2012 年 2 月 26 日

・説教 マタイの福音書20章29-34節 「主よ、憐れんでください。」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2012.2.26

鴨下 直樹

 先週の水曜日からいよいよ受難節に入りました。主イエスの受難を覚えながら6週間、この季節を過ごそうとしています。そして、このマタイの福音書の説教の個所も同じように、主イエスが、この苦しみをうけられるためにエルサレムに入っていかれるところにさしかかります。

 

 毎週こうして連続して聖書を読み進めてまいりますと、主イエスがどのようなことをお語りになりながら、この十字架への道のりを歩んで行かれたかということが、いよいよはっきりしてきます。

 子どものようになりなさい、仕える人になりなさい。主イエスはエルサレムに入る前に弟子たちにずっと語り聞かせています。ところが、弟子たちにはなかなかそのことが伝わりません。このこともまた、主イエスを苦しめたのではないかと思えるほどです。

 来週からはマタイの福音書の二十一章に入ります。ここはすでにエルサレムに入城なさるところです。このエルサレムに入る直前、主イエスは何を語られたのか。この御言葉を聞くことによって、私たちもまたこの受難節をどのような思いで過ごすのかということが、いよいよはっきりしてくるのではないかと思います。

 

 さて、今日私たちに与えられている個所は、エルサレムに入られる直前の出来事だと言いました。そこで注目したいのは、二十九節で「彼らがエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った」と書かれていることです。

 いよいよエルサレムに向かわれる主イエスとその一行の数はどんどんと膨れ上がっていきました。ここに人々の期待がどれほど大きかったかが表されています。主イエスの語っておられる言葉の内容とは裏腹に、人々の主イエスへの期待は膨らみつづけたのです。何を期待したのかというと、自分たちの願いが叶えられるのではないかという期待です。

 

 その内容は何かというと、メシヤが再び来られるという期待です。キリストがおいでになられるという期待です。メシヤというのは油注がれた者という意味です。油注がれたダビデに代表される、力強くイスラエルをおさめる指導者が、再び起こされることを、イスラエルの人々は長い間待ち望み続けて来ました。

 そして、この物語は、まさにそのようなダビデの子が現れたのではいかという期待が膨らむような出来事がここで起こります。

 

 「すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。『主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ』」と言ったのです。三十節です。

 

 「ダビデの子よ」という言葉が響きます。メシヤよ、キリストよ!と叫んでいるのです。「あなたにはおできになるはずだ。私たちをあわれむことが」そのように叫んだ人々があったのです。

 

 少し考えていただきたいのですが、「私をあわれんでください」と、私たちは日常耳にすることがあるでしょうか。私はかわいそうな人間なので、私に対しては特別な態度を取ってくださいませんかと、誰かにお願いする。私たちは普段自分がみじめに感じるようなことは極力しないように生活しているのではないかと思います。私は弱いのです。私はみじめな人間なのです。そう叫ぶことは簡単なことではありません。

 

 ところが、教会はこの盲人たちの叫びの言葉を大事なこととして歴史的に受け継いできました。「主よ、あわれんでください」という言葉、「キリエ・エレイソン」という言葉として礼拝のはじめの言葉として、礼拝の中で大事に受け継いできたのです。

 礼拝に集うものは、まず最初に「キリエ・エレイソン」と叫ぶことを求めたのです。はじめて礼拝に集った人はびっくりしたと思います。「主よ、私をあわれんでください」と叫ばなければ礼拝をすることができなかったのです。モーツァルトのミサ曲も、ベートヴェンのミサ曲もこの祈りからはじまります。

 このキリエ・エレイソンという言葉を、私は人々がどのような思いで礼拝の中で自分の祈りとしてきたのかと考えると、とても不思議な気持がしてなりません。昔の人は、簡単にこう言う言葉を口にすることができたということではなかったと思うのです。

 

