・説教 マタイの福音書14章13-21節 「貧しい食卓の幸い」
2011.8.21
鴨下直樹
今お聞きしましたこのマタイの福音書の物語は「五千人の給食」と呼ばれて非常に多くの人々に親しまれている出来事です。福音書のなかにはいくつもの奇跡物語が記されていますけれども、十字架と復活の出来事と同じように、この物語だけはすべての四つの福音書に記されています。
それは、それだけ、この出来事が人々の心に残ったということでしょうし、また、この出来事の持つ魅力は多くの人々の慰めになったのだろうと思います。
五つのパンと二匹の魚で男の数だけで五千人の人々が食べて満腹したという奇跡の物語です。多くの人々はこの物語にさまざまな魅力を感じてきました。その中でも特に代表的なものは、このような奇跡を通して神様はその時の必要を満たしてくださるお方だというように理解されることが多いのです。あるいは、少ししか持っていなくても、神様の手によれば何倍にも祝福されて増えるという理解です。
時々、献金の後の応答の祈りでもそのように祈られることがあります。「今捧げた物はわずかですけれでも、神様がこれを何倍にも増やして御用いくださいますように」と祈られることがあります。ちょっと申し上げにくいことですけれども、私はそのような祈りを聞きながら、いつも神様がこの献金を何倍にも御増やしになるというのはどうことだろうかと考えることがあります。そういう考えがどこから生まれてくるのかというと、ひょっとすると、今朝私たちに与えられている聖書の物語がそのように理解されているのかもしれません。
あるいは、まるで正反対の理解がされる場合があります。この奇跡の出来事というのは、一般的に考えれば理解しがたいことです。常識の範囲を超えているからです。それで、これは、小さな少年が自分の弁当として持っていた五つのパンと二匹の魚をこの何万人もの人々の前に差し出した。その少年の心が尊いのであった、この姿を見て、みんなほんの少しづつパンきれを頂いたけれども、お腹が満たされたというよりは、心がいっぱいになったのではないかと、そのように解説する人々がおります。そして、そのように説明されることは少なくありません。
あるいは、この五つのパンと二匹を差し出したのは少年だから、この少年が差し出した小さな食べ物を見て、みんな自分のためと思って取っておいたもをみんなが差し出したら、以外にたくさんあって、余るほどになったというような説明がされる場合もあります。
いずれにしても、そのようにして説明することによってこの出来事を説明できたと考えているのです。けれども、そこで説明されているのはパンがどのように増えたかということを人間の納得しやすい言葉で説明してみせただけです。
この神の手によればパンが増えるのだと理解することも、また、心が満たされたのだと説明して見せることも、この物語を正しく理解したとは言えません。それは、なぜかというと、結局のところ、自分たちの都合のよい聖書の読み方をしているに過ぎないからです。そこに、主イエスを信じる信仰はありません。なぜなら、主イエスを見てはいないからです。
ものを増やしてくださる神様を信じるということは、それはそれは都合のいいことです。お金が何倍にも増える。それは、私たちにとって大事なことかもしれません。しかし、そんなことは、神のとってみれば大事なことでもなんでもないのです。
私たちは祈りの中で自分のお願いをすることがあります。そして、気付くと神様はお願いをすればきっと叶えてくださるはずだと考えてしまう。しかし、それは神への信仰とは言えません。それがどんなに熱心に、そして真剣に祈ったところで、それは信仰ではないのです。ただの願掛けです。自分の願いが強ければ強いほど、それは叶うのでしょうか。「求めなさい、そうすれば与えられます」という聖書の言葉が、いかに人の都合の良いように理解されているかがここに現れていると言えるかもしれません。
最後まで諦めないこと、それが信仰なのでしょうか。そんなことは、サッカーの試合でも、もうここ数日十分すぎること聞かされてきたことです。それは教会でなくてもどこでも言うことです。
私たちは主イエスがそういうところとはまったく違うところにおられることにしっかりと目を向けておなければなりません。
主イエスはバプテスマのヨハネがヘロデによって殺されたという知らせを耳にします。厳しい現実的な問いの間に立たされています。ヘロデが主イエスをバプテスマのヨハネがよみがえった姿と考えていたということは、ヘロデには同じように主イエスを殺そうという思いがあるということです。ヨハネが語ることも、主イエスが語ることも同じことだからです。
