2009 年 6 月 28 日

・説教 「カインの末裔とセツの子孫」 創世記4章17-26節

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鴨下直樹

今、芥見の礼拝において創世記の御言葉を聞き続けています。この創世記は、神がこの世界をお造りになったことと、その後、人々がどのように神と歩んだのか、いや、どうして神と共に歩むことができなくなったのかが丁寧に語られています。人間は、神のように生きたいと願った結果、神から離れて生きることを選び取ってしまったこと。そして、前回のところでは、アダムとエバの二人の息子カインが、弟アベルと共に生きることを拒み殺してしまうことを通して、一緒に生きていく者を失ってしまったことが語られていました。つまり、神から離れ、隣人を失ってしまいます。こうして人間は孤独な存在となったところまでが、前回のところでした。

今日の聖書の個所は、読んでみますと、それほど重要なことが語られていないように、一見、見えます。そして、実際に、私のところにある様々な創世記に関する書物も、このところは飛ばしてしまっているものが多いのです。けれども、良く読んでみますと、この物語は私たちがすーっと通り過ぎてしまうことはできないほどの、大切なことが語られていることに気がつくのです。

 

 今日のところは、この孤独になってしまったカインがどのようになっていくかが、語られているところです。簡単に言いますと、カインの子孫、カインの末裔の事が語られています。けれども、少しそこで立ち止まって考えてみますと、少しおかしいということになります。何がおかしいのかと言いますと、アダムとエバには二人の息子しかいなかったはずなのに、どうしてひとりぼっちになったカインが結婚できたのか?ということが気になるのです。

 私が神学生の時のことですけれども、教室の壁に不思議な系図が張ってありました。それは、アダムとエバから始まる家系図です。この二人の下に、カインとアベルと名が載っておりまして、アベルの名が消されている。そうすると、残されたカインがどこからか分からない女と子を産んで、エノクという名が記されていたのです。私はこの家系図がどうしても気になりました。どうして、誰もいないはずなのに、カインは結婚できたのかということが気になってしかたがなかったのです。誰であったか名前は忘れましたけれども、先生のひとりに尋ねますと、その先生がにやりと笑って、反対に尋ねるのです。「どうしてだと思うか?」と。説明を聞けば、なんだそんなことか、ということですけれども、そのように、疑問をもって考えるということが、大事だということをそこで学びました。というのは、その先生はそこでは答えないで、行ってしまったのです。そうなると、自分で調べるしかありません。それで、自分で調べて、納得したのです。

 ですから、私も、今日はそのことはここで言わないことにしましょう。と、言いたいところですが、そうもいきませんので、お話すると、聖書は、いつも、全てのことが書いてあるわけではないわけです。ですから、当然、それ以外の人がいて、結婚したのだろうけれども、そういうことまで細かくは書いていないのです。カインが、最初にアダムとエバと共に住んでいた場所から追い出された時、すでにカインは「私に会う者は私を殺すでしょう」と恐れています。そこでも、すでに、他の人がいることが語られていることからも、そのことはよく分かると思います。けれども、私が、初め考えたのは、アダムとエバには書かれていないけれども、他に女の子供がいて、その娘と結婚したのか?そうすると兄弟で結婚したことになるから、おかしいし、などと色々考えたものですけれども、そういうことを色々と考え始めてしまいますと、結局書いてないことを想像してしまうことになります。そうなると、聖書に書いてないことに、興味がでてきてしまいます。けれども、大事なことは、書かれていないことではなくて、書かれていることがそれ以上に大切ですから、ここで語られていることに目を向けて行きたいと思います。

 

 さて、今日のこの4章17節以下には、二人の人物の系図が語られています。最初の系図はカインの子孫です。けれども、興味深いことに、「カインの子孫」と私は今いいましたけれども、一般的に「カインの末裔」と呼ばれることが多いのです。おそらく、その一つには作家、有島武郎の書いた小説「カインの末裔」と無関係ではないでしょう。数年前に同じタイトルの映画もあったようですから、この言葉を耳にしたことのある方も多いと思います。この作品についていまここで説明するいとまはありませんけれども、ここでは、弟アベルを殺したカインの末裔というのが相応しく、その末裔が代々にわたって七代まで記されています。

