2012 年 2 月 5 日

・説教 マタイの福音書20章1-16節 「気前のよい主人によって」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:04

2012.2.5

鴨下 直樹

昨日、教会で毎月第一の土曜日に行なわれております、ぶどうの木という俳句の会がありました。私はこれに出席することをとても楽しみにしています。特に、昨日の句会はとても心動かされれる句がいくつもありました。特に目立ったのは赤ちゃんのことを詠んだ句が多かったことです。そして、同時に家族を亡くした悲しみを読んだ句がその隣にならんでいます。いつも句会の時は一枚の清記用紙に七句ほど記された紙が回ってきます。その中から自分が良いと思った句を手控えに書き写しながら句を選んでいくのです。二月ということもあって、節分のことを読むもの、あるいは大雪のこと、家族のこと、実に色々な日常の生活の中から見たものを切り取っていきます。ですから、当然色々な句が並ぶのです。

けれども、赤ちゃんの誕生を詠んだ句の隣に、家族を亡くした悲しみの句があることを見て、あらためて、ここに来ている人たちの様々な生活のことを考えさせられます。みなさんそれぞれに様々な生活があります。そういう生活の中の言葉を聴きながら、私は牧師として祈らざるを得ないことを覚えさせられると当時に、この人たちの心に、今日、もっとも相応しい神の言葉が響くだろうか、神の言葉がその心に届くだろうか、そう考えさせられずにはいられないのです。

マタイの福音書の御言葉を聴き続けて三年目になりました。そして、今朝から第二十章に入ります。様々な主の言葉に耳を傾けてきました。その一つ一つの言葉が、みなさん一人一人の生活を築き上げる土台になっていると、そう信じます。そして、今日の御言葉もまた、私たちにとって、本当に聞き届けるべき大事な言葉であると思っています。
これは、ぶどう園の労務者のたとえ話と呼ばれているたとえです。話自体はそれほど複雑ではありません。一度聞けばその内容は良く分かります。ぶどう園の主人が収穫の季節になったために、労務者を雇ってぶどうの収穫をさせるという話です。
けれども読んでいきますと、首をかしげたくなってくることが書かれています。朝早くから雇われた人は、一日の日当を一デナリと約束して働きます。おそらくこれは朝の六時ごろからだろうと考えられます。ところが、この主人は朝の九時にも出かけて行って新しい人を雇っていきます。そして十二時にも、三時にも五時にも出かけて行っては働き手を集めて来たのです。それだけ沢山の収穫があったということです。
そこまでならいいのですが、賃金を払う時になって、どうもわざわざ少ししか働いていない人から賃金を払いだしたのです。一時間働いた者に一デナリ。大奮発です。一時間で一デナリ貰えるのであれば、十二時間ずっと働き通しだった人が期待をするのは当然のことでしょう。ところがこの主人は、すべての雇い人に一デナリを支払ったのです。当然、長い時間働いた人から不満の声があがります。

もう一度、ここでなぜこの話を主イエスがなさったのかということを覚える必要があると思います。これは、前回のペテロの語った言葉「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」と主イエスに言います。これは、「神にはできないことはないのだ」と言われた主イエスの言葉を受けてのことです。つまり、神にできないなどということはない、私たちはやったのだと言ったのです。私たちはこんなに色々のことをしたではありませんか、私たちの報酬は何でしょうかと主イエスに尋ねたのです。

それで、主イエスはこのたとえ話をなさいました。それはペテロたちでした。自分たちは朝の一番から働いているから、当然沢山のものを貰うことができるはずですと考えていたということです。このたとえ話を聴くと、おそらく誰もが同じように考えるのではないかと思うのです。
短い時間労働した者と、長時間、この場合は朝の六時から夜の六時までですから十二時間働いた者との報酬が同じということは割に合わないからです。ですから、朝早くから来た労務者はこう言います。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』と十二節にあります。 最もなことです。何も間違ったことは言っていないのです。馬鹿にするなと言いたいのです。働き手の視点でみればそうなるのです。

