・説教 マタイの福音書14章22-36節 「恐れに立ち向かわれる主」
2011.8.28
鴨下直樹
今、信徒交流月間ということで、毎週行なわれている祈祷会で信徒の方々が色々な話をしてくださっています。今年はほとんどの会に参加することができていますけれども、本当に毎週大変楽しみにしています。先々週のことですけれども、医師をしているTさんがお話くださいました。この方は外科医をしていまして、腫瘍が専門です。そうすると、どうしても死を目の当たりにしている方々と関わることになります。そこで、ひとりのキリスト者の医師として、死にある患者に対して自分がどういう思いで接することができるかということをお話くださいました。
死と向かい合うというのは、誰もが避けては通れない道です。その中でTさんは、多くの癌患者が初めは非常に激しい抵抗を見せるけれども、誰もがしばらくすると、どこか腹が据わってくるようで、自分の与えられた命の時間を受け止めて行くのだということをお話し下さいました。これは私には非常に興味深いことでした。その人の中で何かが起こるというのです。Tさんはその人の中で何が起こっているのか聞いてみたいけれども、なかなかそれはできないということでした。
人生には時々、様々な恐れが生じます。色々な不安が襲ってきます。その最も大きなものが死であると言ってもいいかもしれません。けれども、誰もが、この恐れから逃げ出すことはできません。それは、キリスト者であっても同様です。
今朝、私たちに与えられている聖書の個所は、弟子たちがこの死の恐怖に直面したところ、あるいは言い知れない恐怖と言ってもいいかもしれませんけれども、そういうものに直面した時のことが記されています。
弟子たちがここで経験した恐れは嵐の中を一晩中舟をこぎ続ける中で起こったものです。「夜中の三時ごろ」と二十四節にあります。これは新改訳聖書では下に注が添えられておりますけれども、「第四の夜回り」という言葉です。これはちょうど夜中の三時から六時までの時間を表す言葉なので、「夜中の三時ごろ」となっているわけです。
五千人の給食の奇跡の後、つまり夕食を終えてからということになりますから、六時間とか七時間という間、闇の中で舟を漕ぎ続けていたことになるのです。
ガリラヤ湖というのは地図を見ていただいても分かると思いますけれども、それほど大きな湖ではありません。縦21Km横幅が10kmの湖です。そして、普段、風がうまく吹いてくれば20分で対岸に渡ることができるのだそうです。しかも、主イエスの弟子たちの中には四人も元漁師がおります。ですから、本当でしたら、こんなに苦労するはずではないのです。ここで思いもよらない出来事が起こっているのです。
そんな嵐の中ですから、風に逆らわないで引き返すことだってできたはずです。おそらく、弟子たちの頭にも途中で何度もそのような考えがよぎったと思うのですけれども、それができない。何故かというと、この最初に二十二節にことのように書かれています。
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」
ここには、「主イエスに強いられて」と記されているのです。この「強いる」と言う言葉は非常に強い言葉です。逆らうことができなかったのです。
弟子たちは嵐の中で、きっとブツブツ考えたに違いないのです。何故、自分たちがこんなに貧乏くじを引かなければならないのか。ずっと働きづめです。先ほどの五つのパンと二匹の魚で非常に多くの人々が食べて満腹したという、素晴らしい主イエスの御業がだんだんと遠い出来事のように思えてきます。不満がたまり、心配が膨らんできます。
実は、ここで、弟子たちは初めて主イエスと一緒ではない時間を過ごさなければならない状況におかれています。少なくとも、マタイの福音書の中では、これまでずっと弟子たちは主イエスと共に歩み続けてきているのです。
体力的にも限界が近づいてくる、嵐の中の舟というのは、少し舟の向きを間違えてしまうならばたちどころに舟は波を被ってしまい沈んでしまいます。そのような緊張感の中で、一歩間違えてしまうと死という状況の中に置かれたのです。すると、今度はそのまだ暗い湖の上を歩いている人の姿を目にします。
「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ。』と言って、脅えてしまい、恐ろしさのあまり叫び声をあげた」と二十六節にあります。
大の大人たちが叫んだところで誰にも聞こえないのに、叫び声を上げたのです。わざわざこんなことが丁寧に書かれているというのは、弟子たちにとってみれば名誉なことでもなんでもありません。けれども、よほどこの時のことが印象的だったのでしょう。そのような弟子たちの姿がしっかりと書き残されているのです。それは、この物語を聞いた人たちの心にも印象深く残ったのだろうと思うのです。
しかも、こともあろうに、聖書の中に弟子たちが幽霊だと思って叫んだという記録がこうして残ったということに、私は非常に興味を覚えます。夏だからこんな話をしているわけではないのですけれども、主イエスと共に歩み続けた者たちでさえ、そういう得体のしれない恐怖に襲われたのだということです。
考えてみますと、私たちは本当に色々なものを恐れて生きているのです。そして、それは、どれも、自分が理解できないことに対する無理解から引き起こされるのが、恐怖であると説明することができるのかもしれません。幽霊などというのは、得体のしれない恐怖の代表と言ってもいいかもしれません。この先何が起こるのか、どうなるか全く分からないのです。自分の知らないこと、まだ、経験したことのないことに対する不安です。そして、そのような不安は私たちにはまだいくらでもあるのです。