 いろいろな聖書の解説を読みながら、この時代、盲人として生きることはそのように、人にあわれみを求めなければ生きられなかった社会だったという説明を読みます。そうすることが当然であったかのような社会だったのだと説明がなされるのです。しかし、私はそうではなかったのではないかと思うのです。

 この言葉を口にする時に、このふたりの盲人は本当に大きな覚悟をもって口にしたのだと思います。なぜ、この言葉を口に出来たのかというと、自分たちの目の前を通ろうとしておられるお方は、自分たちをあわれんでくださるに違いないという確信を持ったからです。そうでなければ叫ぶことはできなかったはずです。そして、このお方の前に出るとき、自分はこのお方からあわれみを受けたいと心から思ったのでそう叫んだのではなかったと思うのです。

 

 この言葉を、教会は歴史の中で、大切にしてきました。そして、「主よ、私をあわれんでください」と祈ることから礼拝をはじめことを、私たちもこの朝覚えたいと思います。

 

 「主よ、私たちをあわれんでください。」、「キリエ・エレイソン」と叫ぶ時に何が起こったのかと言うと、つづく三十一節でこう記されています。

 「そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめた」とあります。黙らせようとしたのです。なぜ黙らせようとしたのか理由は書かれていませんけれども、すぐに想像できます。この人々を軽んじたのです。あなたたちにかまけている時間はないのだということでしょう。あなたがたはあわれみの対象ではないのだと伝えたかったのでしょう。もちろん、これは弟子たちがした態度であったとは記していません。群衆の態度です。

 人々はそう考えたのです。主イエスはこれからまさに、ダビデのようにイスラエルをローマ人の手から取り戻そうとしておられるのだから、あなたがたのようなみじめな者に裂く時間はないのだと考えていたのかもしれないのです。

 けれども、ふたりの盲人はさらに叫び続けます。「主よ、私たちをあわれんでください。」、「キリエ・エレイソン」と。

 

 さて、これに対して主イエスが何をなさったのかが、非常に興味深いところです。つづく三十二節にこうあります。

「すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。『わたしに何をしてほしいのか』」。

 

 前回のところで、主イエスの弟子であるふたりの兄弟、ペテロとヨハネとその母は、主イエスに一つの願い事をしました。その時に「どんな願いですか」と主イエスはお尋ねになられます。それは、主イエスの右と左の座に、自分たちが座るということでした。権力を持ちたい。自分もまた支配する者になりたいと願ってのことでした。

 今日の聖書もまた、まるで、このふたりの兄弟と並行するかのとうにして、ふたりの盲人が願いを訴えます。そして、ここでも主イエスは同じように尋ねられるのです。

 「わたしに何をしてほしいのか」と。

 

 そして、実にここに、このマタイの福音書がエルサレムに入る前にはっきりしておきたいと考えていることが明らかにされているのです。

 彼らは主にうったえます。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

 これはささやかな訴えでしょうか。大きな願いであったのでしょうか。主イエスはこのうったえに対して続く三十四節で「イエスはかわいそうに思って、彼らの目をさわられた」とあります。この「かわいそうに思う」という言葉はギリシャ語で「はらわたが捻じれるように」という意味の言葉か使われています。少し前に、岩波書店が新約聖書を翻訳しまして、少し話題になったことがあります。この聖書ではここは「そこでイエスは腸がちぎれる想いがし」と大胆にも訳しました。日本語の美しさというよりも、原文の持つ味わいをそのまま表現したのです。しかし、この言葉の持つ意味ははっきりしたと思います。

 主イエスは、「私を憐れんでください」と叫ぶこのふたりの盲人の姿をご覧になりながら、その悲しみを、ご自分の痛みとされたということです。そして、彼らの願うとおりされたのです。

 

 そこで、私たちが考えなければならないのは、「どんな願いですか」と主イエスに問われて主イエスの右と左の座を占めたいと願ったふたりの弟子には「あなたがたは自分が何をお求めているのか分かっていないのです」と言われ、この盲人たちにその願いを聞かれたことの違いは何かということです。

