2011 年 5 月 22 日

説教:マタイの福音書12章9-21節 「傷ついた葦を折ることなく」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 23:38

2011.5.22

鴨下直樹

「栴檀」という、この岐阜にあります俳句の結社があります。私たちの教会員である辻恵美子さんが主宰をしておられます。昨日のことですけれども、この栴檀の十周年記念記念式典に招かれまして出席してまいりました。俳句の世界でも、系譜というものがあるようで、その中でなされた講演の中で系譜というものを大切にするということが語られました。非常に興味深い内容の講演です。

今、私は「俳句でも」と言いましたけれども、教会も系譜というものがあります。私たちの同盟福音という教会は、プロテスタントという流れにあります。また、敬虔主義の流れの中にある福音主義の教会、あるいは、自由教会の流れを持っているということもできます。敬虔主義であるとか、福音主義とか、自由教会などと言っても説明がなければ良く分からないかもしれません。ですから、そのようなことを理解する意味でも、自分たちの流れを学ぶということは大変有意義であると思います。しかし、残念ながら、この朝、このことについて説明をするいとまはありません。けれども、教会というのもまた、歴史の中でさまざまな戦いを通して、いくつもの派に分かれて今日まで来たということができます。

私が教会の歴史の中で起こった分裂を説明する時に、「キリステ教会」という言葉を使うときがあります。その場合、あまり良い意味で説明しているわけではありません。教会の歴史を振り返ってみると良く分かることですけれども、それぞれの主義、主張が異なると一緒にやっていくことができないと考えて、どんどんキリステ(切り捨)ていった、分裂していったという部分があるのです。それは、教会の特徴と言ってもいいかもしれませんが、それぞれが、自分たちの考え方が正統だ、正義だと言って、聖さを守ってきたのです。これは、良く見れば真理に立とうとしたということでもあるかもしれませんけれども、別の視点でみれば寛容がないということもできます。

もちろん、それが悪い面だけであるということはできません。それによって、それぞれの教派の特徴が際立つということも言えますし、そのような実にさまざまな教会は存在することが、教会の豊かさを表すということもできるのです。そして、同時に教会がこれほど多くの教派、教団に分かれていたとしても、互いに共通して認め合っているものがあります。それは、使徒信条であり、十戒であり、主の祈りであると言えるのです。これは否定する教会はありません。そういう意味でいえば、教会はそれでも同じ土台の上に建てられ続けているという非常に素晴らしい面もあることを言い添えておかなければならないでしょう。そして、そこにこそ、キリストの福音が語られ続けてきた、神の御業であるということができると思います。

さて、最初から少し難しいことをいいました。けれども、このそれぞれの主張のために分裂が起こる、争いが生じてしまうという点を考えてみますと、これは私たちの日常の歩みの中で頻繁に起こっていることも、これと良く似ています。夫は妻に自分の正統性を語り、妻は夫に自分がどれほど忍耐していたかを語るという場合があります。人はお互いに、どれだけ自分が報われていないか、どれだけ苦しめられているか、我慢してきているかと語ります。その時、誰もが考えていることは、自分には自分の言い分があるということです。そして、自分の正しさに固執しているときに、残念ながら、相手にも言い分があり、理由があることにはあまり気がつきません。こうして、正しさと正しさがぶつかり合うと、手がつけられなくなってしまいます。そうすると、どうなるかというと、いかにして相手を黙らせるかということを考えてしまうのです。怒鳴るというのも、その一つです。手を上げるということもあるかもしれません。そして、それ以上に相手を憎む思いが膨れ上がって殺してしまおうと考えることまで起こってしまいます。それは本当に醜い姿です。

