・説教 マタイの福音書16章1-12節 「天からのしるし」
2011.10.2
鴨下直樹
今朝、説教のタイトルを「天からのしるし」としました。いつも散歩をする時に、教会堂の前に張り出されている掲示板を見るのですが、この説教題を見ながら色々なことを考えます。この教会の前を通った人はこの題を見て、何を考えるのだろうかと想像してみるのです。「何だろう?」とただ疑問に思うだけかもしれません。そこから色々な想像が始まるかもしれません。色々と考えているうちに、なぜ、こんな題をつけたんだろうかと、題をつけた人は一体何を考えているんだろう、何を考えさせたいんだろうというところまで考えがめぐると、我ながらおかしな気分になるのです。自分でもなぜ、こんな題にしたんだろうかと、自問自答がはじまってしまいます。
一般的に天からのしるしと聞くと、何か自然現象の中に、神がおられるのことが証明されるような出来事が起こることをまず考えるのではないかと思います。突然空にキリストが現れるとか、そういう目に見えて奇跡と分かるような出来事を自分の目で見ることができたなら、信仰を持ってもいいというような考え方をする人は少なからずいるのです。
今日の聖書の個所はまさに、そのような問いをもって主イエスに訪ねたところから始まっています。
「パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ」。そのように一節に記されています。このマタイはいつも非常に丁寧に書いているのですけれども、ここでサドカイ人たちがパリサイ人たちと一緒になって主イエスを試そうとしていると書いています。これまでサドカイ人というのはこのマタイの福音書の中に出てきておりません。言ってみれば主イエスに対する新しい敵対勢力がここに現れてくるのです。このサドカイ人たちというのは、普段はパリサイ人たちと仲良く一緒にいるような人々ではありませんでした。この人々はパリサイ人たちのように神の戒めを守ることを大事にしていた人々ではありませんでした。どちらかと言えば正反対です。サドカイ人たちというのは言ってみれば社会の中でも上流階級の人々だったと言われています。そして、そういう立場を利用して自分たちの都合のよいように社会を動かしていた人々です。政治的に働きかけたり、経済的な利益をえることに力を注いだのです。ですから、聖書の戒めを厳密に守ろうとするパリサイ人たちと一緒に行動するなどということは考えられないような人たちでした。ところが、ここでこの両者は手を取り合っています。理由は簡単です。主イエスはこの両者にとって敵とみなされたからです。
そして、この両者が主イエスに訪ねたのが、「天からのしるしを見せてください」と言って頼んだのです。
これは、私たちにあなたのわざが神からのものだということを示してくださいということです。「私たちがそうだと認めることができたなら信じてやってもよい」という意味です。
この問いかけに対して主イエスは何と答えられたかと言うと四節です。「『悪い姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられません。』そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」。
主イエスはここで「ヨナのしるしの他にはしるしは与えられません」と答えられました。ヨナのしるしというのは少し説明がいるかもしれません。すでにマタイの福音書の十二章の三十九節でも全く同じように答えておられます。
ヨナについてここで丁寧な説明をするいとまはありませんけれども、少し説明する必要があるでしょう。ヨナは預言者でした。神の言葉を語るように神から遣わされた人です。この人は当時イスラエルを支配していたアッシリアの首都のニネベを神が滅ぼそうとしておられると、この国に行って告げるよう神から命ぜられます。ところが、ヨナはこれを拒みます。ところが、逃れようとして乗り込んだ舟が嵐にあい、そのためにヨナは海に放り出されてしまいます。すると、神は大きな魚を遣わしてヨナをお救いになるのです。こうして、ヨナはニネベの町で神が滅ぼそうとしておられる計画を語ります。そして、あろうことが、この神を知らないニネベの人々は悔い改めるのです。それで、神はこのニネベの町を滅ぼすことを思いなおされたのです。
