・説教 マタイの福音書16章21-28節 「わたしについて来なさい」
召天者記念礼拝
2012.3.18
鴨下直樹
今日は召天者を覚える主の日です。そういうこともあって特別に今朝はこの礼拝に共に出ておられるという方もあります。そういう特別な礼拝ですから、特別にそのために聖書の個所を選んで説教をするということもできると思いますけれども、この朝は、いつもに引き続いてマタイの福音書から御言葉を聞きたいと思います。
マタイの福音書はこの十六章で大きな山場を迎えます。内容的に、もっとも大事だと言われることがここに書かれているのです。それが、先週お話ししました、この前の聖書の個所から続く、この朝私たちに与えられている聖書の個所です。そして、この個所はまさに召天者記念の礼拝に聞くにもっとも相応しい聖書の個所だと言っていいと私は思っています。
先ほど一緒にお聞きしました聖書は、本当ですと二十一節から聞くのではなくて、十三節から聞いた方が意味は良く分かると思います。といいますのは、この前のところには、ペテロの信仰の告白が記されているのです。これは、主イエスの弟子であったペテロが初めて、「あなたは生ける神の御子、キリストです」と告白した、記念すべき告白でした。誰もが、イエスという人物について何かしら感じていたとしても、あなたは神の御子、キリスト、救い主ですと告白することができたのは、これがはじめてのことだったからです。
それで、すこしこのキリストという言葉について説明する必要があるかもしれません。キリストという言葉は新約聖書の言葉、ギリシャ語です。旧約聖書ではメシヤという言葉が使われています。このメシヤということばは、例えばクリスマスの季節になりますと、ヘンデルのメサイアというコンサートがいたるところで行なわれますから、耳にしたこともあると思いますけれども、「救い主」を意味する言葉でした。もともとの意味は、「油注がれた人」という意味です。
この「油を注がれた人」というのは、旧約聖書の中では特別な意味を持っています。例えば、王に任命されるときにその頭に油が注がれます。または、預言者として神の御言葉を語る人にも、あるいは祭司として働く人にも油が注がれました。そして、このように油注がれた人は、イスラエルの人々が本当に神の心に生きることができるために自分の生涯を捧げて仕えたのです。ところが、このイスラエルの民が、神の御心に生きることができなかったために、イスラエルはさまざまな国の捕囚となります。他の国に支配されてしまうのです。それで、こうして、バビロン、アッシリア、ペルシャ、そしてギリシャ・ローマに支配され続けて行きます。
すると人々は、私たちにはもう一度メシヤが必要だと願うようになりますし、神はもう一度、新しい支配をもたらすメシヤをイスラエルに使わすという預言が与えられていましたから、人々はそのようなメシヤを待ち望んでいたのです。
そして、ペテロはイエスに対して、あなたは神の御子であって、私たちが待ち望んだメシヤ、つまりキリストですと告白したのです。ですから、ここでイスラエルの人々は、自分たちが本当に待ち望んでいたのはこのお方であったということが、明らかになったのでした。
ところが、そこのことが明らかになった瞬間、主イエスはこう言われました。それが今朝の二十一節です。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」と記されているのです。
「そうだ、わたしは確かにメシヤだけれども、わたしはこれから苦しみを受けて殺され、そして、復活する」とお語りなられます。けれども、これを聞いた、先ほど告白したばかりのペテロは全く理解できません。それで、続く二十二節にこうあります。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずがありません。」
「そんな悲しいことが起こるはずはないのだから、そんなことを言うな」と、ペテロは主イエスを叱ったのです。ここで「神の御恵みがありますように」と新改訳聖書には記されていますけれども、新共同訳聖書をお持ちの方は「主よ、とんでもないことです」と訳されていることに気づかれたと思います。これは、もともとの原文では新改訳のように「神の御恵みがありますように」という言葉が書かれているのです。しかし、その言葉の意味は「とんでもない」という意味で当時使われていたということなのです。こういう言い方は、ドイツ語にも英語にも見られます。
