2012 年 3 月 11 日

・説教 マタイの福音書21章12-17節 「驚くようなことをなされる主イエス」

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2012.3.11

鴨下 直樹

今日、三月十一日は昨年起こったあの東日本大震災からちょうど一年を迎えることになります。私たちはこの一年の間に、実に色々な生活の変化を経験してきました。地震への恐れと、同時に放射能への恐れのためです。こういう経験をしながら私たちはこの一年の間、苦しみの意味を問い続けて来たといってもいいかもしれません。それは、個人だけでなく、国全体が同じ問いの中に、今尚立たされていると言えます。
そういう中で、私たちは教会の暦でレントを迎え、今、この苦しみの意味というものについて聖書から考えようとしています。主イエスが苦しみに耐えられたということは、私たちにとってどのような意味を持つのかということを、この時、さまざまな問いとともに考えさせられているのです。
私たちは苦しみの状況に置かれると誰もが優しい言葉を聞きたいと思う。もう一度勇気をもって立ち上がることができるような御言葉を聞きたいと思う。しかしながら、今朝私たちに与えられている言葉は、まるでそれとは正反対の言葉です。

それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

十二節、十三節です。 主イエスはここでまるで暴力をふるう者のように、宮で大暴れなさったのです。ここで主イエスがなさった出来事は「宮清め」と呼ばれています。宮を清め、聖なるものとなさるために、主イエスは宮で商売をする者たちの台や腰掛けをひっくり返されました。これはどういうことなのでしょうか。
宮で売り買いをするということは、最初から行なわれていたのではありません。イスラエルの民は、この過ぎ越しの祭りの季節をとても大切な祝いの時として大事にしていました。これは、モーセの時に、神の民であるイスラエルが、神の十の奇跡の業をとおして救いだされて、エジプトでの奴隷生活から解放されたことを覚えて祝う祝いの時でした。この季節になりますと、皆、エルサレムの神殿に赴いて、神に感謝のいけにえを捧げます。最上のいけにえを捧げるために、傷のない牛であるとか子羊や子ヤギが捧げられることになっていました。けれども、長い旅ですから、そのような動物をつれての旅は大変ですし、旅の途中でけがをしてしまいますと、もう捧げ物に用いることができません。
そういうこともあって、最初におそらく神殿の祭司が提案したのでしょう。旅をしながら動物を連れて来るのは大変だから、こちらで傷のない捧げ物用の動物を準備しておいて、売ってあげればいいのではないかと考えた。また、そのためには両替をする必要もでてくるだろうということになります。そうして、神殿で動物が売られ、両替がなされるようになったのです。それはおそらく、親切から始まったことでした。神様のためにも、礼拝を捧げる人のためにも役に立つことだと考えたのです。
けれども、動機が正しければ常に正しいということではありません。すぐに、そこから別の考えが生じて来てしまうのです。神のため、礼拝者のためであったはずの商売であったとしても、それが利得のためになるのにそれほどの時間はかかりません。すぐにも、間違った方向に進んでいったのです。
そして、主イエスはエルサレムにお入りになると、すぐにこのことを正さなければならないと、まず彼らの商売をやめさせることからお始めになられたのです。それが「わたしの家は祈りの家と呼ばれると書かれているのに、あなたがたは強盗の巣にしている」という言葉の中に現わされているのです。

イザヤ書五十六章七節にこう記されています。

「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」

このように、神はエルサレムの神殿で捧げられる礼拝は民の喜びとなることを願っておられるお方でした。この神の願いが何にもまして大事とされるはずでした。ところが、人に親切にする、人に優しい配慮をするという、いつしか人の利益が優先され、神の心は忘れられていってしまったのです。

私たちは、この御言葉をこの朝与えられています。震災から一年を迎える私たちにです。そこで、私たちがどうしても問わなければならないのは、主が何を喜ばれるかということです。人に近くあることにもまして、主に近くあること、神に近くあることをこそ求められていることに、私たちは今、耳を傾けなければなりません。どれほど人に優しくしたとしても、どんなに苦しみの中にいる人に心を寄せても、神から離れては何にもならないからです。