けれども、この物語は色々な視点でみることができます。ここで注意してみたいのは、仕事を持つことができなかった人たちです。三節に、彼らは「何もしないでいた。」とあります。六節には「仕事もしないで」とあります。何もしない、仕事もしないということはどういうことかを考えてみなければなりません。それは、人にとって相応しい状態ではありません。何もすることがない、働くことができない、それは生きることができないということだからです。
そこで、このような労務者を雇い入れた雇い人に視点を移してみますと、これもまた考えてみればおかしなことに気付きます。それほどまで働き手が必要であったなら、一日に何度も出かけないで、最初から大勢雇えばよいではないかということになるからです。どのくらい雇えばいいかもわからないで、仕事の進み具合をみながら少しづつ人を足していったのかというと、そうではありません。この雇い人は、わざわざ何もしていない人を探して歩いているのです。だから、日に何度も何度も何もしていない人を探し歩いているのです。

主イエスのたとえ話は、このことがとても大事なのです。つまり、この雇い主主人は、仕事を与えるということは贈り物なのだということに気づかせようとしているのです。仕事があるというのは当たり前のことではないのです。自分にするべきことがあるということ、自分の生活の場所を見出されるということは、本当に大きな贈り物なのです。
けれども、最初から働いている者は、自分に与えられた働き仕事は主人からの贈り物であるということにはなかなか気付きません。自分がどれほど頑張って働いたか、自分がどれほど正当に評価されるかということに心がしばられてしまっているからです。
だから大事なことに気付かないで、「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」という言葉を言うことができるのです。

さて、それに対して主人がなんと答えたかですが、これがまた聖書は面白い言葉が使われています。十三節をお読みします。

しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『(友よ。)私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。

ここに「友よ」という言葉があります。この言葉はマタイの福音書では三度しか使われていない言葉で、いずれも独特の意味合いをもっています。この後学びます二十二章の王の婚礼に招ねかれた人のたとえの中で王が言います。十二節です。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいってきたのですか。』という言葉があります。この「あなた」と訳されている言葉に新改訳聖書には注がありまして、「原文に『友よ』という呼びかけの語がある」と記されています。もう一つは、二十六章の五十節です。ゲツセマネの園で主イエスが祈っていた時に、弟子のユダが主イエスを裏切り、主イエスを捕らえるための兵士たちを連れて来ます。そのユダが挨拶の口づけをしたときに、主イエスが言われた言葉が「友よ。何のために来たのですか。」という言葉です。
ですから、このマタイの福音書では「友よ」と主イエスが語りかける時というのは、親愛の言葉として用いているのではなくて、期待を裏切っているものに対してかけられている言葉であるということが分かります。裏切るものに対して用いられているのがこの友よという言葉なのです。
そして、ここで語られた最後の言葉である十五節で、「自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』と言っています。
この言葉もまた特徴的な言葉です。新改訳聖書にはこの十五節に二つの注があります。一つ目は「気前がいい」のところに、直訳すると「良い」という意味だとあります。そして、「ねたましく」のところには「悪い」とあるのです。これは直訳しますと「わたしが立派なので、あなたの目が悪いのか。」とでも訳すことができる言葉なのです。目が悪いというのは、視力が悪いという意味もありますけれども、目つきが悪いということです。邪悪な目をしているということです。
自分は正当的に報われたいという思いが強くなると、目つきが悪くなってくるというのです。そして、本当に見るべきものが見えなくなるのです。そして、その人の期待を裏切ってしまうのです。

これは、私たちは誰もが良く分かることだと思います。自分が正しく評価されていない。自分はこれほど働いているのに、自分をちゃんと見ていてくれないと思う。そうすると、自分の言い分ばかりがどんどんと募っていって、相手の状況などまったく見ることができなくなってしまいます。そしてどんどんと恨みが募るのです。そうして、もうこの人なんてどうなってもいいと気持ちになって、この人との関係を壊してしまう、その人を裏切ることになるのです。もちろん、自分が裏切ったなどとは思わないのです。相手が悪いのだと考えるのです。
それが、ここで朝から働いている労務者に心の中で起こった出来事なのです。

