2011 年 12 月 11 日

・説教 マタイの福音書18章1-14節 「小さい者に与えられし天の御国」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 16:42

 

2011.12.11

待降節第三主日

鴨下直樹

 

 

 この聖書の個所はよく子ども祝福式で読まれる聖書個所です。「あなたがたも悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」と語られています。祝福式の時、この聖書の言葉をお聞きになりなりながら、私がいつも思うのは、この御言葉をどのような思いで聞いておられるのだろうかということです。「子どものようにならない限り」という言葉の意味するものが、子どもの純粋さとか、素直さという意味で理解される場合もあります。けれども、子どものことを良くご存じの方々は、それは本当だろうかと考えざるを得ないのではないでしょうか。

 そうすると、どうしても考えなければならないのは「子どものようになる」というのはどういうことかということです。続く四節には「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです」と説明がされています。

 ここを読むと、ますます分からなくなります。「こどものように、自分を低くする」とあります。しかし、子どもは自分を低くしているでしょうか。子どもほど、自分勝手なものはいないと思えるほどに、時折、自分のわがままを通すことがあることを私たちは知っています。それが認められている、そのことを言われているのだとすると、主イエスもあまり子どものことはご存じなかったのかという思いにもなりかねません。

 

 ポール・トゥルニエという心理学者が書いた本で、「強い人と弱い人」というのがあります。その本の冒頭で、トゥルニエがあるレストランで見た場面について書いています。ある夫婦が小さな子どもを連れて食事に来ている。そこから大きな子どもの鳴き声が聞こえて来るのです。良く見てみると、その三歳ほどの男の椅子の足元に破り捨てられた紙切れが散らばっています。母親がそれをみながら、「さあ、紙をお拾い、紙を拾うのです」と繰り返しています。そして、ますます大きな声をあげて子どもは泣くのです。父親はその時、まるで自分はそこにいないかのような中立な立場を取っている。困り果てるのはただ母親です。トゥルニエはそこで言います。子どもは分かっている、弱い者にとって涙は武器であることを。そして、周りで大勢の人が見ている中では、家で叱られているのと同じように親ができないということ見抜いている、母親はどっちみちこの戦いをそれほど長く続けられないことをちゃんと知っていると、トゥルニエは言うのです。実際に長引けば長引くほど母親は困り果てるしかないのです。そこで母親に何が起こるかと母親の中の二つの自尊心が傷付けられるとトゥルニエは言います。一つは、ここで子どもがいうことを聞かなければ、それは自分が子育てをうまくでできなかったことになる。もう一つは、子どもに自分の意思を従わせることに失敗すれば、自分の方が力はあるのに、自分が弱いことを証明することになる。そして、この母親の気持ちが、ますます子どもを扱いにくくしていくのだと。結局この戦いはどうなったかと言うと、母親が紙を拾い上げて、息子をテラスに引きずり出しました。けれども、ここでトゥルニエは言います。子どもには親に抵抗するだけの力はないけれども、ここで勝利者になった。なぜなら、紙を拾ったのは母親だからと。

 

 こういう物語を読みますと、私たちは簡単に、子どもが自分を低くしているなどと言う言葉をそんなに簡単に認めるわけにはいきません。このレストランで起こっている出来事は、毎日私たちの家庭の中で、私たちの生活のあらゆるところで引き起こされているからです。

 

 それで、もう一度この物語の始めの言葉に目をとめてみたいとおもいます。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか』」。一節です。

 

 実に面白いことがここに書かれています。この前に書かれていたのは何かと言うと、ペテロの税金を主イエスが自分の分と一緒にお払いになったという出来事です。他の弟子たちはいない時の出来事です。けれども、そうすると、弟子の中に嫉妬心が芽生えた。山の上に連れて行ってもらえたのはペテロとヤコブとヨハネの三人です。しかも、こんどはペテロだけが税金を払ってもらった。ペテロが一番大事にされている弟子ではないかと考えざるを得ない。そうすると、天の御国で一番で偉いのはペテロということになるのかと尋ねたいのです。実に露骨な、直接的な問いかけです。

 ここで何が問題になっているのでしょうか。弟子たちは明らかにペテロに嫉妬しています。主イエスがもたらそうとしておられる天の御国、神の国でペテロが重要な地位を得るのだとすると、自分たちはどのあたりの地位に置かれるのか、それが弟子たちの関心事だったようです。

 そうすると、三節で主イエスが語られたことの意味が少し明らかになってきます。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。」

 これは、「あなたがたはそんなことを言っているようでは天の御国で重要なポストを貰えるなどと考えているけれども、入ることすらできのだ」と主イエスが答えておられるということです。そして、この天の御国に入るには「悔い改める」ことが必要なのだと。

