戒めをつけました。例えばその三十九の項目の中に、荷物を運んではならないという戒めをつくると、そこに、さらにその荷物はどれくらいの重さまでが荷物に入るかという項目をつくったのです。そして、その荷物と言うのは干しいちじくの重さまでと決めたというのです。

 そういう考え方がありましたから、ここで弟子たちは麦畑に入って麦を摘んで食べたという行為は、自分のために食事を整えたことになりますし、収穫をした、刈り取りをしたことになりますし、麦をふるったことに値するではないかと言い始めたのです。

 パリサイ人たちがここでなぜ、腹を立てているのかというと、自分たちはそれを厳密に守ってきたのです。それが、神の前に誠実な信仰の姿だと信じてきたのです。

 

 それで、主イエスがお答えになられたのは、三節と四節に記されているダビデの物語です。「しかしイエスは言われた。『ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供のの者たちも食べてはならない供えのパンを食べました』」とあります。

 このダビデの出来事というのは安息日の出来事と記されているわけではありません。この出来事は第一サムエル記の二十一章の六節に記されている出来事です。そこにはこう記されています。「そこで、祭司は聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。」とあります。このパンがとりかえられるのは、レビ記の二十四章八節によればそれは安息日に取りかえられることになっていました。

 ですから安息日に食べることのゆるされていないパンを、当時まだ王になってもいないダビデたちは食べたではなかったかと言われたのです。そして、続く五節ではこうも言われました。「また安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にはならないということを律法で読んだことはないのですか」と言われたのです。これは、何を言っておられるかと言うと、祭司たちは安息日に働いているではないかということです。安息日に祭司たちは宮詣りに来る人々に仕えているのです。時には割礼を施したりもします。会堂に集まって御言葉を聞くのです。そのことをあなた方は何と思うのかと問いかけられたのです。

 パリサイ人たちにしてみれば、何を主イエスがお語りになろうとしておられるのかよく分からなかったと思います。そして、パリサイ人からの答えを待つことなく、続けてこう言われたのです。「あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大きな者がいるのです」と言われたのです。

 ここで主イエスが語っておられる宮というのは、神の家と言ってもいいでしょう。神がすんでおられるところ、神がおられるところです。それと、安息日にしたはならないことをするのと、何の関係があるのかと言いたくなるところです。

 この言葉を聞いたパリサイ人たちはこう思ったはずです。戒めを守らなければならないことと、神のこととは違う問題ではないかと。人に課せられていることと、神ご自身を表す宮のこととは、次元の違う問題のはずです。しかし、主イエスはまさにそのことをお語りになられたのでした。

 主イエスはここで問いかけておられるのです。「安息日は何のための日ですか」と。安息日というのは、いつのまにか、戒めを守る日であって、その日は働いてはいけないし、洗濯や掃除をするのはもってのほかだということになってしまっていないか。この日は神と交わる日、神ご自身が、本当の安息を与えてくださる日であることを忘れていないかと問いかけておられるのです。

 最後の八節には「人の子は安息日の主です。」と言われました。「人の子」という言葉は何度も出てきていますけれども、主イエスご自身をさすと考えてくださってかまいません。わたしこそが、安息を与える主だと、主イエスはここで宣言なさったのです。私と共にいる弟子たちは神と共にいるのであって、ダビデが安息日に神殿のパンを食べても問題がなかったように、弟子たちがわたしとともに歩いているときに、麦を摘んで食べたのと何がちがいますかと言われたのです。

 主イエスと弟子たちがともにいることは、宮詣でをして、神と一緒にいることにまさるとさえ言われたのです。主とともに安息日を過ごすこと、そこにこそ、大きな慰めがあり、喜びがあるのだと言われるのです。

 

 この水曜と、木曜に妻が語った説教の中で、やはりリュティーの書いた「あなたの日曜日」という本からこんな出来事があったと紹介しておりました。それは、ある日の日曜日、町で少し変わり者として知られた人がその日も礼拝に来ていました。背広のボタンの穴のところに無邪気にも小さな花を一輪、挿しています。礼拝が終わって帰るときに、その人はリュティ牧師に言いました。「今日で二千回目の礼拝なんです」と。その時び後ろを通りかかった別の教会員が、牧師にちょっと目配せをします。「あまりまじめに信じるな」という合図です。けれども、リュティー牧師は「二千回目の礼拝出席!ああ、なんとおめでたいことだろう!この日曜日は他の人の記録に比べてもなかなかのものと言えるのではないか。たとえ、週刊誌がこのあたまのはげあがった人の記念すべきささやかな記録に注目することはなかったとしても、おそらくこの男の記録は天の御使いにまで波紋を広げることでしょう。」と記しているのです。

 この人は、それほどに礼拝に集うことが楽しみなのです。礼拝に集うたびに数を数えほど楽しみにしているのです。そして、その祝いをささやかに自分で祝いたいと思うほどに喜んでいるのです。それは、小さなことかもしれません。ボタンの穴に花を一輪さして集うことなど、そんなに意味はないことだと思うかもしれません。けれども、それほどに、礼拝に集う喜び、そのように主の日を喜ぶ思いがあることは、小さなことではないのです。私は、主ともう二千回もデートをしてきたのだ!という喜びが、この頭のはげあがった男性には少なくともあるのです。神とともにいる喜びが、この男の人にはあるのです。

 

 まさに、そのように私たちはこの主の日を喜ぶことができるのです。神が共にいてくださり、私たちが安心していきることができるように、本当の安息を与えてくださるのです。私たちの主は、そのように祝いたいと思えるような本当の安息を、今日、私たちに備えてくださっているのです。そして、そのような憩いを得て、私たちは明日からの月曜日を気力が十分に養われて、喜んで働き始めることができるようにされるのです。

 

 お祈りをいたします。

 

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