2012 年 3 月 18 日

・説教 マタイの福音書21章18-22節 「信じて祈れば何でも与えられる?」

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 2012.3.18

鴨下直樹

 

 先日、妻からこんな話を聞きました。ある教会での出来事です。一人の信徒の方が祈りのことで、一言つぶやいたのです。「私はこれまで何度も神に熱心に祈り求めてきたけれども、一度も祈りが聞かれたことがない。これはやはり、私の信仰が足りないからでしょうか。」そう言って、周りにいた人たちに質問を投げかけたのだそうです。それで、その場に居合わせた人たちがこう言った。あなたは、どれくらい真剣に祈ったのか。素直に神様のことを信じることが大事なのだと言って、この方に説得しようとしたと言うのです。その会話を聞きながら、妻は、自分が先週と先々週にここで聞いた説教の話をしてきたのだそうです。

 主イエスがなさった「あなたの願いは何か」と尋ねられた二組の人たちの話です。、主がその御座におつきになる時に、右と左の座につかせてくださいと願った弟子のペテロとヨハネの話しと、その後に記されている目の見えない人の話です。そして、先週の説教の箇所である神殿で宮清めをなさった時の話です。どちらも、主イエスが共通して教えておられるのは、その人の願いが叶うようになるということではなくて、神が願っておられることがなるという話しだった。私たちは、自分が願っていることが何が何でも叶えて頂けると聖書が書いているわけではないでしょう、とそこで話したのだそうです。

 

 しかし、そうしますと疑問が残ります。聖書には「信じて祈れば何でも与えられる」と書かれているからです。それが、今朝私たちに与えられている聖書の箇所です。この聖書はどうなるのかということは、誰もがどうしても考えなければなりません。ここで、主イエスが自ら語っておられるのは、今日の最後の御言葉にはこのように記されているのです。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」と二十二節に記されているのです。ここに書かれていることは嘘なのかということにもなりかねません。聖書をそのまま素直に読めば、明らかにこの言葉は「信じて祈れば何でも与えられる」ということになるのです。これは誰もが祈りの生活の中で、何度も何度も考えさせられるテーマでもあります。ですから、このことをよく注意して考えてみたいと思います。

 この「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」と聞いて、そこで連想されることは何かと言いますと、例えばこういうことになります。今ジャンボ宝くじを買いますと前後賞を合わせると五億円になるんだそうです。それで、もし誰かが、私は五億円が当たると信じて、「神様なんとか私に五億円をお与えください。私は主がお与えくださると心から信じます。また、五億円が当たりましたら教会の残りの借金分も全部私が献金いたしますので、どうかお願いします。」と祈って買えば、あとは神様が何とかしてくださるということになるのかどうかということでもあるのです。

 これは、極端な例だとお思いでしょうか。けれども、最初にお話しした「私は熱心に祈り求めてきたけれども今まで一度も祈りが聞かれたことがない。」という場合は、この宝くじの例は何も違っていないわけです。まして、主イエスがここでそう語っておられるのだから、祈りが聞かれないのだとすると、主イエスはここで間違ったことを教えられたのか、ということになるのかどうかということでもあるのです。

 

 私たちはこの祈っても祈りがきかれない、叶えられないというような場合、そこで様々な反応をするのですけれども、そこでする消極的な三つの反応があります。一つは、自分の祈りが不十分であったのではないかと考える場合があります。もう一つの反応は、これほど熱心に祈っているのにも関わらず祈りに答えてくださらないとすると、神など本当はいないのではないかと考える。もう一つは、もう諦めて考えないことにするかという反応です。このように自分を責めるにしても、神を責めるにしても、あるいは考えないことにしたとしても、どれも正しい反応とは言えません。実は、もう一つの反応がありますけれども、これは、神はまだ自分には必要ないと言っておられるのではないかと考える、あるいは、そこから何かの意味を見出そうとする方々もおられるかもしれません。この最後の反応についても、私たちはよくよく注意して考える必要があります。

 

 

 マタイの福音書のこのエルサレムに入られる前後から、主イエスがひたすらに一つのテーマに集中しておられることに気づくのですが、ここで主イエスは人々の願いと、神の願いがどれほど隔たっているかということを明らかにしておられます。右と左の座に着きたいと願う弟子の姿、エルサレムにローマの支配を打ち滅ぼすメシヤが現れると期待する人々、そう言う中で、二人の盲人に代表されるような病の中にある人、悲しみの中にある人、そしてベタニヤに住んでいる人々とともに歩もうとしておられる主イエスのお姿を見るのです。この主イエスがエルサレムにおられる間寝泊りされたこの「ベタニヤ」という町は、「悩みの家」、「貧困の家」を意味する名前の町でした。ですから、主イエスはここで腰を下ろされながら、そういう人々の願いには寄り添われたことを見ることができるのです。

 

 そして、朝を迎える。主イエスは再びエルサレムに赴いて行かれます。まだ早かったためでしょうか、主イエスは朝食をとっていなかったのか、途中で空腹を覚えられたという出来事がここに記されています。ところが、読んでいきますと、とんでもないことが記されています。というのは、道ばたのいちじくの木が目にとまります。ところが、そのいちじくは葉の他には何もないので、主イエスはこの木に向かって「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われて、この木を呪ってしまわれたというのです。そして、この木は枯れてしまったと記されています。

