2012 年 1 月 22 日

・説教 マタイの福音書19章13-22節 「慈しみに生きよう!」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 13:17

2012.1.22

鴨下 直樹

 司式者の朗読する聖書をお聞きになって、もうすでにお気づきになられた方もあると思いますけれども、今朝私たちに与えられている聖書は子ども祝福式の時に必ずと言っていいほど良く読まれる聖書の個所です。
 私ごとで始めて恐縮ですけれども、先週の月曜日に私たちに無事に女の子が生まれました。妻はまだしばらく入院しておりまして、その後は実家に少し戻ります。けれども、戻ってまいりますと、教会で早速、幼児祝福式というのを致します。その時にもおそらく読まれる個所です。
 この出来事は、主イエスのもとに、祈ってもらうために子どもたちが連れて来られた時に起こったことです。ここで主イエスの周りにいた子どもたちというのは、もちろん、子どもが自らやってきたということではなくて、その両親が御前に連れて来たのです。そして、主イエスに祈ってもらいたいと思う。ところが、ここで思わぬ出来事が起こります。弟子たちが彼らをしかったのです。「しかった」というのは、主イエスの前に出るのに子ども相応しくないと弟子たちはどうも考えたようです。

 これは先週の個所に引き続いての個所です。今朝与えられている聖書の最初の十三節に「そのとき」とあります。この「そのとき」というのは、パリサイ人が主イエスに「何か理由があれば離別することは律法にかなっているでしょうか」との問いに対して答えられた後ということです。
 この時代、「女、子どもは男の財産」というように考えられていた時代です。ところが、主イエスはこの前のところで、女は自分の財産などと考えるのではないのだと教えられました。そして、その直後に、今度は子どものことが問題になったのです。

 そういう話を主イエスとしているところに、子どもが連れて来られたのです。すると、思わず弟子たちは、子どもなどは神の前に相応しくないと叱りつけます。けれども、主イエスは言われました。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです」十四節です。

 祝福式の祈りをします時に、私たちはここで何を主イエスがおっしゃっておられるのかをあまり考えないままに、祈ることがあります。そして、時折、子どものような素直さを主イエスはここで求めておられるのだと説明される場合があります。
 けれども、よく注意しなければなりません。先日もある方と洗礼の準備のための学びをしておりました時に、生まれたばかりの赤ちゃんでも罪があるのですかと尋ねられました。実際、赤ちゃんの寝顔を見ておりますと、このどこに罪があるのだろうか思うものです。もちろん、そのように赤ちゃんの寝顔を見ながら、こんなにかわいらしい顔をしているけれども、お前の腹の中はどす黒い罪の血が流れているんだぞと、何も言い聞かせる必要はありません。それは意味のないことです。人間は赤ちゃんであろうと、成人であろうと、自覚的に罪を犯そうと、無自覚であろうと、神の前にすべての人間は正しい存在では残念ながらないのです。
 ここで主イエスは何を語っておられるかというと、けれども子どもだけは別だと、その性質を褒めているのではないのです。子どもはただ、御前に連れられて来ることしかできない存在です。自分で自分を守ることさえもできません。自分の意思で行きたいところに行くこともできません。
 「天の御国はこのような者たちの国なのです」との主の言葉は、まさに、何も持たないものが神の御前に招かれているのだと言われているのです。その「何も持たないもの」に代表されているのがここでは子どもだというのです。

 そして、そのことをよく表す出来事が、そのすぐ後で書かれています。それが十六節以降に記されている富める青年の物語です。この富めるというのは、この人は多くの財産を持っていたからであるというところから、言われるようになりました。
 「多くの財産」というのは何を指すかというと、まずはもちろんお金を持っていました。そして、土地も持っております。しかも、この聖書を読んで行きますと書かれておりますように、人を殺したことはない、姦淫したことはない、盗んだことはない、偽証したこともない、父と母を敬っているということのできた立派な人です。こういう人をどこかで探そうとしても簡単には見つからないような立派な青年です。当然、人々からの信頼も得ていたでしょう。尊敬もされていたでしょう。律法を守っておりますと答えることができた人ですから、神の前にも誠実であろうとした人です。これ以上何を手に入れる必要があるかと言ってもいいような人です。
 そのような金持ちの青年、何でも手に入れていた青年が、この前に書かれているような「天の御国」の話を耳にしたのです。そして、自分も天の御国で生きる者となりたいと思ったのです。それで、「永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをしたらよいのでしょうか」と主イエスに尋ねたのです。