 ここで、まずこのカインが町を建てたことが語られています。エデンの園を追われて、この世をさまようことになった者が、町を建てる。町が築かれるということを、描くことをとおして、ここから文化が生まれていくことが、物語られていきます。ですから、ここで天幕に住む者の先祖となった者、家畜を飼う者の先祖となった者、音楽を奏でる者の先祖となった者、鍛冶屋になった者などという、一つの文化の祖先を記して、こうして文化が起こったのだということが物語られていくのです。

その最初に「カインは町を建てた」(17節)とありますけれども、町というのは、自分の家族か住み着くわけです。なぜ、町を建てるかといいますと、一つには自分達家族を守るためです。そして、そのような自己防衛の考えが、今日の個所に大きく支配しているということができるかもしれません。

 

カインは、この町を自らの子どもの名にちなんで「エノク」と名付けます。この物語は、こうしてカインについて語るのではなく、すぐに「エノク」に移り、次々に子孫たちの名前がつづきます。そして、「レメク」という名が出てくるところで、少し立ち止まりまして、というか、特筆すべきことがあって、このレメクについて語ります。

 この「レメク」という名前は「強い者」という意味があります。この強い者はそこで何をしたかというと、「ふたりの妻をめとった。ひとりはアダ、他のひとりの名はツィラであった」(19節)と記されています。

 この創世記は、女と出会った時、

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男か取られたのだから。」それゆえ、男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 と創世記2章23-24節に記されておりました。これは、夫婦が、互いに切り離すことができない、まるで一つの体の要であることを語っています。夫婦というのは、それほど深い関係であることが語られていたのであって、このことは、聖書の原則として、夫婦は、一夫一婦であるということが語られているということを表しています。

 ところが、神の世界から外へ出て、自分の街を建て上げ、生活をし始めた時に、レメクは、二人の妻を娶(めと)ったのです。二人の妻を持つことは、その名のように、強さを表すことだと考えたのです。妻が二人あれば、こどもも沢山できる。子供がたくさんあれば、自分の身を守ることに都合がよいのです。

 それで、このレメクは、その名を示すかのように自分の強さを誇る歌を記しています。それが23-24節にあります。

 さて、レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。』

 傲慢この上ない歌です。歌ということもはばかられるようなものです。これは、自分に少しでも危害を加えるものがあれば、その者に対しては完全な復讐で報いるという宣言です。ある、聖書の解説者は、ここにテロ主義に源が記されているとさえ記しました。

 ここにあるのは、神から離れ、自分に危害が加えられることを恐れたカインが、その末裔になると、過剰なほどの恐れをもって身を守るためには、どんな復讐でもするという広がりが映し出されています。

 

神を見失った世界、神を見失った文明というものは、自分のことは自分で守らなければならない世界だと言って、言いすぎではないでしょう。人を信じることができないのです。だから、常にびくびくしていなければならない、攻撃されたら、自分の身は自分で守らなければならないと考えるのです。その最たるものが、自主防衛のためと言いながら、どんどんと武器を、武力を増強しつづけているこの国の姿にも表れているのです。そうやって、戦争はしないなどといいながら、相手を威嚇する。そうしておいて、自分の強さを周りに示すことによって、身を守らなければならないなどというのは、このレメクの歌と何の違いがあるのでしょう。

「カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と24節にありますが、旧約聖書はヘブル語で書かれておりますけれども、最初に訳されたのが、七十人訳聖書というギリシャ語の聖書です。この翻訳はパウロも使用していましたから、どれほど古いものであるか良く分かると思いますけれども、この七十人訳によると、「七度を七十倍するまで」と訳されております。

すると、すぐに、一つの新約聖書の物語を思い起こします。マタイの福音書18章21-23節にこういう出来事が記されています。

 

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」

イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

 