これは、あまりにもひどいことを言っているので神の見守りがなければどうしようもないことです、という意味がその中に込められているのです。なぜ、ペテロはここでそんなことを言ったのかというと、メシヤというのはこの時、イスラエルを支配しているローマの支配を打ち破ってくれる力強いメシヤなのであって、これから苦しみにあって、殺されてしまうメシヤなどあってはならないと思ったからです。
これは、私たちにも想像できることだと思います。自分がどうしようもなく困り果てている時に、自分を助けてくれる者が力強い人、それこそヒーローのように颯爽と登場して、問題を解決してくれればいいのにという思いは誰でも分かることだと思うのです。ところが、主イエスは、わたしは苦しみを受けるために来たメシヤなのだと言われたのです。当時、そんなことを誰も思いつきもしなかったことです。待ち望んでいたメシヤが、苦しみを受けて殺されてしまうような弱いメシヤなど誰も望んでなどいないからです。
それで、主イエスはそのように言ったペテロにこう言われました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。このように二十三節に記されています。
これを、どのように考えたらいいのでしょうか。主イエスはここで、そのように行ったペテロに対して、「下がれ。サタン」と言われました。「サタン」というのは、悪魔のことです。その考えは悪魔から出たものだと言われたのです。
ペテロでなくても驚くところです。もし、自分にこんなことを言われたら、「人のことを悪魔呼ばわりするとは何事だ。」と腹を立てたくなるところであるかもしれません。もちろん、ペテロは悪意でこんなことを言ったのではなかったはずです。主イエスに対して悪魔の言葉をささやくつもりなど無かったに違いないのです。どちらかと言えば反対で、主イエスを慰めようと思って言ったはずです。苦しむなどということを言わないでください、そんな悲しいことを言わないでくださいと伝えたかっただけです。けれども、主イエスはペテロのそういう動機よりも、その考えがすでに神の心から大きく離れてしまっている、そして、それは私にとって邪魔者以外の何ものでもないのだと言われたのです。
なぜ、主イエスはここでこんなことを言われたのかというと、いのちとはそもそも何かということをここで教えようとされておられるのです。
わたしたちはいのちというのは、どのように考えているでしょうか。生活と言い換えていいかもしれません。私たちは自分のいのち、自分の生活が、大きな問題にぶつかることなく、それこそ悲しい思いをすることなく生きることができればいいと考えることが多いと思います。幸せに生活するというのは、大きな問題を味わうことなく、苦しい思いをすることなく、穏やかに生きることだと。
今日、私たちはすでに亡くなった人たちのことを思い起こしながら、この礼拝に集っています。そこで、まさに私たちが考えざるを得ないのは、いのちとは何かということです。
少し長い言葉ですけれども、この後主イエスが語られたことばをお読みいたします。
それからイエスは弟子たちに言われた。「だれもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいのでしょう」。二十四節から二十六節です。
わたしはいのちをどのように考えているのでしょう。「人の命は全世界よりも重い」などと言われます。いのちよりも重たいもの、尊いものははないということでしょう。主イエスはここで「人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と語っています。主イエスはここで問いかけているのです。あなたは、自分のいのちの重さを知っているのかと。全世界を手に入れたとしても、いのちを失えば何の意味もないのだと。そして、ここで問いかけているのは、あなたはそのように生きているかということです。自分のいのちの価値にふさわしく生きているかと問いかけておられるのです。
話をずっと続けて聞いていると、ここで「あれ?話が変わった?」という思いになるところです。主イエスは先ほどまで、自分は苦しみにあわなければならないメシヤなのだと言われたのです。それが、ここではいのちの大事さという話に変わっているように感じるのです。
けれども、主イエスはここで話しておられるのは、ペテロがそんなことを言わないでくださいと言ったことに対して、死んでしまえばそれで終わりではないかという考えに対して、「自分を捨てろ」、「十字架を負え」、そして「私に従え」と言われました。
わたしたちは、自分のいのちは自分のものだと考えています。自分のいのちは、自分の思うようにつかうべきだ、自分の願うように生きるべきだと考えています。この世界の人はだれもがそう考えているのです。けれども、そのように生きることは、自分の本当にいのちを価値を知ることになるのかと、ここで問いかけておられるのです。
