・説教 「エデンの東から帰る道」 創世記4章1-16節
鴨下直樹
先週、私たちの教会の新会堂三周年を記念して、ドイツ教会音楽と聖書という題で、ドイツの賛美の話、主に、宗教改革者ルターのコラールの話しをいたしました。今週も礼拝の後で、岐阜県美術館の館長であり、私たちの教会の教会員でもある古川秀昭さんが、新しい会堂が出来た時から初めておられる「キリスト教美術講座」が行われます。今回のテーマは、フラ・アンジェリコの受胎告知をテーマに選ばれたようです。
以前も一度礼拝の説教において、この絵について触れたことがあります。おそらく午後、古川さんが丁寧にお話しくださると思いますけれども、このアンジェリコは何枚も受胎告知の絵を描いております。受胎告知といいますのは、処女マリヤが御使いガブリエルから、神の御子を宿すということを告知されます。この場面を描いたものです。この受胎告知のテーマの絵に、アンジェリコは楽園追放という出来事を背景に描いているものが何枚もあります。マリヤが御使いのお告げを受けている背後で、アダムとエバがエデンの園から追い出されてしまう。この神の園から追い出された人間の悲しみが、主イエス・キリストの降誕によって回復されることを描きだそうとしたのです。
今日、私たちに与えられている聖書は、この楽園を追い出されたアダムとエバの子孫がどのようになったのかを描き出しているところです。神の支配する世界から追い出されてしまった人間が、神なしで世界を造る。その最初の出来事としてこの創世記第四章がおかれているのです。そして、このときから、御使いがマリヤに救い主を与えると宣言されたその時に至るまでの、人の悲しみの源が、ここに描かれているといってもいいのです。
アダムとエバの新しい生活がはじまります。新しい生活という言葉を聞きますと、誰もが、何か楽しげで、これから何が起こるかというような期待を思い浮かべますけれども、果たして、アダムと、エバにとってはどうだったのでしょうか。この4章には、この二人に「カイン」という子どもが生まれたことが記されています。アダムとエバに、この最初の子ができたとき、二人はどれほどの喜びであったでしょう。おそらく、エデンの園を追われてはじめての喜びが訪れたのはなかったかと思うのです。そして、続いて二人目の息子アベルが生まれます。こうして、二人だけだった世界に、小さな社会が誕生します。この神の支配の外で始まったばかりの小さな社会、それをここで描き出しているのです。
アダムとエバの息子たちは成長します。カインは土を耕すようになり、アベルは羊を飼う者となります。そして、「ある時期になり」と新改訳にあります。新共同訳の言葉でいえば「時を経て」と訳されておりますけども、労働の実りがもたらされます。興味深いことにこの創世記は、創世記3章で語った、出産の苦しみや、労働にともなう労苦ということをここで書いていません。けれども、ここに「時を経て」とあるように、もくもくと労働に勤しんだことだけが記されております。そのように労働や、出産が苦しみばかりのものとして記さないで、黙々と果たされるべきものであることが、このようなところにあらわされているということができるかもしれません。子供が、無事に生まれる。あるいは、労働に実りがもたらされる。それは、本当に、厳しい生活の中にあって、大きな慰めを与えてくれます。
男が仕事に生きがいを見出し、女が子育てに勤しむのも、そこに決して小さくはない慰めを見つけているからだということができるかもしれません。自分が生きていることの意味を、人間は自らの生活の中から見つけ出していくのです。神を見失った人間は、そのようにして、神からではない、自分が全てを注いでもいいと思う、別のところから慰めを見出したのです。
しかし、そのような慰めが何をもたらしたのか。ここからそれが明らかになります。カインもアベルも、自らの労働の成果を喜んで、神に献げものをするために、収穫物を携えてきます。これは、神への礼拝です。エデンの園を追われた、人間は、それでも神に顔を向け、礼拝を献げようとしている。カインもアベルも、その顔を神に向け、神に喜びの礼拝をささげている。「この収穫はすべてあなたによってもたらされたものです」と。