 神を失った世界は、自分で自分の身を守る世界、相手を威嚇して、自分を強く見せることで成り立っている社会です。そういうところでは、学歴がものをいい、地位や、権力が絶対的な力かのように映る世界です。そういう世界を、わたしたちカインの末裔たちは、今日にいたるまで築きつづけてきました。そして、そういうシステムの中で、納得しながら、人を恐れながら生きているのです。

 けれども、主イエスは、そのように生きるのではなく、かえってまったく異なった生き方をお示しになりました。「誰かが、自分に対して罪を犯す。自分に対して不利益なことをするなら、どうしたらよいのか」と、主イエスの弟子のペテロは尋ねます。それに対しての主イエスの答えが、この言葉です。

 ペテロは「七度まで赦すべきでしょうか」と尋ねます。「仏の顔も三度まで」と言うくらいですから、「七度まで赦す」ということは、かなり寛容だと言ってもいいでしょう。けれども、主イエスは「七度を七十倍するまで」と答えられました。つまり、「完全に赦しなさい」と言われたのです。

 「赦す」ということは、簡単に言ってしまえば、「失う」または「損をする」ということです。自分が何かしらの被害を受けていることを、忘れるというのですから、簡単なことではありません。けれども、それをすることで、自分に危害を与えた相手そのものを失うのではなく、その人そのものを「得る」、「取り戻す」ことなのだと主イエスは言われたのでした。「やられたら、やり返す」ということを繰り返したら、どうなるでしょう。

 時々、子どものケンカを見ていますと、はじめにどちらかが、ちょっかいを出します。はじめは、肩に触れた、という程度なのに、それがやり返すうちに、どんどんと強くなっていって、最後には、激しい叩きあいになります。そういう場面を見ることは少なくないでしょう。大したことではないのに、だんだんとブレーキがきかなくなってしまい、最後には顔を真っ赤にしながら、あるいは、泣きながらの大喧嘩に発展してしまう。そのように、わたしたちも、際限のない争いになっていきます。これは、子どもも、大人であっても、形が違うだけで、まったく同じことをやってしまっているのです。

 けれども、はじめから腹を立てないで、互いに赦し合うことができれば、それほど傷つけあう必要も本当はなかったということが分かるでしょう。そして、それは、実は損をするどころか、さらに踏み込んだ人間関係へと発展させてくれることさえ起るのです。

 どうしたら、わたしたちは、そのように生きることができるようになるのでしょう。どうしたら、このカインの末裔の生き方から、抜け出すことができるのでしょう。

 

 今日の聖書は、もう一つの系図が記されています。アダムとエバから生まれた、もう一人の子、セツの系図です。

 アダムはさらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の名によって祈ることを始めた。 (25-26節)

 ここに、セツの子孫の「エノシュ」が生まれます。この「エノシュ」は「弱い者」という意味の名前です。「レメク」「強い者」と正反対の名前です。このエノシュは、強さを示す生き方ではなく、弱い者であるところに、留まりました。

 自分で自分を守る強さではなく、エノシュは自らが弱いゆえに、神に祈ることをはじめました。ここに、もうひとつの生き方が示されます。つまり、強さを誇示する生き方ではなく、弱さのままでにも、神に守られて生きることができる幸いな生き方です。

 こうして、ここに、二つの生き方が示されます。「あなたはどう生きるのか?」と。カインの末裔である私たちは、この生き方を示してくださるお方、主イエスによって、新しく生きる道が示されます。それが、「主と共に生きる」生き方です。それは、神に祈る生活と言い換えることもできるでしょう。だた、神を信頼する生き方です。もし、私たちがそのように生きることができるなら、この文化の世界の中であっても、平安をもって生きることができるのです。私たちはカインの末裔です。けれども、わたしたちは主イエスによってセツの子孫として生きる、神の子どもとして生きることができるように招かれているのです。強さを誇る者としてではなく、弱くとも、神に信頼しつつ、祈りながら歩むなら、この世にあって平安に生きることができるのです。

 お祈りをいたします。

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