2012 年 4 月 1 日

・説教 マタイの福音書21章33-46節 「神の国の実を結ぶ国民に」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:54

2012.4.1

鴨下 直樹

今朝は、教会の暦で棕櫚の主日、あるいはパームサンデーと呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。この蝋燭も最後の一本になりました。今日は、主イエスがエルサレムに入城なさったことを覚える日です。そして、私たちもこの一週間の出来事を引き続き、聖書から聞き続けています。聖書にはこの受難週のうちに起こった一週間の出来事を大変丁寧に記しています。今朝でマタイの福音書二十一書が終わりますけれども、二十七章に至るまでまだまだこの週に起こった出来事を聞き続けるのです。ですから、来週は教会の暦では復活節になりますが、イースターの箇所ではなくて、マタイの二十二章の御言葉を聞くことになります。
それは、講解説教というスタイルで礼拝をする教会はどこでもそのように、ひたすらに順をおって主の御言葉を聞き続けることが大切だと考えるからです。なぜかと言いますと、そうすることによって、この福音書が私たちに語ろうとしていることが良く分かるからです。
今日の箇所もエルサレムに入られてからイスラエルの指導者たちとの論争の場面です。特に、先週この指導者の祭司長や民の長老たちが主イエスに問いかけた、「あなたは何の権威でこれらのことをしておられるのですか」という問いに対して主イエスが答えておられるところです。先週すでに聞きました通り、そこで主イエスは「ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。」と反対に問いかけられました。そして、その問いに答えられなかったイスラエルの指導者たちに「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われたのです。
けれどもその後で、主イエスは三つのたとえ話をなさいます。その三つともがこの権威についての問いに答えておられるわけです。すでにその一つ目は先週聞きました。そして、今朝のところでは「ぶどう園と農夫のたとえ」と言われたり、あるいは「悪いぶどう園の農夫のたとえ」などと言われる主イエスのたとえ話です。

たとえ話というのは、普通は話を分かりやすくするために用います。私も礼拝の説教の中でたびたびたとえ話を用いますけれども、時々妻などに叱られるのは、あなたのたとえ話は話が深まらないでかえって意味が狭まってしまうなどと言われます。ホントに説教を聞いておられる方には申し訳ないと思うのですけれども、そのようにたとえ話を使うというのは、実は簡単なことではありません。ちょうどぴったりくるものでないかぎり、話の筋から離れてしまうことがあるからです。
しかし、主イエスのたとえ話というのはそうではありません。実に深いところに引き込むのです。特にこのたとえ話などはその最たるものです。
話自体は難しくないのです。ぶどう園の主人が自分で全てのぶどう園の準備を整えます。準備万端整えてから、その土地を管理する農夫を雇って働かせるのです。収穫の時になって、主人はしもべに収穫を受け取りに行かせます。すると、農夫たちはこのしもべを殺してしまいます。何度もしもべを送りますが、次々に殺してしまうのです。そして、やがて自分の息子を送れば敬ってくれるだろうと考えるのですが、これもやはり殺してしまいます。そこでこの例えを聞いている人に問いかけます。「さて、ぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」と。

みなさんであれば何とお答えになるでしょうか。話はそれほど難しくないのです。イスラエルの宗教指導者は正解の答えを出します。四十一節です。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、その季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」。
この答えは正しい答えです。しかしよく考えてみると、この彼らがだした答えは実に恐ろしい事を答えているのです。そして、彼らは自分たちが何を言ったのかをだんだんはっきりと理解するのです。イスラエルの宗教指導者たちは、そんな「無慈悲な悪人は裁かれるべきだ。」と答えます。誰でもそうです。事柄を客観化して考えることができるうちは物事を冷静に考えられます。しかし、そこで言われているのが自分のことだとすると、そんなに簡単に「裁かれるべきだ。」「殺されるべきだ。」と、自分自身に答えられるのかということがここで問われているのです。

先週の説教で問いを持つということは大事ですという話を致しました。そして、問いながら自分の理屈ではなくて、聖書の理屈、福音の論理に説得されるのだということを話しました。けれども、この聖書の理屈、福音の論理というのはどのようにして気付くのか。そこが問題です。そのためには、自分の出した問いに対して、主イエスがどのように自分に問いかけているのかをしっかりと聴き取ることが大事です。つまりここでいえば「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」という問いに、「そんな無慈悲な悪人は殺されるべきだ。」、「ぶどう園は他の収穫を納める農夫たちに貸すにちがいない。」と答えるのだとすると、それがどういう意味なのかということを、よく考えなければなりません。