エデンの園から追われた、小さな社会は、そのようにして、喜びの社会であることを感じ始めていたのかもしれません。ここにも、神がおられ、神への感謝が溢れていると。しかし、忘れてならないのは、この世界は、神の楽園の中ではないということです。神から離れた小さな社会なのです。神から離れている。そのことを聖書は「罪」と呼びますが、その罪が、まさに、この神への礼拝においてまた、顔をのぞかせるのです。
カインにしてみれば、この礼拝は神に受け入れられると思ったことでしょう。神が自分を祝福してくれるに違いないと思ったのです。収穫の実りを神に携えてきたのです。喜んでそうしているのです。神がこの礼拝を喜んで受け入れてくれさえすれば、全てがうまくいくのです。労働の中にある喜びを、そして、神の祝福というものを味わって、また新しい労働へと移っていくことができるはずだったのです。
ところが、神は、このカインの期待に反します。神はカインの献げものには目を留められず、アベルのものに目を留められたのです。それは、時間にしてみればほんのわずかな出来事であったかもしれません。しかし、この一瞬の間、カインの心は凍りつき、暗闇に包まれてしまいます。何が起こったのか、理解できなかったのです。なぜそうなったのか、その理由はまったく分からないのです。
子供の頃、天地創造という映画を見ました。子供のころに記憶ですから、不確かですけれども、このカインとアベルの献げものもの場面で、アベルの献げた子羊の煙は、まっすぐ神に上っていったのに、カインのものは、そこで風がじゃまをしたのか、天にそのまま昇っていかないというような描き方をしていたことを良く覚えています。子供ながらに、理不尽さを感じたのです。
聖書はこの理由を語ることに、何の説明も入れてはおりません。新改訳聖書を読みますと、こう書かれています。 「ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持ってきた。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持ってきた。」(4-5節)とあります。
この「それも自分自身で」などと書いてあるのを読みますと、アベルは自分から持ってきたけれども、カインはお父さんのアダムか誰かに言われて持ってきたという印象を持ちます。もちろん、そのように訳すことは全く不可能というわけではありませんけれども、聖書はここで、私たちが納得するような理由を、語ろうとはしていないようです。決して、カインとアベルのささげ物に大きな違いがあったということではないのです。どこかに理由があったということではありません。私たちは、こういうところを読みますと、急に不安になるので、何か、カインに落ち度はなかったか? ああ、そうだ、カインはお父さんに言われたからで、アベルは自分から持ってきた、こう説明されると、どこかで安心するわけです。けれども、そうしてしまうと、この物語は理解できなくなるのです。納得できないとどうなるかというと、そこで腹を立てて怒ってしまうわけです。 カインは、なぜ、神がそうされたか全く理解できない、そこで、カインは神に対して腹を立てているのです。
これはカインの物語です。神に向かって労働し、収穫を得、神に献げものをする。そのような神と特別悪い関係でもないようなときに、突如、神の側から、カインにとって不都合である、理不尽であるという出来事が襲いかかってくる。これはそういう物語です。
そうです。これは、カインの物語であると同時に、私たちの物語でもあるのです。自分の中に、何か、神への不信があった。神に隠れた罪を犯していた、そのような理由があるなら、納得がいくのだけれども、そのような納得のいかない、不意の神からの出来事に、私たちは、どうしていいか分からなくなるのです。そこで、出てくる叫びは一つです。「神よ、どうしてなのですか!」という叫びです。
ここで、カインはどう行動したのでしょうか。少し、聖書を続いて見てみたいと思います。
「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインは、ひどく怒り、顔を伏せた。」(4節b-5節)
カインは、ここで「ひどく怒り、顔を伏せた」のです。この瞬間、カインは、神の方を向くのを止めてしまいます。神を信頼することを、止めてしまうのです。こうして、カインが、どのような思いで神を見上げていたかが、明らかとなります。つまり、カインは「自分のことを祝福してくれるであろう神」を見ていたにすぎなかったということが、ここで明らかとなってしまうのです。それでは、神を見上げていたことにはなりません。結局は自分を見ていたのであり、祝福してくれる方を、あてにして見ていたにすぎなかったのです。
