2012 年 3 月 4 日

・説教 マタイの福音書21章1-11節 「柔和な王の入城」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2012.3.4

鴨下 直樹

 三月を迎えました。新しい新年度を迎えるにあたって、多くの方がこの季節にいろいろなところでその準備をしている頃だと思います。私が関わっております名古屋の東海聖書神学塾も、四月から新しい神学生を迎えるために、先日入塾試験を行ないました。

 わたしは今教務の仕事をさせていただいていることもあって、入塾試験の担当をしております。様々な学科の試験をいたします。特に聖書の基礎知識という試験を最初に行ないます。毎年、神学生として入塾を希望する方々に尋ねられるのが、なぜ、これから神学校で学ぶのに、その前に聖書知識の試験をするのかという問いです。もちろん、これには意味があるわけで、いくらなんでも基礎的なことも知らないで、そのうえで聖書や神学の学びをするわけにはいきませんので、どの程度の聖書知識があるかをそこで試験するのです。

 どの学生も前もって試験勉強をしてきます。先日も、一人が何ページも聖書をまとめたファイルを私に見せてくれました。そのようにして、試験が終わりまして、面接試験を本人と、その教会の牧師とも面接を致します。そうして、やっと神学塾に入塾が許されるのです。ところが、毎年、何名かの神学生が一年もたたずに、辞めて行ってしまいます。そこにはさまざまなことがあるのだろうと思います。一言で言うことはできません。ドイツの神学校に行っていた時もそうでした。何人かが去っていきます。中には試験に通らなかったということもありますけれども、多くは自分の思い描いていたことと違ったということがあるようです。

 まもなく、新年度を迎え、そこでもまたそのような経験をする方があるのかもしれません。自分が考えていたことと違う。そこにかける期待が大きければ大きいほど、またその失望も大きいということがあります。そういうことが起こってしまうのは、自分の思い違いということもあるでしょう。あるいは、自分の期待に答えるだけのものが、そこにはなかったということもあるでしょう。そして、私たちは人生の大半をそのような期待と、失望の連続のなかで、生きているということもまた事実です。

 

 それで、この朝、特に注意して御言葉を聞きたいと思いますが、主イエスに対して人々はどうであったのかということです。実に、多くの人々、「群衆」とさえ呼ばれている人の群れが、主イエスにさまざまな期待を込めているのです。そういう期待を一身に背負って、主イエスはいよいよエルサレムに入城されました。それが、この朝私たちに与えられている御言葉です。

 

 主イエスがどのようにエルサレムに入城されたのかと言うと、ろばにのってとあります。五節はゼカリヤ九章九節からの引用ですが、「荷物を運ぶろばの子に乗って」とあります。

 このろばを手にいれるまでのことか簡単にかかれていますけれども、どうも読んでみると、勝手に連れて来なさいと言われているようです。しかも、何か言われたら「主がお入用なのですと言いなさい」とあります。まるで、そうなることが決まっているかのようです。しかも、この三節の「すぐ渡してくれます」という言葉は、新改訳聖書ですと、そこに注がありまして「派遣して」とあります。これは、主イエスが弟子たちを「派遣する」、「遣わす」と言われる時の言葉と同じ言葉が使われているのです。神が備えておられたということです。しかし、神が備えておいてくださるのであれば、もっと格好のいい、馬のほうがよいではないかと考えるかもしれません。

 主イエスは人々にここで大歓声の中で迎え入れられます。少なくとも、マタイはそのように描いています。まるで、王が凱旋をしてエルサレムに入城してこられるように、人々に迎え入れられるのです。

 王の凱旋といえば、立派な軍馬に跨って、人々の大歓声とともに城に迎え入れられますが、主イエスの場合はろば、しかも子ろばです。なんという弱々しい、たどたどしい歩みであったかと言いたくなるほどです。

 

 マタイはここでそのときの様子を丁寧に記しています。

 七節からお読みします。

「そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大勢の者が、自分たちの上着を道に敷き、また、他の人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んだ。『ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。』こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、『この方は、どういう方なのか。』と言った。群衆は『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。』と言った。」

 もう大変な大騒ぎでした。まさに、王が凱旋してくるかのようにしてエルサレムに入城なさったのです。まさに、人々の期待はここで最高潮に膨れ上がったのです。何に期待したのかというと、イスラエルを支配しているローマに立ち向かうダビデの子が、エルサレムにいよいよおいでになったのだと思ったのです。

 

 

 この時の場面を、よく心に思い浮かべると良いと思います。主イエスは決して軍馬になど跨ってはおられないのです。人々が期待するものとはまるで違うことは、子ろばに跨っておられることで良く分かるはずなのですが、人々の目にはそのようなものは目にうつりません。周りの人々が騒げば騒ぐほど、期待は膨れ上がっていってしまいます。こうして、主イエスの受難の道が、ここでいよいよ明らかになってくるのです。

 

