2012 年 3 月 25 日

・説教 マタイの福音書21章23-32節 「何の権威によってか?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:32

2012.3.25

鴨下 直樹

安野光雅という絵本作家がおります。絵本作家というよりも画家と言ったほうが正確ですが、実に興味深い本を沢山書いておられます。この人の書いた絵本に「おおきな ものの すきな おうさま」というものがあります。ここで絵本の読み聞かせをしたいくらいですけれども、そういうわけにもいきませんので、少し絵本の内容をお話ししたいと思います。
むかしあるところに、おおきなもののすきな王さまがおりました。この王さまは何でも大きなものが好きなのです。大きなベットで休み、大きなナイフとフォークで食事をいただくといった具合で、何でもおおきなものでないと気がすみません。王さまは大きな鳥小屋をつくりますが、鳥が小さいのでみんな逃げていってしまいます。お城で釣りをしても、大きな釣り竿に大きな針をつけます。ですが、そんな大きな魚はいないので、兵隊たちが海からくじらを捕まえてきて、王さまの垂らしている糸の針に、捕まえてきたくじらのくちをくわえさせるのです。そんなある日、大きな植木鉢を用意します。そこにチューリップの球根を一つ植えます。そして、大きなチューリップがなるのを心待ちにするのです。春になってようやくこの大きな植木鉢にチューリップが咲きます。大きな植木鉢の真ん中に一つ小さなかわいいチューリップが咲いたのです。
話はこれだけです。この安野光雅さんは絵本の最後にあとがきを書きます。普通の絵本にはあとがきなんてありません。そんなものを書いてしまったら意味がないからです。ところが、この安野さんはあとがきを書く。そして、なぜこの絵本を作ろうと思ったかというきっかけを書いているのです。大きなガスタンクを見ていた時のことです。これほど大きなコーヒーカップがあったらどうだろうと思った。そう言いながら、大きなものを次々と思い浮かべます。「では、かさのように大きなチューリップができるだろうか。エジプトの王はピラミッドという巨大な墓をつくらせたが、大きな花を咲かせることはできなかった。いのちを人間がつくることはできない。花一つ、虫一つが、かけがえのないものであることを思わねばならぬ。」そんなことを書いているのです。
王さまがどれほど権力を得たとしても、どれほど大きな物が好きであろうと、できることとできないことがあるというわけです。

なぜ、こんな話から説教を始めたのか不思議に思うかもしれません。今日の聖書の物語と何の関係があるのかと思うかもしれません。今日の聖書の物語は、エルサレムにお入りになられて主イエスがなさった宮清めの出来事、あるいはいちじくの木を枯らせてしまう出来事に続く物語です。イスラエルの民の代表とも言える祭司長、民の長老たちが主イエスのもとにきて質問をしたのです。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けられたのですか。」と二十三節に記されています。

さきほど「大きなものの好きな王さま」の話をしました。王さまは権威があれば何だって出来ると思っています。自分の支配が届く範囲では、自由に振舞って生きることができるのです。もちろん、普通の人にそんな生活が許されるはずもないのです。
主イエスはエルサレムの宮で、まるで自分にはすべての権威が許されているかのように自由に振舞われました。何故そんなことができるのかと問いたい思いがでることは当然のことだと思います。それほど、主イエスはエルサレムの宮でまるで王であるかのように自由に振舞われたのです。なぜなのでしょうか。

私たちは信仰の歩みをするためにどうしても必要なことは、問うということです。何故かということを考えることです。そのように問い続けることから答えを見出していく時にわかるという経験をします。これがとても大事なことです。このように問いながら初めのうちは自分がその答えに納得できるかというところから始まります。けれども、信仰の問いというのは、問い続けていくうちに聖書の論理にと言ってもいいし、神の論理にと言うこともできると思いますが、説得されるという経験をします。これがとても大切なことなのです。そういう意味では、ここで主イエスの質問を投げかけた祭司長、民の長老たちもとても大事なことをしているのです。理解するためには問うことから始めなければならないからです。