自分の前に差し迫っている死という問題を突き付けられて、主イエスは人々から離れたところに行って、自分だけで寂しいところに行かれました。先週も話しましたけれども、自分の問題としっかりと向き合うためです。
ところが、そのようにひとりになって静かに考えるという時間は、主イエスには残念ながら与えられませんでした。船に乗り込んで寂しいところへ行かれたのに、「すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。」と十三節に記されています。群衆たちは主イエスをほっておかなかったのです。なぜでしょうか、誰もが自分のことだけでも十分なほどさまざまな問題を抱えているからです。
主イエスの事情など知る由もありません。人々は自分にしてもらいたいことを、主イエスに求めているのです。
自分勝手な人間の姿がここに描かれているということができるかもしれません。けれどもそれとは正反対の主イエスの姿がここには示されています。主イエスはここで、自分のことしか考えられないような人間の姿をご覧になられました。十四節にこう記されています。
「イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された」。
「彼らを深くあわれんで」とあります。主イエスのあわれみの姿がここに描き出されているのです。この「あわれむ」という言葉は何度もでてくる大事な言葉です。この言葉はもともとは「腹わたがねじれる」という意味の言葉です。これは、人の苦しみを自分のっ苦しみとするという意味です。
今ここで苦しんでおられるのは他の誰でもない主イエスご自身です。そして、それは本当に深い苦しみでした。死との戦いがここから始まっているのです。しかし、主イエスはそこで、自分が苦しいのだから自分のことは少しほうっておいてほしいなどということは言われませんでした。人の苦しみをも自分の苦しみとなるほどに、心を寄せてくださったのです。
ところがです。ここにいるのは群衆たちと主イエスだけではありませんでした。この物語は、続いて次のように記しています。「夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。『ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして、村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。』」(十五節)と弟子たちは言ったのです。
弟子たちは主イエスと同じであったかというと、そうではありませんでした。ここで主イエスとの考えの違いが明らかになります。もちろん、弟子たちはごく自然に考えたと言ってもいいかもしれませんけれども、これだけ多くの人々の食事は用意できないと考えました。もちろんそれはそうです。男だけで五千人ということは子どもの数も合わせれば二万人近い人がいたのではなかったかと考えられますから現実に考えれば不可能なことです。
けれども、弟子たちは主イエスと共に働いていました。主イエスの働きを一緒にずっと見て来たのです。そして、主イエスの心は深い憐れみの心、まさに、自分のはらわたがよじれるような思いで、この人々を見ておられたのに、弟子たちは早くこの人たちを返した方がよいということしか考えることができませんでした。
弟子たちにしてみれば、主イエスと自分たちだけでやっと静かな時間が持てると楽しみにしていたのかもしれません。そして、この群衆を見ながら自分たちはずっと働きずくめに働いて来て、少しの休む時間もないのかと、人々が付いてくるのをみながら途方にくれていたのかもしれないのです。こういう気持ちは良く分かることだと思います。自分のことを中心に考えれば、他の人は邪魔でしかないのです。
けれども、主イエスはそのような弟子たちに向かってこう言われました。「彼らが出かけていく必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べるものを上げなさい。」そのように、十六節に記されています。
この言葉を聞いた時の弟子たちの顔が少し想像できる気がします。おそらく誰もが開いた口が塞がらなかったと思います。「まさか、そんな!」と思ったと思うのです。できるわけがないのです。食べ物を買えそうなところは近くには見当たらないのです。やっかいなことは早く終わらせておこうと思いながら、群衆を帰らせるように主に語りかけたのに、その課題が自分たちに背負わされることになってしまったのです。