こんな出来事が語られているのが、今日、私たちに与えられている聖書の出来事です。先週私たちが聞いた御言葉は安息日の主イエスの弟子たちが麦畑にはいって、稲を摘んで食べたという出来事でした。そして、今日の箇所は、そのあとの出来事が記されています。主イエスは安息日ですから、会堂にはいられたのです。今でいえば礼拝するためです。御言葉を聴くためです。そこで、神がどのように願っておられるのかを知るのです。礼拝において、人は神と対話をします。それは、この時代でも同じでした。

主イエスが会堂にはいられると、パリサイ人たちはそこにいつものように入ってきます。そして、その場でも主イエスに問いかけたのです。それは「安息日に人をいやすことはただしいことでしょうか」という質問をするためでした。その会堂には「片手のなえた人」がいたのです。言い伝えではこの人は石工であったと言われています。しかも会堂にはいっているのですから異邦人であったということでもありませんでした。ユダヤ人です。神の民とされていた人です。そして、パリサイ人たちはこの片手が病の人のことを良く知っていたはずなのです。そして、「この人をいやすことは正しいことか」と主イエスにお尋ねになったのです。

私たちは癒しをするということを考えると、それは緊急のことだからすぐにでも治してあげたらいいと考えるのが一般的かもしれません。けれども、この時代というのは、そのように考える人はまずありませんでした。しかも、この日は安息日です。癒すということは、治療の行為をすることでしたから、彼らの考えによれば、安息に労働することになり、律法の戒めに反することになったのです。しかも、急を要するような病ではないのです。それは、安息日にすることではなくて、明日まで待てばいいだけのことでしょうと、誰もが考えていたのです。

ですから、パリサイ人たちに言わせれば、答えは明らかなのであって、ここで主イエスが、明日にすればいいことだと言おうものならば、さっき麦畑で麦を摘んで食べたこととの一貫性がないではないかということができたのです。

ところが、ここで主イエスはこのようにお答えになられました。「あなたがたのうち、誰かが一匹の羊を持っていいて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか」と十一節でお答えになりました。これには少し説明がいります。ユダヤ人たちのあるグループの人たちは、安息日の細かな規定の中で「もし羊か穴におちたらどうするか」ということを定めたのです。穴に落ちた羊を助けることは労働に値するから律法に反するのです。けれども、その動物に餌を運ぶことは許されるとしたのです。本当は先週も話した通り、干しイチジク1つまでの重さまでしかだめなのですけれども、この場合は良し、としたのです。そして、布団をかけてやったりしても良いとしました。けれども、羊は自力で穴から這い上がってこなければならないとしたのです。

けれども、主イエスはそういうことをお語りにならないで、あなたがたは実際には助けてやっているではないか、ということをここで話されたのです。そして、そのうえで「人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」と続く十二節でお答えになられたのです。

主イエスのお答えは明確でした。戒めを守るために、正しいことを守り続けることよりも、人が生きること、人が喜んで生きることができることの方がはるかに大事だと言われたのです。そして、言われただけでなくて、その場で、片手のなえたひとをお癒しになられたのでした。

あっけにとられたのはパリサイ人たちです。まさか、自分たちの目の前で、自分たちが大事にしている戒めがこれほど大胆に破られるとは思ってもみなかったのです。自分たちが大事にしていることを、主イエスによって踏みにじられたと感じたのです。自分が大事にしているものを軽んじられるという思いを抱くときに、人は怒りを覚えます。まして、自分たちの信念と言ってもいいほどに大事にしてきたことであればなおさらです。そうして、このパリサイ人たちはキリステを実行しようと思ったのです。それがこの十四節にでてくる「パリサイ人たちは出て行って、どのようにイエスを滅ぼそうかと相談した。」。という言葉の中に現れています。相手が滅んでもいいと思えるほどの自己肯定です。こうして、ここからパリサイ人たちの中に主イエスに対する殺意が生まれたのだとマタイは記録しているのです。

