2011 年 12 月 18 日

・説教 マタイの福音書18章15-20節 「主イエスの御名に結ばれて」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 16:34

 

 2011.12.18

待降節第四主日礼拝説教

 鴨下直樹

 

 

 先週の水曜日と木曜日で今年最後の祈祷会が行なわれました。そこで一年を振り返って、それぞれの方々がお話ししてくださいました。大変、豊かな時間であったと思います。その中で、どうしても語られるのは、自分の一年を振り返っての反省の言葉です。自分のこういう部分を改めたいと考えるのです。それは、おそらく誰にでもある思いではないかと思います。

 

 マタイの福音書の第十八章は天の御国とはどういう者がはいるところなのかを語っているところです。その中で、当然語らなければならないのは罪の問題です。先週、私たちはこの前の十四節までの御言葉を聞きました。この最後の部分はあまり丁寧に話すことができませんでしたけれども、百匹いた羊飼いの中から一匹の羊が迷い出た話が書かれています。

 少し考えていただきたいと思うのですが、他の九十九匹の羊は迷い出てはいないのです。羊飼いの言うことを良く聞いて、自分たちに与えられた場所で草を食んでいるのです。けれども、百匹もいれば一匹くらいは人と違うことをやってみたいと考える羊がいる。そして、群れからは離れてしまいます。羊にしてみれば、群れから離れるということは、即、死を意味します。羊は自分で自分を守るただ手を何も持たないからです。

 そうすると、そういう羊のことをどう考えるかというと、大抵の場合は、自業自得だと考えるわけです。身に危険を感じるようなことになろうと、死の危険が迫って来たとしても、それは当り前のことです。もちろんここで言われている羊は、人に例えられているのですけれども、そういう失敗を犯してしまった者に対して、私たちの生きている社会というのはそれほど寛容ではありません。

 しかし、このたとえで話されている羊というのは、羊飼いに見出された羊です。そもそも一匹で何でもやっていけると強がっていた羊ではありません。つまり、教会に集められた者のことが、語られているわけです。

 教会に集いながら、私たちはそこで、何が主を悲しませることであるかいつも聞いています。主の御言葉に従って歩むことがどれほど大切であるか良く聞かされています。ところが、それでも、失敗をすることがある。自分の信仰の歩みの一年を振り返ってみれば、やはり今年も失敗の連続であったと反省するほかないのが、私たちの歩みであると言えると思います。

 

 ここで語られている罪とは何をさすのでしょうか。ここで、この言葉の意味はこうだからと説明するまでもないことです。これは、私たちを滅ぼすもののことです。そのままそこに向かっていくと、自分の命を落とすことになる。ここで言われているのは危険な行為をして命を落とすという意味ではないことは、もうお分かりのことだと思います。神から与えられた私たちの生き生きとしたいのち、歩みがこの罪によって生きることができなくなってしまうのです。

 

 

 そこで、主イエスは語ります。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って二人だけのところで責めなさい。」と十五節にあります。私たちはこの主の御言葉をよく注意して聞く必要があります。

 ここで「あなたの兄弟」と書かれています。これは、言ってみれば教会の中で起こる出来事のことです。教会の誰かが罪を犯す。それに対してどのようにしたらよいのかということを、主イエスは語っておられるのです。

 私たち同盟福音基督教会には教会憲法というがあります。その中に「戒規」という項目があります。あまり普段耳にしない言葉です。「戒め」という字と、規則の「規」という字を使います。この戒規によって、教会は戒告したり、陪餐停止、あるいは除名をしたりします。何のためにこれをするかというと、悔い改めに導くためです。ですから、これを「教会訓練」などということもあります。

 けれどもこの戒規というのは教会でそれほど、頻繁に行なうものではありません。そして、よく理解する必要があると思いますけれども、これは、誰か罪を犯した人に対してペナルティーを科すという種類のものではないのです。あくまでも、その人を取り戻すために行なわれるものです。そこ根拠になっているのが、今日の聖書の個所であるということさえできるのです。

 

 そこで覚えておいていただきたいことは、教会は赦しを与える所であるということです。これが大原則です。このマタイの福音書の十八章は教会について語るところですけれども、常に罪の赦しが語られています。今日の個所の前にも後ろにも、そこに記されているのは赦しです。