 そして、この問いに対して主イエスはこうお答えになられました。二十一節の主イエスの最後にお答えになられた言葉を読みます。
 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 みなさんは、この主イエスのお言葉を聴いてどのように思われるでしょうか。永遠のいのちを得るためには、私たちは誰もが自分の持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなければならないのでしょうか。

 私は今、名古屋にあります神学校で新約聖書を教えております。ちょうど先日行なわれた授業で、私はこの質問を神学生たちにしました。「永遠のいのちを得るために全財産をすてなければなりませんか」と私が尋ねますと、ある学生が答えます。「いいえ、捨てなくもいいです。」 どうして、そう思うかと尋ねますと、聖書の解釈の授業でそうならったと言うのです。それで、授業でならった解釈を私に話します。簡単に言いますと、神を第一にするということを気付かせようとなさって、この場合はそう言われたのだと説明したのです。それで、私はその答えを聴きながら、もう一度尋ねました。主イエスの言葉を直接的に理解するのではなくて、そこで語られている意味を汲みとればいいということですか、と尋ねますと、その神学生はそうだと答えました。
 私は、意地悪な教師ですから、そこで、さらに神学生に尋ねます。「では、主イエスがこの金持ちの青年に永遠のいのちを得るために、全財産をすてなさいと神を一番にすることを気付かせるために言われただけで本当はそうしなくてもいいことを尋ねられたのですか」と。そう言われてしまうと考え込まざるを得ません。これは、確かに意地悪な質問なのですけれども、この物語を読む多くの人はここで立ち止まって考えざるを得ないのではないかと思うのです。

 この金持ちの青年の出来事は、他にマルコの福音書にも、ルカの福音書にも出て来ます。色々な福音書に記されているのは、一つにはみんながその物語を愛したからという理由が考えられますけれども、この物語に関して言えばそうではなさそうです。何故かと言うと、永遠のいのちを求めて主イエスのところに来たけれども、結局は主イエスの弟子になることができなくて、去って行った人の話が書かれているからです。主イエスを信じたいと願っているのに、信じることができなかったという出来事は、教会にとっても悲しい出来事です。残念なことです。けれども、この出来事がそれぞれの福音書に記されているのは、この物語というのは非常に大事な信仰の部分を言い表しているので、厳しい話であるのは違いないけれども、福音書に入れざるを得なかったということでしょう。
 実は、この聖書の個所というのは聖書解釈の歴史でいうと、みなどう解釈するか苦しんだ歴史があります。あまりにも厳しいことを主イエスが語っておられるからです。ですから、大事な意味だけを汲み取ればいいのであって、本当には捧げなくてもいいと教会で説教されると誰もが安心することができるのです。ですから、全部捧げなさいというこの話は、それが必要な人にはそう言われたけれども、すべての人にではないと解釈されることもあるのです。

 私は神学校の講義の中で、その神学生に尋ねました。あなたは、捧げなさいと言われたらどうするのかと。すると、私には大した財産はありませんけれども、そうしますと答えました。私はそう答えた神学生の顔を見ながら、とてもうれしく思いました。そして、彼に言ったのです。問題は、その質問をあなたの教会の人に言うことができるかだねと。

 最初に言いましたけれども、「天の御国はこのような者たちの国なのです」という主イエスの言葉は、「何も持たない者に与えられるのが天の御国です」ということです。天の御国さえいただければ、それ以外には何もいらないのです。お金も、土地も、家も、信頼も、名誉も、すべての物を失ったとしても、私には神の国があるから大丈夫ですと言えるものが、私たちに与えられる永遠のいのちです。

 家も、お金も、車も、すべての持ち物だけではない、ありとあらゆるものを失ったとしても、わたしはこの信仰さえあれば生きていくことができると、言えるものを、神は私たちに与えてくださるのです。これがここでは永遠のいのちと言われていたり、神の国、天の御国と言われているものです。
 けれども、この金持ちの青年はそうは考えませんでした。お金も、土地も、名誉も、信頼も、すべてのものを手にしながら、さらに天の御国も持つことができれば幸せだと考えたのです。だから、結局のところどうなったかというと二十二節です。「ところが、青年はこの言葉を聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」