 こういう箇所を読みますと、主イエスというお方もやはり人間観溢れるお方だと、感心する方もあるかもしれませんが、大方の人は驚くのではないかと思います。お腹が空いて機嫌が悪くなるのは家の主人だけかと思ったけれども、主イエスも同じなのだとすると、ちょっと幻滅するなどと思われる方が中にはあるかもしれません。いくらなんでもひどいなさりようだと思うのです。しかも、他の福音書を読みますと、「まだいちじくのなる季節ではなかったからである」と書かれていますから、いかに不当な扱いをこのいちじくにしたかということになります。

 このいちじくの木の出来事と、「信じて祈り求めるものなら何でも与えられる」という最後の主イエスの言葉がどう結びつくのかと考えてみても、なかなか素直に読むことができないのではないかと思います。

 

 それで、少し整理して考えてみたいと思います。聖書の中にはさまざまなものがイスラエルに例えられています。たとえばぶどうの木というのも、主イエスのたとえ話の中に良く出てきます。これは、神の祝福のしるしとして聖書の中に何度も記されています。ぶどうの収穫が多いということは、神の民、イスラエルが神から祝福されているということを表す場合が多いのです。

 エレミヤ書八章十三節にこういう言葉があります。

「わたしは彼らを、刈り入れたい。 –主の御告げ。– しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」

 エレミヤが語ったこの言葉は、この出来事をそのまま表しているということができます。主イエスがエルサレムにやって来られたのです。期は熟していよいよ主イエスがエルサレムにおいでになられたのです。ところが、エルサレムは主をお迎えする備えはなく、人々は自分勝手な願い事を神にするために神殿に集まっているのです。神殿に礼拝するために人々は来ているのに、その人々は誰も神の方を向いてはいませんでした。むしろ、自分自身の願い事にだけ心が向かい、神に対する興味もないのです。それは、まるでいちじくの木に実がなっていない姿と同じだとたとえられているのです。

 主イエスはここで、お腹が空いていてイライラしておられて、木を枯らされたのではないのです。色ずいているかのように見えるエルサレムの神殿は、まるで、葉ばかりで何の実りももたらすことのないいちじくの木と同じではないかと例えられているのです。

 

 しかし、このいちじくの木が枯れるという現象には目がとまりますが、主イエスの心には気が付きません。ですから、弟子たちは主イエスに質問します。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」二十節に弟子たちが主イエスにそのように質問したとあります。

 それで、主イエスがお答えになられたのが二十一、二十二節です。

「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

  私たちはここで語られておられる主イエスの心をしっかりと受け止める必要があります。主イエスが何をここで語っておられるのでしょうか。「あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ」というのは、どういう意味なのでしょうか。私たちはすぐに、「疑いの心を持たないで、神に信じきってお願いするなら」という意味に理解しようとします。もしそうであるとすれば、私たちはどこまで主イエスの言葉を理解することができないのかということになるのです。

 主イエスがここで信仰と言っておられるのは、私たちの信じる心のことではありません。そうではなく、神の御心を持っているならばという意味でしょう。それを、ここで信仰と言っているのです。

 信仰は、私たちが持っているものではありません。信仰の持ち主は、私たちの神です。神がもっておられる信仰を、賜物として与えられるのです。けれども、その信仰はいつまでも神のところにあるものです。私たちの側に放り出されたものではありません。神が信仰の主体であるがゆえに、私たちは神がお与えになられた信仰を失わないでいることができるのです。

 もし、信仰が自分のものであって、神がその手を離してしまわれているとなると、信じる心を失うほどに気落ちしたりする時に、私たちはどうなってしまうのでしょう。けれども、まさに、そこに三位一体の神の御業があらわされていると言うことができるのです。私たちに与えられた信仰、これをそのまま聖霊と言い換えることもできます。聖霊は、私たちに与えられています。しかし、その御霊は人格を持ち、父なる神、主イエス・キリストとともに完全な交わりを築いておられます。だから、この三位一体の神の交わりの中に、私たちは信仰によって、聖霊によって入れられるようになったと言うことができるのです。

 ですから、ここで主イエスが語っておられる信仰を持ちという言葉は、あなたがたが「聖霊を与えられているならば」、「神の御心を受け止めることができるならば」という意味なのです。決して、神から離されたところにある、私たちの側に存在するかのように思われている信仰的な熱心さというものと置きかえることはできないものなのです。

 だから、主イエスは言われます。「あなたがたが、信じて祈り求めるなら、何でも与えられるのです。」と。神のみこころを求めるならば、それはかならず起こることだと主イエスは言われるのです。

 

 主イエスのことを思い起こしていただきたいのです。主イエスご自身このことを私たちにご自身が明らかにお示しくださいました。それは、あの渡される夜の出来事です。ゲツセマネで主イエスが血の涙を流しながら祈られた時、主は何と祈られたのか。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