あなたの命の価値を本当に知っているのはあなたなのか、自分自身なのか。そのことをここで主イエスが問いかけておられるのです。
自分のいのちをよりよく生きるために、一所懸命に商売に精を出す。それは素晴らしいことでしょう。けれども、もし、そうやって、この世界をすべて手に入れれることになれば、自分のいのちは十分生きたと言えるかと問いかけているのです。確かに、人の心に名前がいつまでも刻まれるのかもしれません。それこそが、永遠の命ではないかという考え方もあるでしょう。けれども、そのようにして多くのものを手にいれたとしても、死んでしまったら、その人は本当にそれで良かったといえるのでしょうか。
主イエスはここで自分を捨てろ、十字架を負え、私に従えと言われる。なぜか。あなたのことを創造された神が、あなたのことを一番よく知っておられるのだ、そのためには、自分を捨てて、神に身をゆだねて、自分の与えられている苦しみは担う、そのように生きるわたしのように、あなたもしてみたら分かるのだと言われたのです。
苦しみのないことがいい人生だというわけではないのです。自分の願いどおりに生きることができることの中に、常に満足があるわけでもないのです。悲しいことは相変わらずあるし、つらいことも、痛みを経験することもある、けれども、自分のいのちそのものを神に託すことができるという生き方の中に、本当の平安があることを、ほんとうの救いがあることを、わたしは示そうと主イエスは言われるのです。
昨日、ぶどうの木の句会が行なわれました。毎月第一の土曜日行なわれている俳句の会です。もう11月ということもあって当然のことですけれども、秋の季語の句が出てきます。特に昨日際立っていたと思うのは、やはり自分の老い、自分の晩年ということをうたった句が多かったように思います。
この句会を指導してくださっております辻恵美子さんは、ちょうど昨日退院されたということもあって句会には出ておられませんでしたけれども、いくつかの句を出されました。すべて病床からの句でした。その中にこういう句がありました。
長き夜がベッドの上に横たはる
秋の夜長、しかも病床で迎える夜というのはことさらに長く感じます。周りにも他の人が眠っている、そういう状況の中で気を落ち着けるということは難しいものです。翌日手術を迎えるとあっては尚更のことでしょう。「長き夜が」とここでわざと「が」を使うことによって擬人化していると、もう一人の同人の江崎先生が解説をされました。
闇の中で、安心して身を横たえることができるというのは、当り前のことではありません。少し前のことですけれども、「眠りの神学」という小さな書物を読みました。もう古いものです。これはジョン・ベイリーというイギリスの説教者の今から四十年前に出された説教集です。もともとは、「クリスチャンのディボーション」というタイトルの本でした。家庭で祈りの時に読むためのものです。その中に、眠りの神学という説教があるのです。
これは、詩篇百二十七篇の一節と二節からの説教です。そこにはこう記されています。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」
このベイリー牧師は、この詩篇が語っているのは、「彼らは夜寝ている間に、神が働いておられることを忘れているのだ」と書いています。そして、「私たちは寝るときに、自分のことを本気で神に任せなければならないのだ」と言うのです。
わたしたちにとって、寝るというのは、疲れている体を休ませるという意味しか考えていないかもしれません。けれども、戦争の時、それこそいつミサイルが飛んでくるか分からないという状況の中で、寝るということは信仰の行為でした。いや、今日でもそうです。自分の仕事をやめて、神の任せて寝るということも同じことです。すべてを自分で自分の思うとおりにすることはできません。どれほど不安な夜を迎えたとしても、夜が長く感じたとしても、神に身をゆだねることができるということは何という大きな安心が伴うことでしょう。
主イエスがここで言っている「自分を捨て」というのは、そういうことです。自分の存在そのものを、神に託すことができるのです。それが、神が与えてくださる救いの姿です。長き夜がベットの上に横たわっていたとしても、わたしたちはこの身を神に託すことができるのです。そして、自分の負うべき十字架を神と共に負いながら歩むことができるのです。ここに、わたしたちの本当の平安があるのです。
そして、この道を主イエスは自ら率先して引き受けることによって、あなたもそう生きることができると、その道をお示しくださったのです。
お祈りをいたします。