けれども、そのような思いになる時、自分の中に何が起こっているかということに気づいていることが大事です。私たちも、相手を滅ぼしてしまっていいとまでは思わなかったとしても、怒りを爆発させたり、自分の正統性を必死になって主張するということは日常的に良くおこすことです。その時、自分のことにばかり気を取られてしまって、相手のことに目がむかなくなっていることに気づかなければなりません。そこで問われるのは想像力をもつことです。もちろん、これは、相手のことを愛することと言いかえることもできます。

主イエスはここでどうなさったのかというと、この個所に続く15節を見てみますと、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。相手を言い負かしたので、そこでいい気になって、さらに語り始められたということを主イエスはここでしてはおられません。主イエスはここで引くことのできる自由をもっておられるのです。「そして、ご自分のことを知らせないようにと、彼らを戒められた」とあります。主イエスは自らのことを宣伝しようとしておられるのではないのです。自らの正義を主張しておられるのでもないのです。

それで、マタイはこの出来事を通して預言者イザヤの書が成就したのだと言って、イザヤの言葉を語っています。このイザヤの言葉について丁寧に説明するいとまはありません。ただ、この言葉を注意して見て見ると「公義」という言葉が新改訳では使われています。新共同訳聖書では「正義」という言葉が用いられています。正義という言葉であれば良く意味が分かるのですけれども、公の義、公義という言葉はあまり用いませが、意味は明らかです。公に果たす義務のことです。この言葉は新改訳聖書では下の欄外のところに注がついておりまして「あるいは『さばき』」と記されています。といいますのは、この言葉のもともとの意味は「分ける」という意味です。白と黒とを分ける。間違っていることと、正しいこととを分ける。それで、この言葉は「判決を下す」とか「判決を下す」という意味として理解されるようになりました。ですから「さばく」という意味で理解することもできる言葉なのです。

けれども、このイザヤ書の言葉をよく読んでみますと、「公義」という言葉と共に「異邦人」という言葉も二回使われています。特に十八節には「異邦人に公義を宣べる」とあります。ここで語られている異邦人というのは、簡単に言いますと「宗教的なおちこぼれ」という意味だと、ある聖書学者が書いております。戒めを守ることのできない人々という意味合いがあるのです。義しさに生きることができない人たちということです。そして、そういう人は本来であれば裁きをうけるべきであると考えられてきました。けれども、この「公義」という言葉は「公平」という意味もある言葉です。「正義のさばき」というのは、先ほどから語っているように、自分を正当化するような力です。けれども、ここで主イエスのなさったことは、そのように自分自身を肯定して、他を退けるというような裁きをなさったわけではありません。義を振りかざしたわけでもないのです。ここで公義とされていることばは「人を不当に扱わない」という意味をもつ言葉なのです。

ですから、ここで「彼は異邦人に公義を宣べる」と言われるときに、「宗教的に落ちこぼれている人であっても、その人を不当にあつかったりはしない」という意味で語られている言葉なのです。

二十節で「いたんだ葦を折ることもなく」とあります。「いたんだ葦」というのは、もうほかっておいても折れてしまう、だめになってしまうものですから、見つけたら早々と折ってしまった方が分かりやすくて良いのです。けれども、そんなことはしないと言われるのです。続いて語られている「くすぶる燈心を消すこともなく」もそうです。油をつけていて、その燈心がくすぶってくるとやがて火が消えてしまいます。ですから、そんな燈心は捨ててしまって早く新しいものに変えた方が良いのです。けれども、そのように使い物にならないからだめだと分かっているからと言って、わたしはそのようなものを簡単に捨てたりはしないのだと、言っているのです。

ここで、マタイはこの主イエスのお姿をご覧になりながら、イザヤのこの御言葉を思い出したのです。主イエスが語っておられる義というのは、だめだと思うものを次から次へと切り捨てていけばそれで良いというような義ではないのだということを、ここで伝えようとしておられるのです。

安息日に会堂に集ってきている片手のなえた人を見ながら、パリサイ派の人はこの人は神からキリステられた人だと、どこかで見ていたのです。その人の悲しみまで受け止めようなどという心はありませんでした。ですから、その人を目の前にして、主イエスにこの人を今日癒すことは正しいことでしょうかと問うことができたのです。