主イエスは四十三節でこのたとえ話をこのように言われました。

だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。

この時に話を聞いていたイスラエルの宗教指導者たちは、初めてこのたとえ話が自分たちを指して言われているということに気づきます。今、自分の口で「そんな人は殺されるべきだ。」と語ったのです。しかし、主イエスによってそれはあなたのことだと気づかされる。主イエスのお話なるたとえ話というのはそういうものなのです。ただ難しい話を分かりやすくするというのではなくて、問われる人の心の中を深く探るたとえ話なのです。

なぜ、この話がイスラエルの指導者たちのことを指しているのか、私たちには少し分かりにくいかもしれません。というのは、主イエスがこの説明の中で話された、主人が殺されても殺されてもつぎつぎに僕をお遣わしになったというところが何を指しているのか、必ずしも私たちにとって明白ではないからです。主イエスは、イスラエルの民に何度も何度も預言者をお送りになりました。神の願いから遠く離れた生活をしてしまっているイスラエルの人々が悔い改めるためです。エリヤやエレミヤといった預言者たちは他の誰でもないイスラエルの指導者たちによって苦しめられてきたのです。
けれども預言者の言葉に人々は耳を傾けません。何故かと言うと、預言者の言葉を聞くと、それまでの自分が築き上げて来た生活を失うことになってしまうからです。自分にとって邪魔な者はないほうが良い、聞かなかったことにした方がいい。そうして、イスラエルの人々は次々に預言者たちの言葉に耳を傾けませんでした。その大切な言葉を殺し続けたのです。

今、私たちの教会のM君が東京の神学校で神学生として学んでおります。先週のことですけれども、一通の手紙が彼から送られてきました。自分の近況を記した手紙です。自分の近況を証しとして記したものです。しかし、読んでみますとこの文章は説教になっています。少し長いものなので全てを紹介することはできません。ぜひ、掲示板に貼っておきますので読んでほしいと思います。その中にこんなことが書かれています。それはこの一年を通して「待つ」ということを学ばされたというのです。
この一年の神学生生活の中で一つの祈りがありました。自分の願いを祈りのなかでし続けてきたというのです。「御心ならば祈りが聞かれますように。」と祈ってきたのだそうです。何についてかは書かれていませんが、そんなことは大事なことではありません。しかし祈りながら、いつのまにか「神様、私の望みを早く叶えてください。これこそ最善なのですから。」と祈るようになっていたのだそうです。けれども何かが起こるわけではない。そうしているうちに、自分の祈りは、自分の思いを神に押し付けていることに気づきます。そして、「私のことばは、その時が来れば実現します。」とのルカの福音書一章二十節の御言葉が心にとまります。年をとったザカリヤに男の子が生まれると告げられた時の言葉です。そこから、この「時」は自分が決める時ではないということを改めて受け止めさせられたというのです。

これは、私たちの日常の中の小さな証しなのかもしれません。願い事を祈るときには誰もが考えさせられることです。そして、それはもうすでに、私たちも何度も聞き続けていることでもあります。神の御業は、神の時に行なわれるのです。
そして今朝、私たちに与えられている聖書もまた、この神の時を語っています。三十四節にこうあります。「収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして」と。
ここで使われている「時」という言葉は「カイロス」という言葉です。聖書の中には色々な時間を表す言葉がありますが、この言葉は繰り返されることのない、一回きりの神の時を表す言葉として用いられます。
私たちが時を計っているのではないのです。神であられる主がこの時を支配しておられます。しかもこの時というのは収穫の時です。自分で働いたものが実を実らせる時です。自分の努力が報われると考えている時です。自分の願いが、さあ今ここで達成されると思っているけれども、その時間は人が支配しているのではなくて、神が支配しておられるということです。
このたとえ話の中で、農夫は主人から託された土地で一所懸命に働きました。そして収穫を得たのです。けれどもその時になって、主人から次々に催促がきます。僕が送られてくるのです。もちろんそれは面白くないことです。すべてを自分のものにすることができないからです。だからそんなことは聞きたくないと考えるのです。いや、考えるだけではなくて実際に行動に移します。主人の言葉を消したのです。主(あるじ)の言葉を殺したのです。そうすれば自分の自由にできると思う。自分が願っていることが叶うことがなによりも素晴らしいことなのだからと考える。そして、この言葉を殺した時に、それは自分のものとなったと錯覚するのです。
けれども、その「時」は農夫の時ではありませんでした。主人の時なのです。私たちの「時」ではなく、「神の時」なのです。

