・説教 マタイの福音書18章16-30節 「すべてを捨てて?」
2012.1.29
鴨下 直樹
今私たちは共に御言葉を聞きました。聞きながら、「あれ?」と思った方もあるのではないかと思います。先週と同じ聖書の個所なのです。もちろん、まったく同じということではありませんけれども、先週聞いた、金持ちの青年の物語です。
本来であればこの金持ちの青年の物語は先週は話しませんでしたけれども二十三節以下の部分も一緒に聞かないと主イエスがお語りになった意味ははっきりして来ないと思います。ですから、実は、私は先週の説教の時に大きな冒険を致したのです。私はどこかで、この日曜日に誰も来なくなってしまうのではないかと心配致しました。自分の財産を捨てるなどと言うことは自分にはできないから、やはり私もこの青年と同じように、主イエスの元を去らなければならないと考えるのではないかと思ったからです。
けれども、このように、今朝みんなそろって主の御前で御言葉をつづけて聞くことができることは本当に幸いなことです。
先週、私はあのボンヘッファーの言葉を紹介しました。「教会は他者のために存在する時、はじめて教会となる」と。そして、私たちは自分のために生きるのではなくて、他の人のために生きるようにと主イエスから招かれているのだと話しました。それは、どういうことかと言うと、私たちも、自分の持っているもの、与えられているものを捨てて、主イエスについて行くのだということです。
けれども、どうしてもそこで立ち止まって考えなければならないのは、私たちにはそのようにすることが良いと分かっていても、それを行なうことができるかということです。そのように聞くことはできたとしても、その言い分を理解したとしても、それを行なうことができるかどうかは別の問題です。
そして、実際に主イエスの話を聞いた金持ちの青年は主イエスの弟子になることができず去っていかなければならなかったのです。
さて、けれども、主イエスはそのでこの問題を放り出したりはなさいませんでした。それが、その後の物語です。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」二十三、二十四節です。
私たちの教会には毎月一度パッチワークの会を主催しております。ずいぶん多くの地域の方々が集ってきております。私はそこでいつも短く聖書の話をするだけ、作品を作ることはいたしません。それこそ、針の穴に糸を通すだけで、もうイライラしてしまいそうですが、本当にみなさん見事な作品を作っておられます。
普通の糸を針の穴に通すことも、私にして言わせれば大変手間のかかることです。けれども、主イエスはそれを「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」と言われました。
あまりにも途方もない話ですので、こんな出来そうもないことを主イエスがおっしゃるだろうかと昔から多くの聖書学者たちの頭を悩ませてきました。それで、よく解説されてきたのが、エルサレムのお城には実際に「針の穴」と呼ばれる小さな出入り口があって、夜間門が閉められてしまったあとはその小さな門から出入りした。人間も小さくならなければ入れないような穴ですが、ラクダを通すためには荷物をすべて降ろして、足をたたんでそれはそれは大変な努力をして入らなればならなかったのだという説明がされることがあります。そのように説明する絵本がでているほどです。そのようにしてへりくだらなければならないのだと説明することがあるのです。それほど、難しいだと、主イエスはこの話を通してお語りになられたというわけです。
その主イエスの話を聞いた主イエスの弟子たちは何を言ったかというと。「それでは、誰が救われることができるのでしょう」と驚いて主イエスに尋ねます。弟子たちはそんなことは誰にもできないと思ったのです。人間にはできそうもないことだと答えたのです。少し頑張れば何とかなるというようなことではないのです。ラクダがすべての荷物をほどいて、針の穴と呼ばれるほどの小さな入口をなんとかがんばれば入れますなどというようなことではないのです。神の前に謙遜になればできるのでしょうか。自分の財産をすべてなげうってまでしてでも、主イエスについて行くなどと言うことは人間の考えや努力で何とかなる問題ではないのです。
続く二十六節にこうあります。
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
ここで、主イエスはできないと答えた弟子たちの顔を「じっと見た」のです。じっと見たということは、そこで弟子たちの顔を見ながら、そこに主イエスの憐れみの心があるということでしょう。そんなこと、ラクダが針の穴を通るほど難しいと言われているようなこと、できっこないじゃないかと言う、弟子の顔を主イエスはじっと見つめてくださるのです。そして、そこで「それは人にはできないことだ。けれども、神にはおできになるのだ」と言われたのです。この言葉を聞くまでは、私たちの本当の慰めはないのです。
すでに信仰に生きておられる方々は良くお分かりになるだろうと思います。自分の力ですることのできることが、どれほど小さいかということを。いつも、信仰入門クラスを希望するかたにはかなりの時間をとって、そのための学びをいたします。一度に一時間という時間をかけて25回くらい学ぶでしょうか。毎週来ても半年かかります。なぜこんなに丁寧な学びをするのかと思う方もあると思いますけれども、私は時間をかけすぎたということはないと思っています。その間に、本当に一人一人の方々が主イエスと出会っていくことが良く分かります。そして、学んでいくなかで、それは自分にはできないけれども、主がしてくださる。神がしてくださると告白できるようにされていくのです。それは、本当に牧師をさせていただきながら味わうもっとも大きな喜びです。
そのようにして、神のしてくださる救いの御業に期待をしつつ、信仰に生きるものとされていくのです。
ところが、この聖書の個所はここから少しはなしがややこしくなります。主イエスの弟子の代表であったペテロがこう尋ねるのです。
そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちには何がいただけるのでしょうか。」二十七節です。