 主イエスは王なのかということが、実はこの時から、人々が心の中に抱き続けてきた思いです。王というのは、大抵の場合何を連想させるかというと、戦って勝利をおさめる者の姿です。こうして、この一週間後に、主イエスが十字架に磔にされます。その時に掲げられた罪状書きは「ユダヤ人の王」ということでした。そして、そのことを主イエスは拒んでおられませんでした。

 王は戦うのです。まさに、ここでも主イエスの王としての戦いがいよいよ明確になるのです。主イエスはこのところからいよいよ明らかに王としての戦いを開始さないます。しかし、その戦いは人々が思い描いたものとは遠くかけ離れていました。主イエスは、ローマと戦われたのではなかったのです。そうではなくて、人々の心の中に描く思いと戦われたのです。人の心の中に描く思いとは、何かというと、主イエスによって自分の願いが達成されるという、人々の期待です。主はまさに、このことに立ち向かわれたのです。

 

 間違えてならないのは、期待することが間違っているというのではありません。私たちがここで知らなければならないのは、主イエスは、人の思いと戦っておられるという事実です。自分はこうしたら幸せになれると勝手に思い描いている、ローマさえいなければ、目の前の問題さえ取り除かれれば、すべてはうまくいくと考えていたのです。自分の願いが実現することが、何にも勝って大事だと考えている人間の根深い心と主イエスは戦われるのです。そして、この主イエスの戦いと無関係な者は一人もいないのです。

 

 誰もが、実にさまざまな願いを持っています。真の神がおられるのであれば、このようにしてくださるのではないかという願いが。神を信じていれば、ちゃんといいことが起こるはずだと考えている。他の人の願いはどうか分からないけれども、自分の願いは神様の思いに適うはずだと考える。

 そういう中で人々は叫んだのです。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と、心から讃えたに違いないのです。本当に心からそう願いながら、この詩篇の言葉を口にしたのだと思います。おそらく、私たちよりも熱心に、主イエスを讃えたのだと思うのです。

 けれども、人々は気づかなかったのです。主イエスは、エルサレムに入って来られたのであって、自分の心の中に、お入りになろうとしておられることには。私たちと戦おうとしておられるとは、考えなかったのです。

 

 主イエスは戦うためにやってこられました。今日、「ダビデの子にホサナ」とここで賛美した、私たちと戦うためにです。

 

 「柔和の王」。そう、わたしは説教の題をつけました。「柔和」というのは、五節に記されているザカリヤ書の言葉です。雨宮慧というカトリックの聖書学者がおります。私はこの方の書くものが好きで、時折喜んで読むのですが、聖書の言葉がその言語でどういう意味をもっているのかを説明してくれるのです。この方は「柔和」というこの言葉は「圧迫されても折れないしたたかな強さ」を意味する言葉だと説明しています。私たちがどれほどがんばって強く押しても、折れないで、戻ってくるのです。 

 神学校で教えておりますと、時折なかなか頑固な生徒に出くわします。課題の提出日に、課題が出せないというのです。まだ、二週間も前から、できないから、何とか期日を延ばしてほしいと交渉してくるのです。そこで色々考えるわけです。彼もきっと教会で忙しいのだろうし、仕事もしているだろうからと。けれども、期日は期日だとしかわたしは言わないのです。こちらが折れてやることが、柔和ではないのかと、私たちはつい考えてしまうのではないかと思うのですが、主イエスはそうはなさらない。絶対に折れない。けれども、どこまでもぐいぐいとこちから押すことはできるのです。けれども、主イエスは、私たちの都合のいいようにしてくださることはなさらないで、神の願っておられることを貫きとおされるのです。それが、この子ろばにのっておられる柔和な主イエスのお姿なのです。

 

 このお方が、はいってこられる。エルサレムの都に。柔和の王として。そして、私たちの心の中にお入りになるのです。

 今、私たちは受難節を迎えています。この受難節というのは、その主イエスの苦しみを思い起こすというのですから、どうしても、そこで考えなければならないのは、主イエスは、頑なな私と、そうあなたと戦うために、この時、あなたの心の中にはいられるのだということを、どうしても考えなければならないのです。

 まさか、そんなことだとは思わなかったということであるかもしれません。まさか、私と戦うために、主イエスは、私の期待を打ち砕くために、私の心の中においでになるなどということは、考えにくいことであるのかもしれません。

 けれども、知っていただきたいのは、このお方は、柔和なお方なのです。破壊を行なうためにはいって来られるのではないのです。私たちに絶望を味わわせるためにおいでになるのではないのです。そうではなく、本当に期待するべきものは、これだったのかということを、私たちの思いをはるかに超えて、豊かなものを私たちにお与えになるためにおいでになられるのです。

 それは、決して私たちをがっかりさせるものではないのです。むしろ、私たちが前以上に、わくわくして、さらなる期待が膨れ上がるかために、私たちのところにおいでになるのです。 それは、まるで、役に立たないように思われていた子ろばを、このお方が派遣されたかのように、わたしのようなものを、神は遣わしてくださるということでもあるのです。

 お祈りをいたします。

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