けれども、主イエスは、その人の悲しみが見えるのです。その人が喜びを持ってもう一度石工として働きたいと願っている、本当の自分を取り戻したいと願っていることが見えているのです。ですから、そのような人を、もうこの人は神から裁かれて病になってしまったのだなどとは言わないし、この人は、まさに、今日、この礼拝で神に正しくあつかわれることが必要だということを知っていてくださるのです。そうして、この人を癒してくださったのです。

島崎光正という今から十年くらいに亡くなられた詩人がいました。時々礼拝の中でも紹介します。この人の書いた書物の中に「痛める葦を折ることなく」という書物を書いておられます。この方は詩集を多く出されていますが、この本はちょうどこの朝私たちが聞いている御言葉をそのまま書物のタイトルにしたものです。この島崎光正という方のことを少し紹介する必要があるかもしれません。この人は、生まれたときに二分脊椎症という病を持って生まれました。そのために足が不自由でした。そういう経験から、障害を持つ人と教会とのあり方を問うた論文集、あるいは講演集と言ってもいいものです。

この本のタイトルとしてあげられている「痛める葦を折ることなく」という言葉は、今日の聖書の個所でいえば「痛んだ葦を折ることなく」という言葉と同じです。この島崎光正さんの本を読んでいますと、この「痛んだ葦を折ることなく」という御言葉は、障害のある人たちの中で特に意味を持つ慰めの言葉として理解されていることが良く分かります。

と言いますのは、痛んだ葦に例えられている人々、この場合でいえば体のどこかに障害を持つ人が、それゆえに、切り捨てられてしまうような出来事が多くのところで行われてきたからです。傷ついている者に、さらに追い打ちをかけるようなことが行われてしまうのです。そうして、自分の力で立つことのできる力や勇気が奪われてしまうということが行われてしまう。

強い者が、できるものが、できないものを虐げる世界、強い者が、正義であるということが常識と思われている。それは、常にいろいろなところで起こることですけれども、主イエスは、そこで、強い者の側に立っておられるのではないことが見えてくるのです。かえって、弱い者と共に立ち、弁護してくださる、自分は傷ついた葦だ、自分は捨てられてしまうのだろうかと恐れを持つ人の傍らに立って、「わたしは人を不当には扱わない」と語りかけてくださるのです。

あなたが、あなたで生きることは素晴らしいことだと語りかけて、まさに、自分が傷ついた葦となられて十字架にかけられて死なれたのでした。こうして、主イエスは痛んだ葦と言われ、くすぶる燈心といわれる、信仰的に、宗教的に不十分と考えられていた異邦人の希望なってくださったのです。

主イエスはこのようにして、人々が自分の正しさ、正義、正統性を主張することによって力を得よう、権力を持とうという世界の中にあって、誰よりも正義であり正しいはずであられるお方が、そこで傷つき、弱められている人たちを支えてくださる方であることを自ら示してくださったのです。

けれども、その姿でさえ、自分たちの考えを退けた、自分たちを軽んじたとしか受け止められなくて、そのような主イエスを殺そうという殺意が生じてしまったのです。それは本当に残念なことです。ですから、ここで主イエスは自ら身を引いて「ご自分のことを人々に知らせないように」言われたのです。

ほんとうに正しさに生きる、義に生きる者というのは、そのように相手のことが見えて、相手を生かす愛に生きている者のことだということがここから良く見えてきます。主イエスは、不完全である私たちが、神の前に立つことができるように、神の前で義とされるように、自らを犠牲にして戦ってくださるお方なのです。私たちはこのようにして、主イエスに支えられているのです。主イエスに受け止められているのです。そして、この相手を受け止める大きな義のなかに、私たちを招いていてくださるのです。

お祈りをいたします。

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