 それで、この個所をもう一度良く見てみますと、ここでとても厳しいことが言われていることが分かります。「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、二人だけのことろで責めなさい」と記されているのです。誰かのしている罪に気付いたならば、それを誰かに知らせるのではなくて、直接本人に言いなさいとあるのです。

 しかし、これは実際に本当に難しいことです。誰かに相談するほうが簡単です。人の意見を聞いて、あなたはこれについてどう思うかと尋ねる。そうすると、自分の判断することに自身が持てるのです。

 

 最近、携帯電話のインターネットを通して、私がよく読むところがあります。それは、自分の悩みについて書くと、誰かがそれについて答えてくれるというページです。自分の悩みにすぐに誰かが答えてくれるというのは、自分で決断をする恐れからずいぶん助けてくれるもののようです。 会社の上司に、同僚にこういう困った人がいる。私はどうしたらよいかというような質問がほとんどです。そして、同じような経験をしている人がそれに対して答えるのです。

 おそらく、本人がこんな自分の性格のことを全国に配信されていると知ったら取り返しのつかないことになるのではないかと思うのですが、誰か具体的に特定できないというインターネットの曖昧さが、そういうことをまかり通る背景にあるのだと思います。

 私はこういうものを読みながらいつも思うのですが、そうすると人間はますます悩まなくなってしまうのではないか、罪の問題に苦しまなくなるのではないかと思えてなりません。多数派の意見が正当的な考えということにすぐになる危険がそこには伴うからです。

 

 主イエスはここでそうは言わないのです。二人だけのところで責めなさいと言うのです。人にそのことを広めるなとうことです。なぜでしょうか。そこに、私たちはさまざまな誘惑が含まれてくるからです。人に広めた途端に、それはすぐにある評価がついてまわるようになります。自分の知らないところで、あの人はこういうことをする人らしいということが、他の人に知れてしまう。そうなると、そこには赦しという関係が生まれなくなってしまいます。どんどん事が大きくなってしまって、納めることがつかなくなってしまう。そういう危険がともないます。なぜ、主イエスは二人だけのところで責めなさいと言われるのでしょうか。十五節の後半にこうあります。「もし、聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。」

 「兄弟を得る」。ここには二つの意味があります。誰でも、誰かと和解した経験をしたことがある人は分かります。まさに、兄弟と呼べるほどの深い関係がそこから生まれます。和解するということは、兄弟を得ることです。一緒に生きる人を得ることです。滅びに向かうのではない、神に向かって行く仲間を得る、天に向かって同じ歩みをする友を得るのです。そして、それは主イエスと兄弟となる、共に生きる人となるのです。このように、主イエスは私たちがもう一度新しい関係を築きなおして、新しく生きることができる道を示してくださっているのです。

 

 もちろん、いつもうまくいくとは限らないでしょう。続く言葉の中ではそれでも駄目だった場合はどうするかということが記されています。ふたりか三人で行く、教会に告げる、そうして語られているのは、諦めないでその人が滅びることがないように努めなさいということです。教会に告げるというのは、教会の役員会、あるいは長老会ということです。皆に知らせなさいということではありません。そして、教会の言うことも聞かないならどうするか。「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」とあります。これはどういうことでしょうか。昨年も教会の伝道礼拝にお招きした加藤常昭先生は、この言葉は「主イエスにまかせなさい」という意味だと言います。主イエスは、異邦人を、取税人たちを招くために来られたと自ら語っておられるではないかと。私はこの加藤先生の読み方を見て、まさにと思わされました。

 大抵の場合、これはもう私たちの手に負えないから、この世界が裁く、私たちの限界を超えてしまったと理解します。しかし、そうだとすると、もう勝手にしなさいということになってしまいます。けれども、そうではなくて、主イエスの手にゆだねる他ないのだと理解することが、ここで主の語られている内容そのものではないかと思えるのです。

 

 主イエスは言われます。「まことにあなたがたにもう一度告げます。もし、あなたがたのふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」と。十九、二十節です。

 