そして同時に、私たちが覚えなければならないのは、主は悲しみのある人に遠くおられるのではないということです。苦しんでいるもの、弱い者を遠ざけておられるのではないということを知らなければなりません。というのは、ここで主イエスが宮清めをなさった後で、何をなさっておられるかを見れば、主の心は明らかになるからです。

「また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。」

と続く十四節に記されています。これには少し説明がいるかもしれません。宮の中で、主イエスは癒しを行なわれたと書かれています。これは、驚くべきことなのです。というのは、それまで、エルサレムの神殿の中には目の見えない者、足のなえた者は入ることが許されていなかったのです。と言いますのは、今水曜と木曜の聖書学び会でダビデの生涯と詩篇を学んでいますから、いずれそこで学ぶことになりますけれども、第二サムエル記の五章で、ダビデがエルサレムの城を攻め取った時のことが記されております。この時、エブス人がエルサレムを占拠してしまっておりました。このエブス人たちはエルサレムの要害が堅固なことを誇りとして、ダビデに対してこう言うのです。「あなたはここに来ることはできない。目の見えない者、足のなえた者でさえ、あなたを追い出せる」と。けれども、ダビデはエルサレムをいとも簡単に攻め落としてしまいます。そして、その日以来、ダビデは目の見えない者と足のなえた者が神殿の中に入るのを禁止するのです。
そういう歴史がイスラエルにはありました。しかし、主イエスは人々が宮を汚しているさなかで、それまで汚れているとされてきた人々を神殿に迎え入れたのです。
それは、本当に汚れているのは人の心なのであって、それが肉体的に現れているわけではないからです。本当の人の心に寄り添おうとしておられるのは、まさに、主イエスのほうであったということがここで明らかにされているのです。

ここ数日、テレビで震災の復興についてのさまざまな番組が放映されています。実に多くの方々が東北の地を尋ねています。そして、大きな励ましになっているようです。けれども、同時に人の善意で苦しむ人々がまたそこで起こるという事実を目の当たりにさせられるのです。いつのまにか、支援する人と支援される人という構図ができあがってしまうのです。相手に悪意はないのだということが、そこでさらに人を苦しませてしまうということが起こります。とても残念なことですけれども、どうしてもそうなってしまいます。
もし、誰かがそういう人々が何か助けになればと思って来ているのに、そこで、そんなことは嘘ばかりだ、自己満足のためではないかなどと声を張り上げたらどうなってしまうか。それは、すぐに人の善意を無にするのかという言葉となって返ってくることでしょう。だったらどうしろと言うのだと、返ってくるかもしれません。

主イエスがエルサレムの神殿で行なわれたことは、まさにそういうことだったのです。そして、そこで何が起こったのかというと、その出来事を見た子どもたちが宮の中で、「ダビデの子にホサナ」と言って叫んだというのです。子どもたちはここで見たのです。ここで素晴らしいことが起こっていると。先ほど、エルサレムに主イエスが入城なさる時に叫んでいた言葉は、この事だったのかと知って。これこそ、ダビデの子の御業だ。このお方こそ、賛美されるべきお方だと喜んだのです。
けれども、そこで同じ光景を目の当たりにしながら喜ぶことのできない人々がおりました。それは祭司長、律法学者という、本来神の宮で、神に人々が礼拝するために仕えているはずの人々が腹を立てたのです。自分たちの善意が踏みにじられていると感じたからです。子どもにはそんなことも分からないのかと憤りを覚えたのです。実に、ここで人間臭い出来事が起こっているのです。

そして、この神に仕えるはずの人々は、主イエスに問いかけます。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」と。十六節です。これを主イエスに尋ねたということは、「あなただって、これは間違っていると思っているはずでしょう?」と確認しようとしたということでしょう。自分たちが間違っているということを思いもしなかった人の反応がここにあります。
神殿で商売をしている人たちを追い出し、台も腰掛けもなぎ倒し、神殿に入っていけないと考えられていた人々が神殿に入れられる。そして、子どもたちが、これこそダビデの子の御業と叫んでいる。彼らは言いたいのです。「むちゃくちゃじゃないか」と。「こんなことが許されるのか、認められるのか」と。
ところが、この問いに対して、主イエスは何と答えられたかというと、「『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」とお答えになられたのです。
これを聞いて何と思ったのかそれ以上書かれていませんけれども、想像することはできます。開いた口が塞がらなかったのだろうと思うのです。主イエスはここで詩篇の八篇を引用なさりながら、「聖書にある通りのことが起こっているだけではないか」とお答えになられたのです。
祭司長も、律法学者も、誰よりも聖書を知っているはずの人々です。聖書を良く読んでいた人であったに違いないし、人に教える立場の者であったのです。けれども、主イエスのように考えたことはなかったのです。ここに、神の御業が起こっているのだと言われても、どう考えてよいか分からなかったのです。