なぜ、主イエスは弟子たちにできそうにもないことを仰せられたのでしょうか。できない難問を突き付けて、そこから何を気付かせようとしておられるのでしょうか。そうであったのかもしれません。主が何を思っておられるのかに気づくことはそれほど難しいことではないのです。主イエスは目の前にいる人々に対してどのような思いで見ておられるのかということを弟子たちにも気付いてほしいのです。自分のことばかりを考えてしまっている弟子たちに、あるいは、現実的な問題しか見ることができなくなっている弟子たちに、見るのはそこではないのだということを気付かせたいと思っておられるのです。
ですから、最初に言ったように、この出来事は、自分のことしか考えられなくなっている私たちの祈りがここから教えられていると考えたり、あるいは、人間の納得のつくような説明をしてみせることで、この出来事が本当に理解したことにはならないと言ったのです。
主イエスはひたすら、主の心に何があるのかに気づいて欲しいと思っておられるのです。何度も言いますが、大切なことは私たちの気持ちではないのです。
弟子たちは主イエスに言います。「ここには、パンと五つの魚が二匹よりほかにはありません」と十七節にあります。ここで、「あれ?」と思われた方があるかもしれません。最初に私は、この五つのパンと二匹の魚は少年が持って来たと言いました。けれども、ここにはそんなことは少しも記されてはおりません。これは、ヨハネの福音書の六章に記されています。マタイはここで、この食べ物が少年が持って来たということに強調点を置いていないのです。主イエスに言われて、はじめて、自分たちの手元にあるものに弟子たちが目を留めたように描いているのです。
弟子たちはないものばかりに目を向けていました。そして、ここであるものにようやく目にとめるのですが、しかしそれは、あまり意味がなさそうに思えるのです。二万人ほどの人々の前に、これだけの食べ物が何の意味を持つかと思うのです。しかし、大事なことは持っている物に目を留めることです。そして、憐れみの心を持っておられる主にゆだねることです。
先ほど、マレーネ先生の派遣式を致しました。マレーネ先生は今週の水曜日にドイツに帰国しまして、一年の間、宣教報告のためにドイツの各地を旅します。私たちはあまり知らないことかもしれませんけれども、ドイツにはたくさんの自由福音教会がありまして、その多くの教会がマレーネ先生を送り出しているアライアンス・ミッションの働きをサポートしています。このアライアンス・ミッションという宣教団体は、海外のあらゆる国々に宣教師を送り出しているのです。そして、そのすべてはドイツの教会に集うひとりひとりに献金で賄われています。
マレーネ先生も最初から宣教師になると決めていたわけではありませんでした。宣教師になるために非常に悩んだと思います。そして、その中から、日本に来ると決断することも簡単なことではなかったと思うのです。けれども、自分の思いではなくて、主の思いがそこにあり、自分がそのように導かれていることを知ったからこそ、決意して日本に来てこうして宣教師として三十年にわたって働いてこられたのです。
宣教師として日本に来ることも、また宣教師を送り出してくれているドイツの教会の方々も、自分のことに心がとらわれてしまっていてはできなことです。そして、私たちもまたそのような思いで、さまざまな地域でなされている伝道の業に協力して支援し続けているはずです。
そうして神は豊かな祝福を見せてくださるからです。30年前に同じようにドイツからストルツ宣教師が芥見に来られて伝道を始められた時も、ひょっとすると五つのパンと二匹の魚にもみたないようなところからスタートしたのかもしれませんが、こんにちではここにこのような立派な会堂が立ち、これだけの人々が礼拝に集うようになっているのです。ここに、神の祝福の姿が表されているのです。
確かに、五つのパンと二匹の魚という食卓は豊かな食卓ではないかもしれません。しかもそれを男だけでも五千人とう人々で分け合うのですから尚更です。けれども、そのような貧しいものであったとしても、そこに主イエスが心を留めてくださるならば、主は豊かな恵みを見せてくださるのです。
ここで、奇跡が起こります。神の御業が起こるのです。わずかな食べ物であったにもかかわらず皆が食べて満腹したのです。そして余るほどになったのです。そして十二の籠に有り余るほどになったパンを数えているのは、他の誰でもない主イエスの弟子たちでした。自分のことにしか心が向いていない、主イエスの思いを知ることができなかったような者であっても、主はその者に、豊かさを数える喜びを与えてくださるのです。
ですから、私たちは自分のことに心をいつまでも向けているのではなくて、主に心を向け、何を主が望んでおられるのかと目の留めるところを帰る時に、私たちは本当の喜びを味わう喜ぶを知るようになるのです。
主は、貧しい中にあっても、足りないように思えるところにいても、主の豊かな恵みを数えるようになるようにしてくださるお方なのです。
お祈りをいたします。