「ヨナのしるし」とはですから神の言葉が語られると、神の言葉そのとおりの出来事となるということです。神の言葉はそのとおり起こるのです。それこそが奇跡です。悔い改めないはずの人々が悔い改めたのです。
けれども、私たちはたいていの場合、そのような天からのしるし、奇跡というものをあまり期待していません。神が語られた通りのことが起こるという奇跡ではなくて、自分が願っているようなことが叶えられることが奇跡だと考えたいのです。それそこが天からのしるしと思いたいのです。パリサイ人やサドカイ人のように、今日でも多くの人が同じことを考えます。私が願うとおりの出来事を神様が起こしてくださるのであれば、私は神を信じてもいいと。しかし、それではどちらが神なのか良く分からなくなってしまいます。自分の方が神より偉い存在であることになってしまいます。
それで、主イエスは弟子たちにそのことに気をつけるように語りかけました。
「イエスは彼らに言われた。パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と。六節です。
ここで面白いことが起こります。主イエスからパン種に気をつけるように言われた弟子たちは、自分たちが食べるためのパンを持ってこなかったことを思い出します。そして、主イエスがパンを持って来なかったことについて注意されていると思って、お互いに議論し始めたと言うのです。お金を持っているのは誰だとか、なぜパンがないことに気づかなかったのかとか、そのような議論が主イエスの前で繰り広げられるのです。
ここでの主イエスの意図は明らかだと思います。自分がしるしを判断すると考えているようなパリサイ人やサドカイ人は、天からのしるしを自分が判断する材料としか考えていないのです。だから、そうならないように気をつけなさいと言われたのです。ところが、弟子たちは主イエスの言葉を正しく聴き取ることができませんでした。
なぜ、パンを持っていないなどと議論しあうようなことになってしまったのでしょうか。その時、弟子たちは一体何を考えたのでしょうか。パン種と耳にしてすぐにパンを持って来なかったという連想しか働かないのだとしたら、それはあまりにもお粗末です。もう、主イエスとこれまで長い間旅を共にしてきながら、なぜそんなことを考えてしまうのでしょう。
おそらく、誰か一人の人だけが、パンのないことを気にしていたのかもしれません。そんな時に「パン」という言葉が耳に入ってくるだけで、すぐにそちらに思いがいってしまうと言うことはありそうなことです。これは、弟子たちだけの姿ではありません。誰もが、自分が一番気にしている問題があれば、それにまつわる話にすぐに心が動いてしまいます。そして、どうにかしなければと考えてしまいます。
私たちはいつも、問題が起こった時は何とかことが大きくなる前に素早く対処したいと考えます。もちろん、それは大事なことです。問題が起こればまずはじめるのは原因の究明です。原因さえ分かれば、今度は同じ過ちを繰り返さなくなるからです。
けれども、そこにはここで主イエスが指摘しておられるパリサイ人とサドカイ人のパン種が潜んでいることまではなかなか気づきません。奇跡というのは自分で判断する。自分の納得のいく働きは、神の働きであると認めることができる。これを主イエスはパン種と言っておられるのです。
それははじめは小さなことであったとしても、またたく間にどんどん、どんどん大きく膨れ上がるからです。それはまさにパンを膨らませるためにパン種、イースト菌が働くのと同じようです。主イエスがここでパン種と言われたのは、まさにこのことなのです。小さな問題であっても、自分で何とか判断して、自分で何とかしなければならないという思い、それが本当に大事なことを見失わせるのです。
ここでパンがないと騒いでいる弟子たちも、最初はさほど気にしていなかったはずです。ところが、食べる物がないということに気づき、誰かが騒ぎ始めると、とたんにそれが膨れ上がってしまって、きづいてみれば大問題になってしまうのです。そうやっている間に、ことの本筋が見えなくなってしまっていることにも気づかなくなってしまいます。
