・説教 マタイの福音書10章34章-42節 「自分の十字架を負って」
鴨下直樹
2011.4.2
今、私たちはキリストの苦しみを覚える受難節を迎えています。今年の受難節は特にさまざまな苦しみの意味を考えさせられます。未だに私たちは放射能の恐怖のもとで生活しています。そういう中で、四月を迎えました。新年度が始まります。それに伴って、新しい不安を抱えている人々もいます。仕事の部署が変わるとか、新しい生活が始まるということもあるでしょう。新しい年度を迎える期待と不安の中で、私たちは受難節を過ごしているのです。キリストの苦しみを思いながら歩んでいるのです。
そして、今朝、私たちはここで「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」という御言葉を聞き、つづいて語られている「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」とのみ言葉を聞くのです。
思わずため息をつきたくなるような御言葉です。ゆったりとした気持ちで、落ち着いた気持ちになりたいと思いながら聞ける御言葉ではありません。私たちの生き方そのものを問いかけざるを得ない、厳しい言葉です。そして、この言葉の前に私たちは今、立たされているのです。
このみ言葉を前にして、私たちの心の中に浮かんでくる思いは、「なぜ」という思いであるかもしれません。キリストは平和の君と呼ばれるお方ではなかったのか。キリストが十字架を負ってくださるお方なのではなかったか。それなのに、なぜ、平和ではなく、剣をもたらすと言われるのか。なぜ、自分の十字架を負えと言われるのか。ここで語られている主イエスの言葉は、主を信じる信仰に生きようと願って来た者にとっては、どうしても考えざるを得ない言葉です。問わざるを得ません。なぜ、ここで主イエスはこのように語っておられるのか。
そうです。今、私たちはこの言葉の前に、もう一度、平和の意味を考えてみなければなりません。そして、十字架の意味をも考えてみなければなりません。
今回の地震と津波と原子力発電所の恐怖によって、私たちは平和をかき乱されたと感じています。私たちは、どこかで非日常的な出来事が突然私たちの身に降りかかってくると、平和ではなくなったと考えます。しかし、その前は平和だったのかと問うならば、「今よりは」と答えることはできるかもしれませんが、そこに本当の平和があったわけではありません。問題が潜んでいても、それが明るみに出るまでは、何も感じないで、あるいは、感じないふりをして生活していただけにすぎません。仮に、それを「消極的平和」と名付けてもいいかもしれません。それは、人と難しい関係にならないでお互いに、うまい距離をとりあうことのできる平和です。問題が起こるまでは、それに見て見ぬふりをしておける、有効期限付きの平和です。争うにはエネルギーがいるし、疲れるし、しんどいから、今はやらないだけというこの消極的平和は、キリストが私たちに与えてくださった平和ではありません。ただそれは私たちが、自分の人生経験の中からやっとのことでつくり出した、貴重な平和というものでしかないのです。
しかし、キリストはそのような平和を、問題のすり替えでしかないと、ここで問いかけておられるのです。三十四節から三十六節をお読みします。
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしはその人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」
あまり、耳にしたくない言葉です。できれば、こういう御言葉は通り過ぎて、聞かなかったことにしたくなるような御言葉です。主イエスはここで「剣をもたらす」と語っておられます。
そこで、考える必要があるのは、主イエスのもたらす剣とはどのような剣なのかということです。私たちは剣というのは、相手を傷つける武器のことであると考えます。傷つけるどころではなくて、相手の命さえ奪うのが剣のもたらす力です。しかし、ならば主イエスは、相手を傷つけ、相手の命を奪うというような剣をもたらしたことがあったかどうか、よく考えてみなければなりません。むしろ、主イエスは相手に命を差し出し、自ら傷つけられることによって平和をもたらしたのではなかったか。
そうすると、ここで主イエスは私たちに何を言おうとなさっておられるのでしょうか。それが、続く言葉である三十八節の「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」で語られているのです。
そうです。主イエスは真の平和を築き上げようと思うなら、相手とうわべだけの関係を築き上げることなんかでは成り立たない。むしろ、自分が傷つく、いや、十字架にかけられるほどの重荷を負うことになるかもしれない。けれども、そこに真の平和の道が築き上げられるのだと、語っておられるのです。自分を犠牲にすることなしに、本当の変革は起こらないのだと、主イエスは言っておられるのです。そして、主イエスは、ご自身がまず先頭に立って、この受難の道、苦しみの道を歩んでくださったのです。