 新改訳聖書にはこの「悔い改める」という言葉に注がつけられております。そこには「向きを変えて」とされています。向きを変えるというと、たいていは180度方向を転換するという意味に理解します。けれども、この言葉は、大人として向かって歩んでいたのに、もう一度360度戻っるのだという意味の言葉なのです。つまり、子どもに戻らなくてはならないのだと言われたのです。それが、ここで言われている「悔い改める」という言葉の意味です。

 

 しかし、大人になった人間が子どもになることなど、どうしたらできるのでしょうか。これが、今朝、私たちに与えられている聖書の主題なのです。 主イエスのお答えはまさに、そのことが分かるかということにかかっているのです。

 

 

 先ほどから「天の御国」ということが言われています。これが、この福音書のテーマであると言ってもいいほどの大事な言葉です。主イエスの弟子たちは、主イエスの身の回りにいて、いつも話を聞いているなから、主イエスが天の御国、神の国をいよいよもたらされることが分かってきました。ここでいう「天の御国」は何度も説明していますけれども、死後の世界のことではありません。神のご支配を表す言葉です。

 毎週金曜日に、私は名古屋にあります東海聖書神学塾という神学校で新約神学という授業を受け持って教えております。簡単に言いますと、新約聖書に何が書かれているかということを教えているわけです。その中でも、特に重要なテーマ、特にこの福音書を理解するために重要なテーマはこの「神の国」を理解することです。マタイの福音書では「天の御国」と記されています。マタイは神と言う言葉をできるかぎり使わないで、「天」というように言い換えておりますので、天の御国も、神の国も同じことだと理解してくださっていいと思います。昨日も、神学校で、この神の国というのは新約聖書の時代に突然出て来た考え方ではなくて、すでに旧約聖書の中から記されている考え方だと言う話をいたしました。旧約聖書の中に神が王としてイスラエルの民を納めるということが、いくつもの詩篇の中にも記されているのです。神学校でも何でも語っているのですが、この神の国という言葉、あるいは天国という言葉が使われると、私たちはすぐに、死後の生活という意味で考えてしまいます。そういう意味もないわけではありませんけれども、まず、ここで覚えていただきたいのは、神が支配してくださる、まさに神が王として神の民を導いき、共に歩んでくださる。これこそが、ここで語られている天の御国という言葉の意味です。そのことは、ここでももう一度説明しておくことがあると思います。

 

 この天の御国、神の支配がいよいよもたらされようとしている時に、弟子たちは自分がどの地位を得ることができるかという考えていました。それに対して主イエスは、自分が偉くなって、良い地位いを得る、それが大人になった人間の考え方かもしれない。けれども、そういう考え方は捨て去って、もう一度子どもになるようにとお求められました。子どののようになって、自分が小さい者だということをわきまえることなしに、神の支配の中で生きることはできないのだと教えられたのです。だからこの四節で「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです」とおっしゃったのです。

 

 

 子どものようになる、自分を低くするということと、偉くなる、自分の方が優れているということの間にどんなことが起こるのでしょうか。続く五節から11節までのところでつまづきににいて語っています。もう何度も語られていますけれども、ここで念を押すようにもう一度丁寧に語っておられます。その六節にこう言う言葉があります。「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまづきを与えるような者は、大きな石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだ方がましです」

 驚くような言葉です。この言葉を聞く、私たちの方がつまづいてしまいそうな言葉です。小さな者につまづきを与えるなら死んだ方がましだと、主イエスは何を考えて語っておられるのでしょう。

 私がまだ神学生の時のことです。ある下級生の神学生がこの言葉にひどく悩まされていました。この言葉の意味が分からないと言うのです。この言葉を見つけて以来、自分はだれかをつまづかせているのではないかと、ただ恐れるようになったのです。しかも、この後に続く言葉は、つまづきになるものは手であろうが、足であろうが、目であろうが、切り取って捨ててしまいなさいとまで書き記されているのです。

 悩まざるを得ない言葉です。だれもがここで、自分は人をつまづかせてしまうことがあるのではないかと、どうしたって考えざるを得ません。そして、自分が気付かない間に、人をつまづかせていることが多いのですら余計に気になるかもしれません。

 聖書をお読みになりながらすでに、お気づきになった方もあると思いますけれども、五節までは子どもと言われていた言葉が、「小さい者」と置きかえられています。この小さい者とは誰のことでしょうか。単純に子どものことを言っているのではありません。神の国に招かれている者のことです。自分の足りなさを認め、自分こそがと、自分を誇りながら生きるのではなくて、神の前にまさに小さくなって生きるようになった者です。