 そして、ここに、主イエスがエルサレムに入られる前に、明らかにしておきたかった信仰の姿勢が描き出されていると言えます。それは、あなたは憐れみを求めるべき存在であることが分かっているかどうかということです。

 

 自分を憐れんでほしいと叫ぶことは、そう口にすることによって本当に自分をみじめな存在にする言葉であるかもしれません。あまり口にしたい言葉ではないでしょう。しかし、主イエスはそのようにして、主を呼び求めるところに、信仰を見出しておられるのです。

 間違えてはならないのは、かわいそうな自分を見て、自分を慰めているのとは違います。私たちはそのようにして、自分を慰めてしまうことがあります。自己憐憫に浸ることによって、自分はかわいそうな人間なのだから、誰かに優しくしてもらいたいと思うことによって、あるいは、悲劇のヒロインであるかのように考えることによって、どこかに救いをもとめることがあります。しかし、「主よ、あわれんでください」との叫びはそうではないのです。

 そうではなくて、ここで盲人たちがしているのは、自分の目の前を通り過ぎようとしておられるお方に、すべての信頼を表す仕方で叫び求めているのです。「憐れんでください」との叫びは、自分に向けられた言葉なのではなくて、主イエスに向けられた言葉なのです。

 そして、教会はこの言葉から礼拝が始まるのが相応しいのではないかと考えたのです。つまり、私たちは神の御前に立つ時に、神にあわれみを求めなければ礼拝することはゆるされないのではないかと考えたのです。

 

 この物語の結びである三十四節はこのように結んでいます。「イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」

 この「見えるようになり」という言葉は、「再び見えるようになった」という意味を表す言葉ですが、それ以外にも「見上げるようになった」とも訳すことのできる言葉です。

 

 ドイツの彫刻家のエルンスト・バルラハの美術館が北ドイツのハンブルグという港町にあります。この人はヒトラーによって退廃芸術家の烙印を押されてしまいます。戦争で苦しむ人々の姿を描きながら、暴力によって弱者を虐げて行く当時の政治のあり方に、自らの作品で戦った芸術家でした。このハンブルグの美術館に、バルラハの代表的な作品とも言える9つの人物像の彫刻が置かれています。この中でも私が好きな作品は、「信仰者」というタイトルがつけられた作品です。

E.バルラハ「信仰者」

E.バルラハ:耳を澄ます人たちのフリーズ
「信仰者」(Der Gläubige)

 この九つの作品の中でこれだけが天を仰ぎ見る姿を描きました。マントの中から二本の手を出しながら天を仰ぎ見る者の姿が彫られているのです。その顔は何ともいえない信頼と喜び平安が表現されています。この人の作品には信仰者というのは、仰ぎ見る者なのだというメッセージがあります。

 

 このふたりの盲人は目が見えるようになっただけではなかったのです。見上げるようになったのです。仰ぎ見る存在とされたと、聖書の言葉は記しています。そして、イエスについて行ったと。

 この人たちのその後の物語は記されていないのです。その後、どうなったのか。しかし、書く必要もないのです。主イエスを見あげながら、主イエスに従って行ったということで十分だからです。

 主イエスが求めておられる信仰者の姿はまさに、ここにあるのです。どれほどの力強い権力の前に置かれていたとしても、自分は無力な人間にすぎなくても、主イエスを見あげながら生きて行くことができる。それこそが、主イエスが求められたことです。

 立派な立場に上り詰めることでもなければ、人々に対して影響力を持つ人間になることもなかったのです。この姿を心にとめておけば良いのだと言うように、物語はエルサレムへと移っていくのです。

 

 主の前に「主よ私をあわれんでください」と祈りながら、主を仰ぎ見続けること。ただ、主はこのことを私たちに求めておられます。そして、そこに主が与えようとしておられる神の御国があるのです。この受難節の季節を迎えるにあたって、私たちは自分の小ささを覚えつつ、主を見あげながら主に憐れみをもとめるときとして、この時期をすごしていきたいと思います。

 

 お祈りをいたします。

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