そこで、主イエスは語りかけられました。二十七節です。「しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい、わたしだ。恐れることはない。』と言われた」。
私たちには、不安の中にいる人に本当に安心することのできる言葉をかけることは簡単なことではありません。「大丈夫だ、心配しなくてもいい」といくら私たちが言ったって、その言葉にはなかなか説得力がないのです。「何を根拠にあなたはそう言うのか」と言い返されてしまうと、言葉につまってしまうのです。
ですから、医者が患者の前でできるだけ誠実にこたえようとすればするほど、簡単に「大丈夫です」と言うことは難しいということは誰にでも想像できることです。気休めの言葉であればどれだけでも語ることはできます。もちろん、そんな言葉でも聞きたいと人は思うのかもしれません。けれども、気休めの言葉であればその言葉のむなしさもまた分かるのです。
しかし、主イエスは恐れのある人にむかって確信をもって語ることがお出来になりました。ここに「しっかりしなさい、わたしだ」とあります。この「しっかりしなさい」という言葉はマタイの福音書だけに使われている特徴的な言葉です。「安心しなさい」と訳すこともできる言葉です。新改訳聖書の下の中にもそのように記されておりますし、また、新共同訳聖書もそのように訳しています。けれどもこの言葉は他にも色々と訳すことができます。「大丈夫だ」と言ってもいいし、「確信を持ちなさい」とすることもできます。しかし、いずれにしても何を根拠にそういうことができるのかということを、この言葉を聞いた人は考えます。それで、ここで主イエスは「わたしだ」と言われました。
この言葉はちょっと特別なことな言葉です。ある方は耳にしたことがあるかもしれませんけれども、ギリシャ語で「エゴー・エイミ」という言葉で記されているのです。
一週間前の土曜日、教会で子どものための映画会が行われました。出エジプト記に記されているモーセも物語をコンピューターを使って見事なアニメーションにしたものです。その中にモーセの前に神が現れる場面があります。燃える柴の中から神がモーセに語りかけます。その時に、神は「わたしはあるという者である」と語りかけます。これは、なかなか適切な日本語に訳すことの難しい言葉ですけれども、神がご自分のことをお語りになる時に、わたしは、ある、存在する者だと自らをお示しになりました。その言葉を、新約聖書のギリシャ語で表すと、ここに記されている言葉「わたしだ」とされている言葉、エゴー・エイミという言葉になるのです。わたしこそが神だと主イエスは湖の上を歩きながら、不安の中で恐れに飲み込まれそうになっている弟子たちにお語りになったのです。
主イエスは弟子たちの前に姿を会わされる前、一人で祈っておられました。ようやく祈る時間を持つことができたのです。バプテスマのヨハネが殺されたと聞いて、祈りに心が動かされていました。自分の前に立ちはだかる死に対して、主イエスは祈ることで、神と向かい合うことで、その恐れに対して自分の身を置いたのでした。そして、同じように死の恐れと直面している弟子たちのためにも祈られたことでしょう。
主イエスご自身、恐れの前に立つことを知っておられるお方でした。そして、神がご自分の前に立って下さることによって受ける慰めを知っておられたのです。
そして、弟子たちに対して、わたしこそが、イスラエルの人々をエジプトの手から導き出した神であると弟子たちのまえに自らのことをお示しになられたのです。
この「わたしだ」という言葉は、私が神学校で教えていただいた河野先生と言う説教学と、組織神学の先生がおられますけれども、この先生は、「わたしはなりたいものになれる」という意味だと説明してくださったことがあります。
たとえばヨハネの福音書にはこのエゴー・エイミと言う言葉は七回出てきます。「わたしは命のパンである」、「わたしは良い羊飼いである」、「私は門である」そのような言葉で主イエスはご自分のことを語られたことがこの福音書には記されています。
そのように、今弟子たちの前に、わたしはあのイスラエルをエジプト人の手から導き出した神そのものである。だから、わたしに信頼するならば、このような嵐の中にあってもあなたがたは安心することができる、大丈夫だと確信を持つことができるだろうと、ご自分をあらわされたのです。
すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来いと、お命じになってください。」と、二十八節に記されています。
このペテロの言葉は、「わたしだ」と自らを表してくださって主イエスに応えての言葉でした。もし、あなたが、あの「わたしはある」と言われるお方でしたら、あなたが、エジプトの手からイスラエルの人々を導き出されたお方なのでしたら、どうか、私にそのことを信じさせてくださいと言ったのです。水の上を歩かせてくださいと言ったのです。実に大胆な言葉です。驚くべき言葉が語られています。
そして、ここに信仰が何であるかが語られています。信仰というのは、主イエスの言葉に信頼することです。その言葉に身をゆだねることです。それが嵐の中であろうと、死に沈みこみそうになるとこであろうと、その言葉に身をゆだねることです。
ペテロはそのように信じたのです。二十九節にはこのように記されています。「イエスは『来なさい。』と言われた。それで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った」とあります。