「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」と三十九節にあります。ここで語られている主イエスの言葉、平和をもたらすために来たのではないという言葉も、自分の十字架を負へとの言葉も、すべてがこの三十九節の言葉を目指して語られているのです。「自分のいのちを失ったものが、それを自分のものとする」のです。
イギリスにC・S・ルイスというキリスト者の児童文学者がいます。今、映画館でこの人の書いた「ライオンと魔女」というシリーズが映画化されています。いつかこの作品についても紹介したいと思うのですが、今日はその本ではなくて、このC・S・ルイスが書いた「四つの愛」という本のはなしをしたいと思います。この書物が記されて以来、愛には四種類あるということが一般的に言われるようになったほど、良く読まれるようになったものです。ルイスは愛には、家族愛、性的な愛、友との愛を示す友愛、そして聖書の言うアガペーの愛の四種類があると説明しました。ところが、この愛はすべて与える愛と、受ける愛との二つにも分けることができると説明しました。
はじめの三つの愛は、与える愛と、受ける愛の相互によって成り立つけれど、最後の聖書の語る愛というのはただ一方的に与える愛、チャリティーの愛だと言います。
チャリティーと聞くと、私たちは先日も教会から東北の地に救援物資を送るために多くの方々から募金を集め、さまざまなものを集めて、東北まで持って行ったことをすぐに思い出すことができると思います。私たちはこのチャリティーという考え方、それほど嫌いではありません。自分も何かしたいという気持ちがあるからです。ところが、私たちが義捐金を集め、支援物資を集めて被災地に届けても、それが受ける人にとって、私たちが描いているような感謝の気持ちでいつも受けたれるということではないことを私たちは知らなければなりません。そこにはいつも少し、あるいは大きなずれが生じるのです。
先日の祈祷会で妻の愛が面白いことを話しました。妻はドイツにいたときに、アウスランド・ヒルフェといいまして、海外支援のボランティアの手伝いをしに行っておりました。この働きはヨーロッパ周辺の国々の中でも貧しい国々に同じように物資を届ける働きです。その中でも一番多く集められるのが衣類なんだそうです。そして、そのうちの多くはもう自分では使わなくなった衣類です。サイズもスリーLとかいう大きなサイズのものが多いというのです。一緒に働いている人と顔を見合せながら、これは送れないねと言いながらゴミの袋に分けて行くのです。その祈祷会の中で、妻が言いました。「自分たちの気持ちまであちらに届くというということではない。そうではなくて、その架け橋をするだけだ」と。私たちはこのことに気づいていなければならないと思います。
貧しい国に贈る衣類ですから、少し想像力を働かせれば本当に必要なものは分かりそうなものですけれども、いつ行ってもそれらのものがたくさん届けられるのだそうです。そのようなチャリティーは自己満足でしかありません。相手のことが見えていないままに、自己満足のためになされるチャリティーは、ここで言う「与える愛」ではないのです。なぜなら、何も自分を犠牲としていないからです。
自分が犠牲を払う愛の行為というのは痛みが伴うのです。まして、自分のいのちを失うほどに、相手に与える気持ちがあるならば、それま間違いなく相手に届く愛となるのです。このような犠牲を伴う愛の行為が行われて、そこではじめて相手にこの真の愛が届くのです。
もし、私たちがキリストのように自分を犠牲として与える愛に生きることができるなら、自分のいのちを失ってもいいから、そこに平和を築き上げようと生きるならば、主イエスは言われます。
「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです」。四十節です。
まるで、主イエスとわたしたちが一つとされているかのように、主イエスは語っておられる。この言葉は、驚きの言葉です。
私たちは自分の重荷を負うことを拒みたくなります。自分の経験や、努力によって見せかけの平和をつくり出すことで精いっぱいに感じる、そのような私たちが、ここで、キリストと一つにされる道が記されているのです。私たちが自らを犠牲とする愛に生きるならば、私たちは私たちと関わる人々との中にあってキリストを紹介するものとして一つとされるのです。
四十二節に「この小さい者たち」という言葉が記されています。私たちができる犠牲など、キリストに比べたら比べるまでもないほど小さな犠牲しか払えません。腹をたてることを控えるとか、争わないよう心がけるとかしながら、自分が傷ついたとしても、損をしたとしても、キリストの愛に生きようとする。小さなことだけれども、自分のできるかぎりの愛に生きようとするときに、その愛が届くことがあるのです。