 そのような人を、神が受け入れていてくださっているのです。けれども、神が受け入れていてくださるのに、そこにいる仲間どうしが受け入れあわないということが起こる。ちょうどここで、ペテロに対して嫉妬している弟子たちのようにです。神は受け入れても、主イエスは受け入れても、私は受け入れない、私は認めない、認めたくないなどということが起こる。なぜそういうことが起こるのでしょうか。それは、神が受け入れてくださるということが、良く分かっていないからです。

 ここで使われている「つまづく」と言う言葉はギリシャ語で「スカンダロン」と言います。これは「スキャンダル」の語源になった言葉です。もともとの意味は「罠」という意味です。動物を捕らえるための罠です。勢いよく走って来た獣も、罠に捕らえられて転んでしまいます。そこからつまづきという意味になったのだそうです。そして、転ばされたものがそこで腹を立てて醜い姿をさらす。それがスキャンダルという意味になったのだそうです。

 けれども、スキャンダルというものは、はたで見ているものにとってみれば面白い出来事が起こっているとほくそ笑んでしまう。つまづくようなものを見下げるということが起こるのです。

 だから、主イエスは十節で「あなたがたは、この小さな者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことにあなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているのです。」と語られています。

 主は「小さい者を見下げないように」とここで語っておられます。そして、マタイはここで見下げたりしない理由として「天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ている」からだとしています。実にユニークな言葉です。

 

 私たちの同盟福音基督教会には信仰基準と呼ばれる十ヶ条の信仰告白を持っています。それによって、私たちは何を信じているのかということを明らかにしているのです。すでに芥見教会の教会員である方はもちろん、洗礼を受けるために準備をしている方、あるいは、転会される方にもこれを一応説明することになっています。特に、私たちの信仰基準の特徴は第九条に天使のことが告白されていることです。こういう文章です。「天使は主とキリストに仕える霊的存在です」。実に短い言葉ですが、こういう天使について語っている教会の信仰告白文というのはあまり見かけません。おそらく、これが作られた当時、教会の中で天使についてということが語られることがあったからだろうと想像しておりますけれども、今日の聖書の個所などを見ますと、それほど悪くないかなという思いになります。

 ここで天使たちは主をいつも見上げている、それが神の国、天の御国の生き方なのだから、そこに生きる者は自分は上だとか、下だとか考えるのではなくて、皆がそれこそ天を見上げながら、父なる神を見上げていたらいいのだ、そうすれば、つまづかせることもないし、人を見下げることもないと語っているのです。

 天の御国の国民は、天を見上げる民なのだ、そこには偉い人はいない、たた崇めるべきお方は父なる神おひとりで十分なのです。

 

 しかも、興味深いことに、十一節がまたカッコ書きで記されています。これは、前にも説明しましたけれども、後になって書き足された文章だという意味です。古い聖書の写本には載っていないのです。けれども。あとで、書き足されるようになった。「人の子は滅んでいる者を救うために来たのです。」と誰かが付け足したのです。これは、小さなものをつまづかせ者は死んだ方が良いのだという言葉があまりにも強い言葉で、ここの意味を読み取れない人が多くいたからなのでしょう。誰かが、この言葉を説明したのです。主は、裁くために来られたお方ではない、人が死んだ方がいいなどと言い捨てておられるようなお方ではない、救うために来られたのだと。それを聞いた人が、自分の聖書に書きこんだのです。そして。この言葉が次々に書き写されていったのです。

 

 今日の聖書の個所はずいぶん内容の豊かなところです。主イエスは続く十二節から十四節のなかで、百匹の羊の中から迷い出た羊のたとえ話をなさいました。もう、このたとえ話について丁寧に説明しているいとまはありません。けれども、このたとえ話が言おうとしていることはもう明確です。主は、まさに、小さな者を探し求めておられるお方だということです。

 一節で弟子たちがしているように、誰が偉いのかということを考えているのとは正反対のことを考えておられるのです。私たちは小さい者です。主に見出していただいた小さい者にすぎません。教会生活が何年つづこうと、主イエスの弟子であろうと、牧師であろうと、私たちは誰もが小さな者にすぎません。けれども、主イエスはそのような小さな私たちを天の御国に招いてくださいました。その天の御国は、天使たちがしているように、私たちは誰もが天の父の御顔を仰ぎ見ながら生きる者とされているのです。それが、天の御国に生きる者の姿です。私たちはそこのことを忘れてはなりません。私たちを支配しておて下さるのは、私たちの身分は立場ではなくて、ただ、父なる神の憐れみによるのです。そして、まさに小さい者として、子どもたちが父を見あげる者となるというところにこそ、私たちの本当の幸いはあるのです。

 

 お祈りをいたします。

 

 

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