マタイの福音書二十六章三十九節に、そのように主イエスの祈りが記されています。主イエスご自身、自分の願いを捨てるために祈りながら戦われたのです。そして、神のみこころがなるようにという祈りにこの祈りは集約されたのです。

 主イエスが祈りながら戦っておられるのです。自分の思いと、神の思いがどちらが優先されるかを。それは決して、私には立派な信仰があるのだ、この山を祈りで動かすことさえ私にはできると、やってみるようなことはなさらなかったのです。そうする必要がないからです。聖書の中には、誰かの祈りで、山が動いたなどと記されているところは一つもありません。山をも動かす信仰というものなど存在しないのです。あるのは、ただ、主のみこころがなるということだけです。

 

 さて、そうすると、私たちは祈るという喜びを失ってしまうのでしょうか。一生懸命に祈って、それこそ疑わない心で祈れば必ずその願いは叶うと言ってもらった方が、祈る楽しみはあるのかもしれません。神のみこころがなるのであって、自分の願いは叶えられないのだとしたら、祈る意味はないのでしょうか。祈る楽しみはもはや失われてしまうのでしょうか。

 先週の水曜日と木曜日に行なわれた聖書研究祈祷会で、祈りの話を致しました。そこで紹介したのは、P・T・フォーサイスの書いた「祈りの精神」という書物の中の一節を紹介しました。 祈れない時という文書です。

 祈祷会に出ておられる方々はすでに聞いているのですけれども、もう一度ここで紹介したいと思います。その中でこう言われています。

 

 「『わたしは祈ることができない。祈ることができない。』などと言ってはならない。例をあげて考えてみよう。休養を必要とする時は、横になることができないほど気持ちが乱れて落ち着かないものである。しかし。その時には、無理にでも横になって静かにしていることである。自分に強制した意識は十数分間で消えて、心は静まり、やがて眠りに入る。そして、新鮮な力を回復して起き上がるだろう。次のような例もある。時折、仕事に取り掛かることに非常な困難を覚えるときでも、仕事をはじめて三十分もすると、楽しんでいることがよくあるものである。また、夕方に約束した友達と会うために出かけるのがおっくうになるときが時たまあるが、ひとたび友との楽しい語らいの中に入ると、躊躇していたことも忘れて、仲間の中の自分を楽しむものである。時々、あなたは『わたしは教会に行きたくない。どうも行く気になれない。』と言う。その時こそ、強制的な信仰生活の習慣が役立つ時である。宗教は気まぐれな欲望とは最も縁遠い領域である。義務として教会へ行くべきである。そうすれば教会は祝福の扉を開くであろう。もし教会をあなたの生活から排除するならば、あなたはやがて永遠のずれを感じさせる大事な選択に間違ったことに気づくだろう。あなたは霊に満たされて帰る代わりに、満たされない欲望を抱いて、さまよい帰らなければならなくなるだろう。あなたが約束を守り、義務を果たし、友人と親しく会うように、自らを強いてあなたの神に会うことを奨める。もし祈るのが嫌に思えるときは、あなたはいっそう祈るとよい。祈りを口先だけのお勤めなどと読んではならない。祈りは神が拒まれる空世辞なのではない。それは心からの意思とはいえないまでも、強制的意思に働く神の霊なのである。」

 少し長い文章ですけれども、良く分かる言葉だと思います。祈ることが嫌に思える時はいっそう祈ると良い。このフォーサイスはそのように言います。強制的な信仰生活の習慣とか、義務として教会に行くべきであるという言葉が続きます。なぜ、こんな厳しいことを言うのでしょうか。私たちは、誰かが祈れないとか、少し教会に行きたくないのだという言葉を聞くならば、そういう辛いこともあるだろう、元気になったらまたおいで下さい。などと口にしてしまうかもしれません。祈れないなら祈らなくてもいいなどと言ってしまうかもしれません。しかし、それは、神のことをそれこそ分かっていないからということになるのです。神は、私たちが祈ることを心待ちにしれおられるお方です。そして、神は、私たちをいつも待っておられるお方です。私たちが本当のいのちを取り戻して生き生きと生きるようになることを願っておられるお方だからです。だから、このお方に祈るし、教会に来るのです。

 そこで、私たちを祝福したいと心から願っておられる神と私たちは出会うのです。だから自分の気持ちはついてこなかったとしても、教会に行こう、祈ろうと勧めたらよいのです。神は、本人の気持ちはついてきていなくても、大きな祝福を準備しておられるのです。

 

 今日、この後で四月から中学校、高校に進む学生たちの祝福の祈りをいたします。幸いなことに、私たちの教会には学生たちが何人も礼拝にでるようになっています。本当に嬉しいことです。ぜひ、知ってほしいのです。神は、あながたがを祝福したいとおもっておられることを。そして、いつも祈る時、教会に来る時、神は備えていてくださるのです。あなたがたに祝福を与えたいと。ですから、学生たちとともに、ここに集われているすべての方に覚えていただきたのです。神は、私たちの願いをはるかに超えて大きな祝福を備えてくださっておられると。だから、教会に集うこと、祈ることを喜びとして欲しいのです。そこに、私たちの本当の慰めと、幸いがあるのですから。

 

 お祈りをいたします。

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