しかし、このことは、私たちに、大変厳しい問いを突き付けます。神を仰ぎ見るとは、どういうことなのでしょう。宗教改革者ルターは言いました。「正しい信仰のないところでは、人の心は神を斜めの目で見るのだ」と。「斜めの目で見る」というのは、面白い表現ですけれども、まっすぐに立っていないということです。神の前に立っていないということでしょう、心がまっすぐ神に向かわないで、別のところから、神を見上げてしまう。つまり、「自分への祝福」というところへのこだわりです。自分にこだわっているのです。そして、そこが、罪の付け入る隙となるのです。私たちは神の方を向いているようでも、「自分」、「私」というものに固執しまうなら、神の前に立っているようで、実は神を斜めに見ることになる。そういう危険があることを私たちは心にとめておかなければなりません。
しかし、神は、カインが、私たちカインが、と言った方がいいかもしれませんけれども、私たちが、そのような罪に付け入る隙を与えることを願ってはおられません。だから、神はここで、すぐにカインにお語りになります。7節です。
あなたが、正しく行ったのであれば、受け入れられる。正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だがあなたはそれを治めるべきである
実は、この7節の翻訳は大変難しいようです。ですから、翻訳を読み比べると、実にさまざまな翻訳の可能性があることに驚くほどです。その中でも、私が興味深く読んだのは、カトリックのバルバロ訳と呼ばれるものです。そこには、このように訳されています。
「なぜいきどおっているのか? なぜ顔を伏せたか? あなたの行いがよければ、顔を高くあげてもよいではないか? だが、あなたの行いが悪ければ、罪は、待ち伏せする悪魔のように門の前に立っている。彼はあなたを占領しようとするが、あなたはかれを支配せねばならない」となっています。
ここで「罪は待ち伏せする悪魔のように」となっているのです。新改訳だと「罪は戸口で待ち伏せして」となっているところを、「悪魔のように」としているのです。これには説明ついています。この「戸口で待ち伏せする者」というヘブル語の言葉ローベツという言葉が、アッシリアの悪鬼にあたる「ラビッシュ」を連想させる言葉だというのです。カインを悪鬼が待ち伏せしているように、罪が今か今かと待ち伏せして罠にかけようとしている。そこで、このバルバロの説明はさらに続いてこうあります。「しかし、いざないがどんなに激しいものにしても、カインは、そのつもりさえあれば、それに打ち勝つことができる。つまり、人間の自由意思を強調する」と、ここで説明されているのです。
ここで、カインに起こっていることは、こういうことです。「神の祝福を受けたのは、自分ではなく、弟アベルである。しかし、そんなことは自分は認めない、認めたくもない、神がアベルを祝福して、自分は祝福しないなんていうことは不公平だ。こんな神の祝福を、自分は認めたくない。」こういう思いが、カインの心の中に浮かんできているのです。けれども、神は、ここで、「あなたの怒りは、本当に正しいのか?あなたはその思いを乗りえて、支配することができるのだから」と語ってくださっている、ということです。
「義憤」という言葉があります。自分の憤りは、義しい、という正義に基づいた憤りのことを「義憤」といいます。人と言い争う、その時に、自分の怒りは正当であると思うことができる時、人は非常に強く出ることができます。その時、人は考えられないほどの力を発揮することができるほどです。
以前、私は、私が出席している説教塾という、全国の牧師たちが説教のために学びにくる集まりの中で、それを指導してくださっている加藤常昭先生からこういうことを聞いたことがあります。「義憤に燃える」ということがある。そして、人はその自分は義しい、正義であると思いながら、憤るときに、実はそれはとても気持ちのいいことだ、ということを言われました。けれども、この自分の義しさに酔いしれた憤りというのは罪である、とはっきり言われたのです。