「水一杯でも飲ませるなら」と続いて記されています。私たち日本人にとって、一杯の水をいただくなどということは何でもないことです。むしろ、水しか出してくれないのかと感じるほどに、小さなことです。喫茶店に入って、店員が水を出してくれたら、その人は報いにもれることはありませんというような事が、ここで語られているのではもちろんありません。水は主イエスの時代、大変貴重なものです。なぜか新改訳聖書には訳されておりませんけれども、他の翻訳の聖書はどれも「冷たい水」となっています。冷蔵庫などというものはありませんから、汲んで来た新鮮な水という意味です。キリストの弟子だという理由で、汲んで来た冷たい水を差しだされるというのは、もちろん夕食に招かれるというような大きなことではないけれども、キリストの弟子として受け入れられるということです。私たちが愛に生きるなら、そのようなことが起こるのだと言われるのです。私たちのような小さな者にも、それは起こると主イエスは言われるのです。
この「小さな者」というのは四十一節にあるように、「預言者」であり、「義人」と記されています。「預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。」とあるとおりです。
私のことで恐縮ですけれども、ドイツにおいたときに、最後の一週間Sigen(ズィーゲン)という町のはずれにある小さな町で教会実習をいたしました。私が奉仕した教会は自由福音教会としては比較的古い教会で、百五十年ほどの歴史がありました。教会には記念誌がつくられていまして、昔の教会のことを、お年寄りたちが懐かしそうに話します。私はそういう話を聞くのが好きでしたから、昔の話をよく聞かせてもらいました。すると、時々会話にでてくるのが、ライゼブレーディガーという存在です。旅行説教者とでも訳すべきでしょうか。今でいえば巡回伝道者ということになるのでしょうが、このライゼプレーディガーという説教者たちは特別に伝道説教をして歩いている人ではないのです。まだ、教会ともいえないほどの小さなキリスト者の集まりであっても、自ら訪ねて行っては、そこで説教をするのです。教会ですることもありますけれども、ほとんどは家庭を訪問すると、その家の人が自分の友達や、キリスト者の仲間を呼んでみ言葉を聞くのです。
こういう話をし始めますと、お年寄りたちは口をそろえて、あの時は楽しかったと言います。自分はまだ小さくて説教はよく分からなかったけれども、大人たちの嬉しそうな顔と、そして、そのあとの食事が楽しかったなどいう話がはじまります。誰か一人が話し始めますと、自分の話も聞いてもらいたい、自分にもこういう経験があると次々に色んな話がでてまいります。
私がそのライゼプレーディガーというのは牧師なのかと尋ねますと、そんなものではない、ただ聖書の話が上手で、色々なところで話をするのを頼まれているうちに、次々に色々な街々を訪ねるようになる者がほとんどだということでした。今のように神学校を出て、牧師の試験を受けてなどという時代ではなかったのだと言うのです。
もちろん、これは一つの姿です。私たちは預言者とか義人などと言われると、少し尻込みしてしまいますけれども、聖書について語ること、あるいは自分の信仰について語ることを求められるという機会が訪れることがあります。そして、そのようなときに、いつも立派に、大胆に、あるいは雄弁に語ることができるとも言えないでしょう。それこそ、小さくなって語ることしかできないかもしれません。あとで、自分の語った言葉に後悔がともなうなどということだってあるかもしれないのです。けれども、ここで語られている「この小さい者たち」というのは、そういう人の姿を現しています。新改訳の注を見ますと、この言葉は「へりくだった人たち」とあります。へりくだらざるを得ないのです。けれども、そのような私たちの言葉が、生き方が、私たちと関わる人に受け止められることが起こるのです。そして、そのような犠牲が、新しい出来事を引き起こすのです。平和をつくりだすのです。
そして、主イエスはそのような出来事は決して小さなことではないのだと、励ましてくださっているのです。それこそが、小さなキリストとして歩むことだと言ってくださるのです。
私たちがこの神の御言葉を語るとき、最初に語られているように、うわべだけの平和な日常に波風が立つようなことが起こるかもしれません。相手を傷つけるために、言葉を語るのではないのです。自分が傷つくことを覚悟しなければならないことが起こるのです。けれども、それでも自らが小さい者となって語るときに、その言葉は相手に与える愛となるのです。平和をつくりだすことになるのです。そして、そうなるように祈りつつ語るのです。祈らざるを得ないのです。そのようにして小さな者が語るならば、そこで何かが起こるのです。水一杯を差しだされるような出来事がです。それは大きな変化ではないと感じるようなことかもしれないのですが、私たちが思っている以上にその報いは大きいのです。こうして、キリストの教会は今日まで御言葉を語り続けて来たのです。
そして、私たちが自らを犠牲として小さな者となって生きる時に、キリストのいのちがわたしたちと共に生きる人へともたらされていくのです。これが十字架を担う道だと言って下さるのです。私たちにもできる十字架を担う生き方です。そして、ここに私たちの伝道の道もまたあるのです。
お祈りをいたします。