昔、渡辺善太という東京の銀座教会で長い間牧師をしてこられた方がおられました。今はもう亡くなっておられる方です。この方がある時、「わかってわからないキリスト教」という説教をしました。今も、このタイトルがそのまま説教集のタイトルとなっている書籍があるのです。その中でこんな話をしています。分かるということには三つの段階があるという話をしているのです。
教会に通ううちにだんだん説教が分かってくる。罪が赦されるというのはどういうことか分かってくる。十字架と復活ということが分かってくる。そうすると、牧師先生ももう洗礼をお受けになってもいいですよと言われて教会員になる。これが、わかったという段階。その次に「わかって、わからない」という段階があるのだと言うのです。それは、だんだんと教会生活をしていくと、色々な方の話を聞くようになる。証などと言って、色々な人たちがどのような信仰に生きているかの話を聞く。そうすると、自分は分かったはずなのに、何だかまだ分かっていない気がしてくるというのです。つまり、自分の信仰の生き方には、自分の生活が変わるだけの力がないということに気づいてくる。そして、このままではダメなのではないかと考える。しかも、だんだんと教会の色々なことが分かってくると、何だか教会も人間くさいところが色々あって、自分の気持ちの中に教会に行くのが嫌になるような気持ちが生まれてしまう。けれども、聖書には答えがあるはずだと思いながら聖書に聞くということをしていくうちに、イエスに従うということがどうも大事なことのような気がしてくる。そして、どうも自分にはこのイエスに従っていく、この方に賭けてみようという「賭ける気持ち」が無いことに気づくようになる。頭では分かっていたけれども、体では分かっていなかったのだということが分かるようになる。けれども、大事なのは三つ目の段階である「わかってわかる」という段階なのだと言うのです。つまり、聖書の生き方、キリストの言葉に説得されて、自分の考え方、生き方そのものが、変わるということを経験するようになるのだと言うわけです。

だいぶ簡単に説明しましたけれども、この「わかってわかる」ということが、信仰の問いのなかで大事なことだと言うわけです。自分の頭で考えようとしていたのに、聖書の考え方、キリストの考え方そのものに支配されるようになるということなのです。そのように信仰を正しく理解するためにも、どうしても問うということは大事なことなのです。そして、問いながら神の論理に、福音の論理に説得されるという経験をしていくのです。

今日の聖書の物語の中で主イエスに問いを発した人たち、祭司長、民の長老たちも主イエスの権威がどこから来たのかということを問いました。これは、実はとても大事な気づきです。ところが、この問いに対して主イエスはどのようにお答えになられたかと言うと、反対に質問を返されたのです。二十四、二十五節です。

「イエスは答えて、こう言われた。『わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。もし、あなたがた答えるなら、わたしも何の権威によって、こられのことをしているかを話しましょう。ヨハネのバプテスマは。どこから来たものですか。天からですか。それとも人からですか。』」

主イエスはここで、意地悪で問いに対して問いで答えられたのではないのです。まさに、この問いこそが主イエスの答えそのものだったからです。
ここで、主イエスに質問を投げかけた本人たちが、主イエスからの問いかけに、なんと答えるかそれが丁寧に書かれています。

すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。『もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。』

二十五節の後半から二十六節です。
心の中の動きまでが書き記されているのです。そこで何を考えたのかというと簡単なことです。人を恐れたのです。人を恐れて、そこで問うことを辞めてしまったのです。つまり、祭司長、民の長老たちというのは、結果として権威というものは何であろうと人が与えるものだと考えていたのです。本当かどうかということは実は大事ではなくて、大衆に支持されるということが大事だと考えたのです。そして、彼らはそれ以上問うことをやめてしまいます。

これは、私たちにも良く分かることです。「みんながしている」、「誰もが願っている」と言えばもう言い返すことができないのです。間違っているということが分かっていても、みんながしていれば、もうそれは正義だということになる。そういう過ちは、私たちの社会では例をあげなくてもいくらでも存在します。連日ニュースで報道される内容の多くがこれだと言ってもいいくらいです。
主イエスが、人がどう思っているかと考えれば、神殿で商売の台をひっくり返すなどということはできません。人の顔色など見ながらこの人には奇跡が必要で、この人には不要などということをなさったりはしませんでした。なぜなら、主イエスが畏れておられるのは、ただ神おひとりだからです。もう議論するまでもないのです。いちいち説明しなくても、もう分かることです。ですから、主イエスは自分の権威がどこから来るのかという問いについて、直接答えることをなさらなかったのです。