何歩ペテロが歩いたのかはここに記されてはいません。一歩であったのか、もう少しは歩けたのか。しかし、いずれにしてもそれは長くは続きませんでした。「ところが風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、・・・」と続く三十節にあります。
ペテロはここで疑います。主イエスにその後で「なぜ疑ったのか」と言われてしまいます。この「疑う」という言葉は非常に面白い言葉です。この言葉は「二つに分かれている」という意味の言葉です。ペテロの言葉は文字通り二つに分かれてしまったのです。
一方では、主の言葉を信じたのです。主イエスを、「わたしはある」と言われた方だと信じたいのです。しかし、もう一方では嵐の波の湖の上に立っている自分がいるのです。信じられないことをしている自分の非現実的な姿を見ているのです。信じたい自分と、信じられない自分という両方が自分の中に存在する、その姿をこの疑うという言葉は的確に表しています。
ここで主イエスは「なぜ疑ったのか」と問われます。何故疑ったのでしょうか。三十節に「ところが、風を見てこわくなり」とあります。主イエスを見ることを止めてしまったのです。現実的な恐れの方を見たのです。なぜ、疑ったのか、それは、恐れたからです。恐れが信じる思いよりも勝ったのです。
しかし、この物語の最大の慰めはこの次の出来事です。沈みかけているペテロは「主よ、助けてください」と言った。すると、続いてこう記されています。「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんて言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか』」。
主イエスはここで、ペテロをお叱りになりました。「信仰の薄い人だな」と。私はこのマタイの福音書がここで、ペテロに向かって、主イエスは「信仰の薄い人だな」と言ったと理解しているところに非常に心惹かれます。
他の福音書では「信仰がないとはどうしたことです」となるのです。しかし、マタイは、主イエスは「信仰の薄い人だな」と言われたと理解しているのです。
私たちは色々なところで、恐れを持ちます。そして、その時、恐れて、間違ったことをしてしまいます。主イエスを見失って、間違いを犯してしまうのです。私たちの人生の中に、何度も起こることです。疑ってしまうことがあるのです。「なぜ、私を嵐の中に置かれたのですか」、「どうして一緒にいてくださらないのですか」、「どうして、湖に沈みこむようなところまでほおっておかれるのですか」、そう言いながら、主を信じられなくなってしまうことがある、あるいは、恐れの現実に足を引きずりこまれてしまって間違った判断をしてしまうことがあるのです。
あなたはどうして私を信じられないのか、もう何年信仰を持っているのだ、どうしようもない信仰だな、役に立たない信仰だ、と主イエスはそこで言われれはないのです。自分一人で立ち上がることもできないような私たちです。「主よ、助けてください」とばかり叫び続けてしまうような、ペテロと同じような私たちです。
けれども、主イエスは私たちを助け起こしながら「信仰が薄い人だな」と言われるのです。
そして、主イエスに助け出されて舟に乗りこむことが許されるのです。しかも、このマタイの福音書はその後、何を書いたかと言いますと、三十二、三十三節「そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った」とあります。
私たちの世界であれば、そこで注目を集めるのは間違いなくペテロです。すぐに仲間が寄って来て「ペテロすごいじゃないか!海の上を歩くなんて!」と褒めて、続いて「海の上を歩いているときはどんな気持ちだったか」、「何を考えていたのか」などということを聞きたくて質問攻めにするはずです。そうして、自分もペテロのようになりたいと考えるはずです。
ところが、ここにはそんなにしてペテロに向けられる賛辞は少しも記されてはいないのです。そうではなくて、弟子たちの心は主イエスに向かうのです。みなが「確かにあなたは神の子です」と告白するのです。見るべきお方は、主イエスである、信じるべきお方は主イエスであるということを、ここで弟子たちはようやく分かるのです。こうして、舟から降りて、いつものような主イエスの歩みがまた繰り返されていくのです。それが、その後に記されています。
私たちがこの出来事を通して知らなければならないことは、私たちは自分の力では恐れに直目した時に、それに立ち向かう力はありません。そして、自分の力で何かをしようとするならば失敗してしまうような者です。けれども、そんなものであっても、私たちの主は、私たちにご自身を示してくださるお方です。「わたしこそが主なのだ」と、恐怖に足をすくわれてしまうような私たちに自らを示してくださるのです。何度でも、何度でもです。そして、失敗してしまうようなことがあったとしても、主の御顔を見上げることができなくなるようなことがあったとしても、主は、私たちの立派ということのできない、「主よお助け下さい」としか言うことのできないようなわずかばかりの小さな信仰をも認めてくださるお方なのです。
主イエスが、私たちの内側にある恐れに立ち向かってくださるのです。主イエスが手を差し伸べてくださるのです。そして、私たちを信仰の告白ができる者へと引き上げてくださるのです。この主イエスと共にあることこそが、私たちの何よりも大きな確かさなのです。
お祈りをいたします。