そうです。これは、イスラエルの宗教指導者たちだけのことではない、私たちすべてのことを指して語られている言葉です。「そんな人は殺されるべきだ。」と一度は考えた人の姿は、実はあなたの姿そのものではないか、と主イエスはここで問いかけておられるのです。
自分の時を持ちたい。自分の願いが達成されればいい。そう考えて神の言葉を無にしてしまう。私たちすべての人間が、こうしてついに私を殺したのだ、とここで主イエス自らが、私たちに問いかけているのです。
この主イエスのたとえ話ほど人の心に迫る言葉はありません。主の言葉ほど私たちに惧れをいだかせるものはないのです。

今週から受難節に入ります。今週の金曜は主イエスが十字架につけられたことを思い起こす日です。この受難週を迎えるにあたってこの言葉を聞くということは、私は偶然ではないと思っています。まさに、神の時だと思うのです。
私たちは日ごとにどれほど、神の言葉を無にし続けていることでしょう。殺し続けていることでしょう。耳をふさいでしまっていることでしょう。
主イエスは詩篇百十八篇の言葉を朗読なさいました。

あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』

家を建てている時に、こんなものは美しくないし使いようがないからといって捨てた石。しかし、それが家を建てる時の肝心なかなめ石になったという詩篇です。
私たちは不要だと思う、こんなものはいらないと捨ててしまう。しかし、その上にしか肝心の家を建て上げることはできないのだと主イエスは言われるのです。

人々が捨てた石とは何か。それは神の言葉です。この神の言葉の上にしか、まことの生活を築き上げることはできないのだ、と主は言われるのです。そして、人々が捨てた石は、主イエスそのもののことだとも言うことができます。人々が殺してしまったお方、「十字架につけろ。」と叫んで、こんな男は不要だと叫んだ主そのものが、私たちの生活にはなくてならないものだとも読むことができます。
もちろん、そのどちらもが大事なのです。そして、そのことを私たちはこの週、心に刻みつけながら、神の言葉であられる主イエスに立って生きるのだということを覚えたいです。

しかし、私はこれで説教を終えることはできません。まだ、大事な問いが一つ残っているからです。「神の国の実を結ぶ国民に」という説教題をつけました。まだ、この問いについて答えを得ていないのです。イスラエルの指導者たちは答えました。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」と。
私たちはこの「ぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫」だと言うことができるのかという問いがまだ残っているのです。

今日、みなさんの手元に芥見キリスト教会の三十周年の記念誌が届いていると思います。私はみなさんよりも一日早くいただきまして、昨日楽しんで読ませていただきました。とても良くできた記念誌になりました。教会のこれまでの歴史が分かるように、様々な工夫がされています。これまで働いてこられた先生たちからの挨拶があり、みなさんの言葉があり、教会の略歴があり、終わりには写真まで納められています。中でも、みなさんのことが書かれているページにはそれぞれの愛唱聖句や讃美歌、そして一言が寄せられています。この一人一人がそのまま主の収穫そのものです。ここにおられる一人一人が、主の収穫そのものです。そこに載せられた言葉の一つ一つは、主への感謝の言葉に溢れています。主を喜ぶ姿に溢れています。
「季節には収穫を納める農夫」とは、立派な伝道をした誰々宣教師や牧師ということではないでしょう。あるいは、役員の誰々ということでもないと思います。これはただ主イエスのみを指す言葉です。そして、主の収穫そのものが私たちなのであり、また、その収穫へ招くのも私達です。
私たちが主を喜び続けること、そこに主は豊かな実を結んでくださるのです。三十一年目の歩みを迎えている私たちこの芥見教会が、そのまま「神の国の実を結ぶ国民」そのものなのです。

お祈りをいたしましょう。

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