私はその時、驚いてしまいました。なぜかというと、そういう思いになることがわたし自身、度々あるからです。人は怒りに燃えている時、それは気持ち良いと感じるのです。それは誰もが体験的に知っていることでしょう。正義感に酔いしれるのです。しかし、そのような自分の心の中から浮かび上がる、自分の正しさというものは、相手には相手の思いがあって、常に義しい、正義であるということなどできません。けれども、その怒りに酔いしれて、一方的な正義を貫き通そうとする時、それが何に根差した怒りであるのかということを、私たちは立ち止まって考えてみる必要があるのだと思うのです。この聖書のところから言えば、その怒りは「神に対して顔を伏せているではないか」ということです。
私がこのように言いますと、ある人は、いや、私の怒りは、神の前に出ても正しいはずだ、と考える方もあるかもしれません。けれども、そこにこそ、この罪が戸口で待ち伏せしていると言わなければならないのです。自分の考えている正しさを、神の位置まで持ってくるときに、人は神の裁きを行おうとしてしまうのです。自分の考えだけが正しいなどということは、断じてないのです。
考えていただきたいのですが、常に正しすぎるところに置かれて、いつもあなたは間違っているという弱者に立たされる人間のことを。その人が常に、どんな時でも間違っているなどということは決して言えないのです。けれども、私たちはそのような、自らの義に酔いしれて、人を神のごとくに判断しようとする。それこそが、知恵を求めた人間の姿ではなかったか、ということなのです。
けれども、神は、ここでそのようなカインに対して、あなたはその憤りを治めることができると、命じておられるのです。命じているということは、神が励ましておられるということです。興味深いことですけれども、旧約聖書の命令形というのは、あなたにはできるのだからという「神からの励まし」なのです。私は旧約学者ではありませんけれども、文法的にそういうことが言えるのだそうです。
神は、私たちに向かって言われる、「罪が戸口で待ち伏せしていたとしても、あなたはその怒りを、自分の正義を、罪を、治めることができる」のです。なんという、神からの信頼でしょうか。神が命じられることは、あなたにはそれが出来るからという励ましなのです。
カインは、どうしたでしょう。彼は、神の願いに反して、罪に飲み込まれてしまいます。
「しかし、カインは弟アベルに話しかけた。『野に行こうではないか。』そして、二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した」(8節)
カインの心の中に支配した思い。それは「このアベルさえいなければ、自分が祝福されたはずだった」ということでした。カインは意地らしいほどに、神の眼差しをしたいもとめたのでした。しかし、徹底的に、「自分」にこり固まった思いは、愛すべき弟アベルを、憎しみの対象としてしか、もはや見ることができなくなってしまったのです。カインはアベルに向かってこういうこともできたかもしれないのです。「弟よ、お前の礼拝は神が喜んで受け入れてくださった。私もそのことをともに喜ぼう」と。
思い起こしていただきたいのですが、ここで起こった出来事は、神はアベルのものに目を留められたということであって、カインのものには目を留められなかったということではないのです。だから、「こいつさえいなければよかったのに」などと考える必要ははなったのです。けれども、人の思いとは不思議なもので、片方が顧みられると、もう片方は、顧みられていないと考えてしまう被害者意識が働いてしまうのです。そして、そのような思いは、カインと同じように、つねに「あの人がいなければいいのに」というものとなっていってしまうのです。
神はカインに尋ねます。「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と。この問いによって、一つのことが明らかとなります。それは、神の思いと、カインの思いの相違です。
神はここで、カインに尋ねます。「あなたの弟アベルはどこにいるのか」。それは、あなはた、兄弟とともに生きているはずではないか?という問いです。けれども、この神の問いかけは、カインにはこのように聞こえてきます。「私が愛したアベルはどこか」と。そこでカインは考えるのです。「神は、やはり私ではなくアベルのことを愛しておられたのだ」と。それで、カインは心の中でこう決めてしまうのです。「神は私のことを愛してはおられない。そうして、カインの心は開き直ってしまい、こう答えるに至る。「知りません。私は弟の番人なのでしょうか」。なんという悲しい、すれ違いでしょう。