主イエスがここで気をつけなさいと言っているそばから、弟子たちはこのパン種の危険に自ら足を踏み入れてしまっているのです。そして、みんなで喧嘩をしはじめるほど膨らんでしまっているのです。そして、本当に大事なことが何なのかを見失わせてしまうのです。
先週、私たちの教会で長い間楽しみにしてきました福音館の松居直先生をお招きして講演を聞くことができました。本当に幸いな時間を持つことができたと嬉しく思っています。そのお話の中で、松居先生は『星の王子さま』という本の話をなさりながら、大切なものは目に見えないという話をされました。愛すること、喜ぶこと、信じること、そのような人間の生活にとって大事なことをすべて目に見えないことだと言われたのです。そして、大事な言葉も、やはり見えないと言われました。
その話の後で、ご自分が礼拝でヨハネの福音書の冒頭の言葉を聞いた時のショックを受けたと言う話をなさいました。
「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」ヨハネの福音書第一章一節から五節までの言葉です。
この言葉を聞いた時に、これだと思ったのです。世界をつくった言葉。いのちの言葉。人の光である言葉。この言葉こそが自分にとって大切なものなのだと知ったのでした。
このことばとはヨハネの福音書は主イエスのことだと語っています。神の言葉が語られると、それはその通りになるのです。それは主イエスそのものです。主イエスがヨナのしるしと語られたのは、まぎれもない自分自身のことでした。人にいのちを与えることができ、人に光をあたえることができる。そして、この方によって語られたことはそのとおりになるのです。
この神の言葉である主イエスとともに、弟子たちは歩んでいたのです。この主イエスに信頼して、この方の言葉の中に身をゆだねることができるのに、そして、そのことを示し続けてこられたのに、弟子たちは小さな問題をきっかけとして、そんなことを忘れて、問題しか見ることができなくなってしまう。そして、その問題は自分で何とか判断して、解決しなければと考えてしまうもんだから、どんどんどんどん大きくなっていくのです。そして、どんどん問題だけが目につくようになってしまうのです。
大切なものは目に見えない。まさにその通りです。私たちの目に映って私たちを飲み込もうとしている問題は、大切なものでもなんでもないのに、あまりにもそれが大きくなりすぎて、それに飲み込まれてしまうのです。
そうして主イエスの姿を見失ってしまう。目の前におられるのに、見えなくなってしまう。自分の問題ばかり見て、肝心の主イエスの言葉が聞こえなくなってしまう時に、主イエスは語りかけます。「あなたがた信仰の薄い人たち」と。もうこの言葉には説明する必要もないくらいです。信仰が小さいと言われるのです。前回の「あなたの信仰は立派です」と言われたカナン人の女と、まるで違うではないかと言われてしまうのです。
この後の主イエスの言葉はもう丁寧な説明する必要はないでしょう。私の言葉が語られたとき、それがその通りなったのをあなたがたは覚えていないのかと言われたのです。
私たちにとっての天からのしるし。それは主イエスの言葉以外にありません。主イエスそのものが、私たちの見るべきものです。そして、このお方が本物かどうかを、私たちが見極める必要もないのです。このお方は、そのような私たちの思いを超えて働いてくださるからです。五つのパンしかなくても、パンが七つしかなくても、自分の生活の中には足りない物がどれほどたくさんあるように見えたとしても、主イエスにはそれは問題ではありません。主は、私たちの本当に見るべき大切なものを、私たちに豊かに与えてくださるのです。
主イエスを信じる心も、平安も、これからの希望も、生きる確信も、すべてこの方の語られたとおりに、私たちの身に起こるのです。それは目には見えませんけれども、確かな事実となって私たちにもたらされるのです。主イエスご自身にまさる、天からのしるしはどこにもないのです。主イエスはそのようにして、私たちに語りかけ、ご自身を示してくださいます。私たちはこのお方を見、このお方の言葉に聞くところに、私たちの本当に大切にすべきものがあるのです。
お祈りをいたします。