 この今日の聖書の個所で、主イエスは何度もふたり、三人と言っておられます。罪を責めるときも、出かけていく時も、祈る時もです。なぜかというと、「わたしもその中にいるからです」というこの言葉が語っています。主イエスがその真ん中にいてくださっているのです。これはもともとの言葉では真ん中にいるという意味の言葉です。誰かに近くて誰かに遠いということではないのです。罪を犯した人には遠くて、注意しに来た人にの近くに主はいてくださるというのではないのです。一緒に祈る中でもそうです。立派な祈りができる人の近くに主イエスはおられて、なかなかうまく祈れない人には遠いということではありません。

 しかも、この「心を一つにして祈るなら」という言葉も面白い言葉です。これはもともとのギリシャ語では「スンフォーネオー」と言います。「スン」は「共に」という意味です。「フォーネオー」は「声を出す」という意味です。そして、この言葉がシンフォニーという言葉の語源になっています。一緒に声を出すと、素晴らしいシンフォニーを奏でることになるのです。さまざまな音色が一つの音となっていくのです。

 ということで、ここで祈られている祈りと言うのは、それぞれが自分勝手なことを祈っているということではどうもないようです。「わたしの名において」とあるとおり、そこには主の御名前が真ん中にあるのです。

 

 

 先週の祈祷会でアドベントということもあって、それぞれの方々が一年の歩みを振り返っての話を聞く前に、短くディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉を紹介しました。ボンヘッファーは、ドイツの大戦時代、ヒトラーに立ち向かったことで知られている人ですけれども、実に豊かな才能にあふれた人でした。詩人であったと言ってもいいと思います。このボンヘッファーがイザヤ書九章のメシヤ預言とされている個所についての言葉です。   

 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 イザヤ書九章六節の御言葉です。

 ここに、クリスマスに生まれられたキリストの四つの皆が語られています。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」。ボンヘッファーは言います。この一つ一つが無限の深みのある言葉だと。そして、この無限の深みのある神の御名の一つ一つが、イエスという名前で言い表されているのだと。

 私たちが祈りの時に、「主よ」と呼びかけたり、「イエス様」と祈る時、その言葉は、実に多くの神の御名の一つ一つがこの名前に結ばれているのです。そして、私たちが、主の御名で祈る時、そこには、神からの不思議な助言があり、神の力が示され、永遠の父を思い起こし、平和の君であるお方をあがめることになるのです。

 このお方は、赦し主です。助け主、癒し主、慰め主、救い主、義なる神、憐れみの主、あげればきりのないほど、いくつもの御名を身にまとっておられるお方です。このお方に、私たちはこころを合わせて祈る。祈ることがゆるされているのです。そのようなお方に祈る時に、どうしてなおも争いあいが起こるでしょうか。赦しが起こらないことなどあり得るでしょうか。

 イザヤはこの御名は、私たちのために生まれたみどりごが、この名前を持つと語っているのです。神が、みどりごとなって、私たちのところに生まれてくださった。神のすべての名を携えておられるお方が、みどりごとして生まれてくださったのです。

 わたしたちは、ここに、神がすべてのものを放棄された姿を見出さずにはいられません。こうして、何も持たない者となられたこをお示しくださったのです。すべてを捨てることができることを私たちに示してくださったのです。そして、このお方は何も持たないお方であるがゆえに、このお方は、すべてを指し示すことがおできになったのです。

 

 私たちは、人をゆるすことができない時があります。なかなか自分の怒りを捨てることができません。自分の正当性を捨てる覚悟がつきません。だから、ついつい、自分と同じことを考えてくれる人を探して、自分の怒りは正当だ、誰もが同意してくれるはずだということに、問題の解決を見出そうとしてしまうのです。しかし、そこには、新しく何かを生み出すものはでてきません。せいぜい、勝者と敗者が生まれるか、あるいは、お互いの意地や、面子といったものだけがいつまでも残ることになるのです。しかし、私たちが祈るお方は、ご自分の持っておられたものをすべて捨てられて、クリスマスの時に、小さなみどりごとしてお生まれ下さったのです。

 だから主イエスは言われるのです。一緒に祈ろうと。私もそこにいるから、あなたがたの真ん中にいるから、祈ろうと。一緒に祈るなら、そこにゆるし愛が生まれ、和解が成立し、喜びが再び支配するようになるからと。主イエスはこの地に、光をもたらすためにお生まれになられたお方なのです。     

 

お祈りをいたします。

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