少しこの「番人」という言葉を説明する必要はあるかもしれません。この「番人」という言葉は、「見張り役」という響きを持つ言葉ですけれども、もともとは「牧者」という言葉です。「守り手」です。ドイツ語で「Hüter」(ヒュッター)という言葉ですけれども。この言葉の類語、近い言葉は「Torhüter」(トアヒュッター)、「ゴールキーパー」という意味の言葉です。「ゴールを、守る人」なのです。神は、兄弟を守り手として置いておられたということです。私たちは、自分で自分を守ることができないので、兄弟が互いに守り手として支え合う。それでなければ、社会で生きていくことは成り立たないのです。けれども、カインはこれを拒んでしまいます。
礼拝の中で起こった、ほんの一瞬の出来事を通して、カインは神を見失い、兄弟をも見失ってしまいます。しかし、失ったものはそれだけにとどまりませんでした。つまり、労働の大地からも呪いを受けることとなってしまうのです。
「あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩く、さすらい人となるのだ」(12)
今やカインは一切のものを失ってしまいます。神もなく、共に生きる者もなく、守ってくれる者ももはやなく、帰る土地さえも失ってしまうのです。残されたのは罪悪感だけです。こうして、カインは、エデンの東の地、ノデの地に住み着くのです。この「ノデの地」というのは、「さすらいの地」という意味です。「憩いの無き地」、「慰め無き地」です。
創世記はこのようにして、人は神から離れたために、夫婦が離れ離れになり、兄弟が離れてしまい、そして、労働の大地からも引き離されてしまったと描き続けていきます。そして、人間はエデンの東の地に住むことになるのです。隣には神の楽園があったのに、今はそこに住むことも許されない、けれども、そこから遠く離れることもできない。それほどに、人はこのエデンを恋い求めたのです。
エデンの東に住む。そこに生きるなら、覚悟が求められます。そこには何もないのです。希望すらないのです。ただ、あるのは罪悪感と、そこから生じる恐れです。それでカインは主に語ります。
「私の咎は、大きすぎて、にない切れません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩く人とならなければなりません。それで、私に出会う者は誰でも、私を殺すでしょう」(13-14節)と。
けれども、このカインの絶望の言葉をお聞きになった神は、このどうしようもないカインに一つのしるしを与えます。「カインのしるし」それは、カインの命を脅かす者から、カインを守る、保護のしるしです。カインは、神を見捨て、兄弟を捨てたのにもかかわらず、そのようなカインに対して、神はそれでも、守りの約束を与えられる。このしるしがあるかぎり、カインは神に見ていてくださるという平安を見出すことができるようになったのです。エデンの東での生活の中に、神は小さな希望を、カインの与えられたのです。
神は、どれほど身勝手この者であっても、見捨てられないのです。考えられないほどの、配慮を神はなさるのです。私たちは誰もが、このカインの末裔です。今も、私たちはエデンの東、ノデの地、さすらいの地、慰め無き地に住んでいます。けれども、神は私たちに目を留めていてくださる。目を留めていてくださるばかりか、その私たちに目を留めていてくださるのです。
そのことが、明らかとなったのが、あのクリスマスの出来事でした。あの受胎告知によって、マリヤに御使いが語りかけた時、もう一度、あのエデンの園に人が入ることができる道を開いてくださるのです。なんという、神の憐れみでしょう。私たちは神のもとに帰ることができる。もう一度、神と共に生き、兄弟を取り戻し、労働の喜びを取り戻すことができるようにされたのです。
そして、実は今、私たちは、私たち主イエス・キリストを信じる者には、もう、すでに、この神の国、エデンの園で生きることが出来ようになっているのです。それが、主イエス・キリストを信じるということです。そうです、主イエスを信じる者は、この神の楽園、神の国に生きることができるのです。神と共に生きることができるばかりか、夫婦がしっかりと向かい合い、兄弟が支え合うことができる。そのような幸が与えられているのです。
お祈りをいたします。