主イエスは人間にできることではないのだと、じっと顔をご覧になりながら語りかけてくださったのです。しかし、それを今目の前で聞いていたはずのペテロは、「いえ、そんなことはありません。わたしたちはちゃんとやったのです」と答えたのです。もちろん、このペテロの言葉は大きな間違いです。主イエスは語られていることの意味をまるで理解していません。
けれども、私はこの説教のために準備をしながら、何度も何度もこのペテロと同じ言葉を自分も言うのではないかという気がしてならなかったのです。いや、私だけではない、何人もの人々がそう言いたくなるのではないかと思ったのです。といいますのは、私たちは神様が私たちにしてくださったとあまり考えていないからです。どこかで、これは私がしたことだと言いたくなってしまう心があることに気付かされるのです。
ペテロは弟子になりそこなった人間ではありませんでした。漁師であったのに、網もすてて、結婚もしていたのに、家族も残して主イエスにつき従ったのです。そうしている間に、ああ、私はあの金持ちの青年のようでないことに感謝しますと思わず言いたくなるような思いが湧き上がってきたのだろうと思うのです。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちには何がいただけるのでしょうか。」
ペテロはそう主イエスに尋ねます。考えられないことです。話を聞いていなかったのかと叱られても仕方がないところです。
ところが、ここで主イエスはそう言ったペテロをお叱りになりませんでした。そればかりか、こう言われました。二十八節です。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも、十二部族の座に着いて、イスラエルの十二部族をさばくのです」。
主はわたしについて来たものは、やがてイスラエルの十二部族をさばくようになると言われました。こう読むと、何か立派な地位をそこで得るのだということですけれども、なにもそこで偉そうになっているということではありません。神の民となって人々に仕えるようになるということです。しかもここには「世が改まって」とあります。これは「再生」という言葉です。「再び生まれる」という意味です。
日本がこれからどう再生するかということが、今のこの国のテーマとなっていますけれども、この国がどう再生されるかは、実のところ、神の国がどう形作られるかがもっとも大きな課題です。神の願っている国へと新しくされるのでなければ、本当は何の意味もありません。そして、主イエスは主イエスが本当にこの地を支配なさるということが、この世界が再生される時だと言われるのです。そして、そのために、神の民とされた者たちがそこで仕えるのだと言われたのです。そして、まさに、そのために「永遠のいのちを受け継ぐのだと」。
そして、最後にこう言われました。「ただ、先のものがあとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
先日、私たちの間に子どもが無事に産まれました。同じ時期に天白教会の森下先生のところにも無事に子どもが生まれました。もともと、森下先生のところの方が予定日は二週間ほど早かったのですけれども、妻の愛が、帝王切開で産むことになり、森下家では少し予定日よりも遅く生まれたこともあって、私たちの子どものほうが先に生まれました。
私たちの子どもが生まれた翌日、教役者会議がありましてお会いしますと、「あとの者が先になり、先のものが後になりますね」などと言われました。
よくそういう言い方をすると思います。もっともその場合は、順番が逆になってしまいましたねというような意味で使うのだと思います。けれども、そのように日常の会話でこの言葉を使っていると、この言葉の本当の意味が分からなくなってしまわないかと思うことがあります。
ここで、主イエスがこう言われたのはどういう意味でしょうか。もちろん順番が逆になると言うことを言っているのに違いないのですけれども、先の者とは誰で、誰が後の者になったのかということが、それだけでは良く分かりません。
ここで主イエスが言っておられる先の者とは誰かというと、この世で多くの富を持っている人のことです。この世界で私はすべてのものを持っているから幸せだと思っているかもしれない。けれども、主イエスが再生させてくださる、その新しい神の国には貧しい者が招かれるのだと言っておられるのです。この世界では報われていないと思われているような人々です。神のためにあらゆるものを犠牲にしながら、他者のために生きた人です。いや、本当は神のために生きた人です。その人こそが、この神の国に招かれているのだと言われたのです。
それはそうです。それは、神がそのようにされたのですから。神がそのように生かしてくださったのです。神が私たちを救い、私たちにこれまでの生き方ではない、まさに新しい生き方を与えられたのです。これこそが永遠のいのちです。そして、またそのことを覚えるとともに、この言葉はこの後続く二十章の「ぶどう園で働く労務者のたとえ」の導入となってもいるのです。
もう、私は弟子になっているから大丈夫だとか、私はこれほどまでに犠牲を払って生きて来たのだからと考えてしまう私たちに、主イエスはさらにここからお語りになろうとしておられるのです。なぜか。私たちは本当に弱いからです。
けれども、私たちがこのところで、本当にしっかりと覚えておかなければならないのは、「それは人にはできないが、神にはどんなことでもできる」と言われる主の言葉です。
これは2009年の年間聖句であった言葉です。そのときはルカの福音書の言葉でしたけれども、同じ御言葉です。いつも、心にとめていなければならない言葉です。私たちは自分で力では何もなし得ないのです。けれども、神が私たちを支えてくださいます。
実はこの言葉は、私が芥見教会に来てから、最初の元旦に語った言葉です。また、この言葉は総会でも語りましたし、一年間この言葉を覚えてきました。主がこの芥見教会をア難しくしてくださるから期待しようではないかと語ったのです。まだ覚えておられる方も多いと思います。それほど昔のことではありません。あの時からちょうど三年を経て、私たちはこの地にあってどのような教会として立てられているのか、考えていますけれども、その中心は神に期待をする心であることを私たちは忘れてはなりません。
主は間違いの多い私たちの顔をじっとご覧になりながら、いつも、こう語りかけてくださっているのです。「それは、人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもきるのです」と。
お祈りをいたします。