 間もなく、教会総会がおこなれます。そのために準備が進められています。特に今年は役員の改選があります。特に、今年は新しい執事を選ばれるようにと準備を進めています。私が何かということを考えるときに、いつも思い起こす言葉があります。それは、ナチス・ドイツに対して抵抗運動し続けたドイツの牧師であったディートリッヒ・ボンヘッファーの言葉です。ボンヘッファーはこう言いました。「教会は他者のために存在する時にはじめて教会である」。
 この言葉は、私はいつの時代であっても、教会が問い続けなければならない言葉だと思っています。教会は、自分たちのためにあるのではないのです。私たちが、どうしたら居心地のよい組織を作って、良い交わりを保って、気持ちよく伝道していくことができるかと考えるところではないのです。
 教会は、ここに集っておられる一人一人が、この共同体を形成しています。ですから、みなさんの一人一人の生活が、そのまま教会の歩みということです。その、一人一人の歩みの中で、覚えて頂きたいのは、そこで自分のために歩んでいるのではないということです。自分を失うような生活であるかもしれないのです。損をしてばかりいるように感じるような歩みに思えたとしても、そのような歩みの中で、主の教会は建て上げられていくのだということなのです。
 私たちが生活している社会の歩みはそうではありません。ここに出て来る金持ちの青年のように、より多くの物を手に入れたい、自分のものにしたいとあがくように人々は生きています。けれども、私たちもそこで同じように生きるのではないのです。そうではなくて、まるで生まれたばかりの赤子のような歩みであったとしても、何も手にいれるような歩みではなかったとしても、私たちはそこでただ私たちを受け入れてくださる主にすべてをゆだねて生活をつくりあげていく。それでいいのです。なぜなら、そこに神の支配なさる御国が築き上げられて行くからです。
 なぜ、そんなことができるのかというと、私のような何も持たないような赤子にすぎない私たちに、神は、天にあるありとあらゆる祝福を備えていてくださるからです。

 私の父もまた、私と同じように牧師をしておりました。今はもう定年を迎えていますけれども、それでも今三つの教会で定期的に説教をしております。今からもう何年も前のことですけれども、この父が自分が三十年にわたって奉仕した教会を去るために引越しの準備をしておりました。その時に私も手伝いに言ったのですけれども、色々なものをゴミとして捨てなければなりません。特に多くの書物をすべて持って行くわけにはいきませんので、かなりの本を処分しました。その時に、父がぽつりとつぶやいたのです。「いらないものばかり買ってきたんだなぁ」と。悲しい気持ちに襲われたのだろうと思います。色々な思い出の詰まっているものを処分しなければならない。それを捨てると言うことは身を切るような思いがする。良く分かります。けれども、その父の言葉を聞きながら、私はその数々の書物が父の説教を生み出してきたことは変わりない事実だと思ったのです。本などすべて失ったっていいのです。けれども、それを通して何人もの人が天に御国の喜びをしるようになった。これはかけがえない喜びだということを改めて考えさせられたことを今でも忘れることができません。

 この金持ちの青年に語りかけられた主の言葉はこうです。二十一節。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで私について来なさい。」
 「もし完全になりたいなら」と主イエスは言われました。この言葉は、福音書の中に二度しか出て来ない珍しい言葉です。パウロも使っていますけれども、福音書の中ではここで、もう一度は山上の説教の五章の最後、四十八節で語られているだけです。そこにはこう記されていました。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」
 もういつ聞いた説教であったかも忘れてしまった方がほとんどあるかもしれませんけれども、ここにはあの有名な「汝の敵を愛しなさい」という言葉が語られているところです。敵をも愛することによって、あなたは完全な者とされるのだと主イエスはすでに語られました。天の父の完全さとは何か。それは「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」とその前に記されている通りです。
 この神の完全な御業は何かというと、神の慈しみです。どんな人にも惜しむことなく与えられる神の恵みです。そして、主イエスはここで、あなたも慈しみに生きなさい、そおうすれば、あなたも完全に生きることができるのだからと招いてくださったのです。そして、そればかりではない。それは、天に宝を積むことなのだと。無駄なことをしているわけでは決してないのだ。そのような慈しみに生きることこそが、神の前では大きな喜びなのだと主イエスは招いてくださったのです。

 ですから、この聖書の個所は一方からすれば大変厳しい言葉のように響くかもしれませんけれども、他方からすると、大きな神の招きの言葉であると言うこともできるのです。自分のものとして蓄えることはできないかもしれない、損ばかりしているように思うかもしれない、けれども、あなたは神のいのちに生きているのだから、永遠のいのちにすでに生かされているのだから、あなたも慈しみに生きようと主はここで招いていてくださるのです。そして、ここで主イエスが子どもたちの上に手を置いて祈られたように、私たちに手を置き、祈ってくださるのです。
 どうか、あなたが、すべての失ってでも、天の御国に生きることができる方が幸いだということを見出すことができますようにと。

 お祈りをいたします。

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