けれども、もちろん主イエスはそれでこの大事な問いをうやむやにはなさいませんでした。続く二十八節からのところで二つのたとえ話をなさいます。今日ははじめの一つだけを見てみたいと思います。
あるところにふたりの息子がいて、「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。」と言うのです。兄の方が「行きます。」と返事をしますが、結局行きませんでした。弟の方は「行きたくありません。」と答えますが、後から悪かったと思って父の願いどおりにしたというのです。それで問いかけます。「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたでしょう。」と。主イエスはここでもう一度問いかけることによって、大事なことに気づかせようとしておられます。
この主イエスからの問いは実はそれほど簡単な問いかけではありません。良く考えてください。「行く」と答えたのに行かなかった兄、「行きたくない」と言ったけれども行って働いた弟。この物語は「あとの者です。」と答えます。つまり、行きたくないと言ったけれども、結局は行った弟の方だと答えたのです。
しかしそうすると、単純に口で言うことは大事なのではない、結局のところ行動にうつすかどうかが重要なのだと考えてしまうとすれば、この主イエスからの問いかけに対して大きく間違うことになってしまうのです。単純に考えてしまうと、そういう間違えに陥ってしまいます。大事なことは結果だ、ということを主イエスは語っておられるのではないのです。

しかも、主イエスはこのたとえ話の最後にこう言っています。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」

三十一節です。
ここで主イエスが祭司長や民の長老たちと、取税人や遊女たちを例えて話しておられることは明らかです。しかしそうすると、祭司長や長老たちよりも取税人や遊女たちのほうが立派な愛の行為に生きたのか。そうではなかったと思います。そう考えなかった。自分たちの話をされているとは考えなかったのでしょう。
けれども彼らはこのたとえの説明を聞いているうちに、これは自分たちのことが語られているのだと気が付きます。それでだんだんと腹を立て始めるのです。それで、最後の四十六節を見ますと「イエスを捕らえようとした。」とあるのです。けれども、群衆を恐れてそれはできませんでした。そうすると、どうにかしなければと考えます。そして、このイエスを殺してしまおうと考えるようになっていったのです。

主イエスはなぜ、ここで行かないと言ったけれども、結局は父の願いどおりにぶどう園に行った弟を認めているのでしょうか。それは、「父の願ったことをした。」ということに尽きるのです。三十一節で主イエスはそのように問いかけています。「ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」と。自分の行なったこと、自分の気持ちが大事なのではなくて、父の願いだ大事だということを、主イエスはこのたとえで教えておられます。兄は行きますと言いながら、結局自分の気持ちを大事にして行きませんでした。祭司長の行ないと、取税人や遊女の行ないを問いかけているのではないのです。大事なことは、神が何を考えておられるか、その一点だけなのです。

人が自分の考えを支持してくれると考えた時に、誰もが自信を持って行動することができるのかもしれません。権力を得て、誰も自分に何も言えなくなった時、何でも思い通りにすることができると考えるのかもしれません。そしてそこに自由があると考える。あの最初にお話しした「おおきなものの すきな おうさま」のように、自分の思うがままにすることができると考える。しかし、チューリップの大きさまでは自分の思うとおりにすることはできません。どれほど権力を得たとしても、できることとできないことがあるのです。そんなことは当たり前のことです。だから、この絵本は、王さまのこの姿が滑稽に、あるいはかわいらしく見えます。けれども、それは実際にはひどく醜い姿でしかありません。
人の顔色を見ながら、人に合わせて生きているように見えたとしても、最近よく言われるような、空気を読んだ生き方ができたとしても、それは人を恐れて生きている姿でしかありません。そういう中で、自分を殺して我慢して生きていると、そこから醜い殺意が生まれてくるのです。そうして、主イエスは十字架にかけられていくのです。
そこに自由がないからです。しかし、主イエスは父なる神だけを見あげます。ただ、神だけを恐れます。だから、自由に生きることがおできになるのです。

この主イエスの自由な姿に人々は驚きました。どこから、それほどまで自由になれる権威を得ているのかと。神の御心に生きているからこそ、主イエスは自由に生きることができたのです。そして、このことこそ、私たちがしっかりと見つめていなければならないことです。父の御心に生きる。そのことが単に頭で分かるだけなく、分かって分かるようになるには、自分がそう生きてみなければなりません。主イエスのように、自分自身を神の御心に置いてみることです。そこに、理屈を超えた自由があることを知るようになるのです。なぜなら、すべての権威はただまことの神だけがもっておられるからです。
お祈りをいたします。

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