この主イエスのたとえ話というのは、ほとんど間違いなく、この朝から働いている人たちに私たちは心を寄せてこの物語を読むのです。なぜかというと、私たちも同じ経験があるからです。不当だ、ちゃんと評価されていないことは問題だというところに、私たちの心は共感しやすいのです。それは、言い換えれば、それだけ私たちは日常の生活の中で苦しんでいるということの表れなのでしょう。正しく理解されたいのだと考えているのです。まして、主イエスであれば、そういう私たちの気持ちはおわかりいただけるはずではないかと期待しているものですから、こういう物語を読みますと、どうしても納得のいかない思いが先にでてきてしまうのです。

今日の聖書の「労務者」と私が初めからずっと言っている言葉は、新約聖書の中に何度か出てくる言葉ですけれども、「働く者」、あるいは「働き手」として出てきます。主イエスの働きをする者、伝道者を指す言葉として記されているのです。
ここで主イエスが話しておられるのは弟子たちです。特に、自分はこれほど働いたのだから何か貰う頃ができるはずだと、自分のした働きに心が支配されてしまいそうになりつつある弟子たちに語ろうとしておられます。つまり、主の働き手とされている人です。働き手がそこで覚えなければならないのは、自分がそのような働きの場に置かれていることは、主人からの賜物なのだということです。そこで働くことができるということこそが、喜びそのものなのであって、何もすることのなかったような者をその働きのために招いてくださった主人の大きさを忘れることはできないということです。
この主イエスのたとえ話は、このことを弟子たちに気付かせようとしておられます。
このように、あとのものが先になり、先の者があとになるものです。」と主イエスがこの話を結ばれた時に、私たちは無力で、自分の力では針の穴の中を入ることができないものであることを承知で、この働きに、神の国に招いてくださった気前の良い主人のことを覚えていなければなりません。
私たちは自分では、神の国に生きることはできない者です。神の働きを十分に働くことなどできないのに、神が私たちをこの御国に招いてくださったのです。そこでも色々なことがあります。色々なことがあまりにもありすぎるために、いつの間にか、もっと私は神様に喜ばれることをしたはずだという思いが出てくる。それなのに、神が私に与えてくれているものはあまりにも小さいではないかと考えてしまうのです。そうやって考えているうちに、自分はもっと前からやっていた、自分はあの人よりも先に教会に来ていた。あの人よりも自分のほうが、自分が、自分がとどんどんと自分に凝り固まっていってしまう。そこで、この言葉をもう一度聞かなければならないのです。
私たちの神、主は、気前のよい方であるのだと。十分に備えを与えてくださる方なのだと。自分でいつのまにか、こうしていただけるだろうなどという考えを押しはさむことによって、この方の本当の姿を見失うことがないようにと、ここで主は気付かせておられるのです。

「わたしは気前がよいのだ。あなたの目が悪くなっているのではないか。」と主は語りかけておられるのです。
最後まで仕事にありつけなかった人はどれほど不安だったことでしょう。自分はダメだ、家に帰れないと考えていたかもしれない。今日も仕事がない。家族が支えられない。そういう自分の周りへの心配とともに、自分自身が情けなくなる思いで自分をみつめ続けるしかなかったことでしょう。
それが最後に見出された働き手の思いです。けれども、主はそのような者を見ていてくださって、その者にも豊かな報酬を約束してくださるのです。そしてこれこそが、私たちが気付いていなければならない私たちの本来の姿です。

わたしのような者を見出してくださって、主の働きに加えて下さったのです。そればかりか、十分すぎり報酬を与えることによって、私たちのそれまで抱えていた不安をすべて払いのけてくださるお方なのです。
このお方が、私たちを救ってくださったのです。永遠のいのちという報酬を携えて。生きがいを得るという約束を携えて、そして、豊かな信頼関係という神との交わりに生きることができるという平安をもたらしてくださったのです。
私たちは最後の五時に働きに加えられた者ということに気付くことによって、この主人の大きさを知ることができるのです。
お祈りをいたします。

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