先日、長老会をいたしました。実に長い時間をかけて、教会のことについて話し合いをし、また学びの時を持ちました。そこで、古川長老の口癖になっている言葉を聞きました。「教会にとって礼拝以外のことは、それほど大事なことではない。」と言われるのです。お聞きになられたことのある方は少なくないと思います。古川長老の口癖です。
私もその言葉を改めて聞きながら、ホントにそうだと思わされているのです。私たちは色々なことに心を配ります。どれもこれも、みんな大事なことだと思います。教会で先日の総会から各部の方々が一新されて、新しい奉仕をすることになる。そこで、最善は何かと考える。大事なことです。どうしたら効率よく行なうことができるか。どうしたら、人に寄り添うことができるか。どれも全部大事なことです。
けれども、ひょっとすると、それでだんだん面倒くさくなってしまうことがどこかで起こりかねません。神を喜んで、神の御元に来ることが疲れてしまうということが起こってしまう。
ですから、私たちはここで主イエスが何をなさっておられるかをしっかりと見続けましょう。主イエスがここで何をしておられるのか。主イエスはただひたすら神を愛し、隣人を愛することをここで取り戻そうとしておられるのです。便利であるとか、親切であるとか、こうしたら効率がいいとかということが大事なのではなくて、神を愛し、隣人を愛することを大事になさったのです。この順番がとても大事なのです。まず神に、そして隣人になのです。主はこのことをここで明らかにしておられるのです。

そして、この物語のもっとも興味深いのは最後の十七節です。「イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。」とあります。これはどういうことなのでしょうか。この「彼らをあとに残し」という言葉は、「彼らを置き去りにして」とも訳することができる言葉です。宗教指導者たちを主イエスは置き去りにして、宮から出て行かれたのです。主イエスが宮から去ってしまう。神を礼拝する場所を整えたはずなのに、主イエスはそこを去って行かれるのです。そして、どこに行かれたのかというと、ベタニヤです。ベタニヤというのは、主イエスがエルサレムに滞在しておられた間、ずっと留まられた場所のようです。このベタニヤには何があったのかと言いますと、この後の二十六章を見ると、らい病人のシモンがおりました。また、マリヤが主イエスに香油を注ぎます。ですから、このシモンというのは、マリヤとマルタの兄弟のラザロのことであったのでないかとも考えられております。主イエスはこのベタニヤで、人々の中に留まられたのです。何故か。それは、真の礼拝へと人々を招くためにです。病の人の傍らにいることを主イエスが喜びとされたのです。そうして、主とともにある喜びに人々をお招きになられたのです。

主イエスは人々とともにおられるお方です。人々のもとに、主が、神が共におられるということを味わわせてくださるお方です。そこに、本当の喜びがあるからです。そして、ここに、主イエスがお示しになる愛があります。

今日、この三月十一日のこの朝、私たちは主イエスとともにいることが何よりも幸いであり、主と共にあって礼拝を捧げることができることが、何にもまさって大切であることを覚えたいと思います。主イエスはこのことを覚えさせるために、驚くようなことをなさってでも、教えようとしておられるのです。たとえ、その主の心を理解できない人から反感を買ったとしても、大事なものはゆずれないのだとお示しになっておられるのです。
この受難節、震災と放射能のために今尚困難を覚えている人々のことを私たちはどうしても忘れることはできません。そして、本当の慰めはどこにあるのかというと、それは、主とともにあって、主に心からの礼拝を捧げることができるところにこそあるということを、私たちは覚えて祈りたいのです。
主は、人に寄り添いつつ、真の神の宮に、すべての人を招きたいとおもっておられるお方なのですから。

お祈りをいたします。

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