・説教 マタイの福音書20章17-28節 「将来を支えるものは何か」
2012.2.19
鴨下 直樹
今日は礼拝の後で今年の教会総会が行われます。特に、二年に一度私たちの教会では役員の選挙を行ないます。長老と執事を選挙で選ぶのです。これはとても大事なことです。特に、今回からこれまで執事として長い間奉仕されたお二人は二年の間、執事としての務めを休みます。そのためにどうしても新しい執事を選ばなければなりません。おそらくみなさんも、誰に投票するか祈りながら考えてこられたのではないかと思います。
主イエスも、ご自分の弟子たちを自らお選びになられました。社会的に立派な地位にいる人を選んだということではありませんでした。また、一般的に美徳とされる謙虚な人というわけでもなかったようです。そのことは、今日の物語をお聞きになられてすぐに気づかれたことだろうと思います。
今日の聖書の言葉はこのような言葉ではじまります。「さて、イエスは、エルサレムに登ろうとしておられたが」と。十七節です。
いよいよエルサレムに上るということを明らかにしておられるのです。エルサレムに上るということは、十字架に向かって行かれるということです。そこで、もう一度弟子たちに大事なことをお話ししておく必要がありました。それが、もうすでに二度なされて、ここで三度めになる、受難と復活の予告です。
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」と十八節から十九節までに記されています。
かつて、主イエスがこの話をなさったときに、ペテロは脇に主イエスを連れていって、そんなめったなことを言うものではないといさめたこともありましたが、もうそんなことはいたしません。皆、弟子たちは主イエスの言葉を理解したのです。主イエスとともに歩み、言葉を聞いている間に、分かってきたのです。
そこで、一つの出来事が起こります。ゼベダイの子たちの母が、つまり、ペテロとヨハネの母親が、ペテロとヨハネを連れて、お願いをしに来たのです。何を願ったのかというと、「この二人の息子が、あなたの御国で、ひとりは右に、ひとりは左にすわれるようにお言葉をください。」と言ったのです。
これまでは一度も、「復活する」と言われて主イエスの言葉には、誰も、何も触れて来なかったのに、ここで、ペテロとヨハネの母は、主イエスの復活の後のことを話し始めたのです。主イエスがよみがえられてから、この二人の息子をあなたの一番大事な地位につけてやってはいただけないかと頼んだのです。
けれども、当然、他の弟子たちからすれば抜け駆けです。そんなことと腹を立てるのは当然のことでしょう。
今日の、教会の選挙のために、あらかじめどなたかが是非とも家の主人に一票を投じてくれ、そうすれば、見返りにあなたがたの願うような教会にしてみせるからなどと誰も言うことはなかったと思います。ペテロとヨハネほどに熱心に執事になりたいとか、長老になりたいなどと願うことはないのかもしれません。
けれども、考えてみますと、私たちの生活している社会では、そのようにして選挙が行なわれます。あなたがたの願っているようにするから、ぜひとも自分に票を投じてくれとお願いしてまわるわけです。それはまるで謙遜な姿のようであるかのように見えて、権力を得てしまうと、途端に態度が変わってしまうなどということが起こる。それが、私たちの社会です。だからこそ、私たちは、どのように主に仕えるのか、ということをもっと真剣に考える必要があります。
そして、ここでペテロとヨハネとその母はどのような思いで、主にそのことを願ったのかということを、まず考える必要があります。
ゼベダイの子たちの母は、ペテロとヨハネとともに何を考えたのかというと、将来の備えです。主イエスは神の国をもたらすと語って来られたのです。神の支配なさる御国を始めると言われて、いよいよ、そのためにエルサレムに向かって行くのです。それは、厳しい道のりであること、苦難であることはもう何度も聞いて来たのです。けれども、その先に、主イエスは新しい神の国を始めようとしておられる。せっかく、主とともに歩んできたのだから、そのときには、確かに地位を得ておきたいと考えることは当然のことでした。
「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりはあなたの左にすわれるようにお言葉を下さい。」
この言葉は主イエスの右と左の座を占めたいという希望です。そうすることによって、神の国で良い地位を得られると考えたのです。この「右と左の座にすわる」というのはどういうことかと言うと「支配する」ということです。
けれども、ここでそのように願った二人に対して主イエスは何と言われたかというと、それを拒絶してはおられないのです。だからこう言われました。二十二節です。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとする杯を飲むことができますか」とお尋ねになると、彼らは「できます」と答えます。
もちろん、ここで主イエスが語られておられる「わたしが飲もうとする杯」というのは、十字架の出来事のことです。簡単にできるなどと答えられるものではありません。けれども、ここでそのように答えた弟子たちを主イエスは退けてはおられません。むしろ受け入れておられます。
けれども、ここで主が言っておられる「自分が何を求めいるのか、わかっていないのです」という言葉が何を意味するのかということについて、私たちもしっかりと理解しておく必要があります。
自分も支配する立場になりたいと、彼らは考えたのです。私たちの生活している世界で「支配する」という言葉はあまりいい意味で使われません。力を行使するという意味があるからです。相手の気持ちなどではなくて、権力を与えられているものが力を行使する。それが、この世の支配です。そして、そのような力を得るために必死になるのです。政治の選挙の姿などはそのまま、その姿が現れています。
けれども、これは私たちの日常生活でも現実的な姿であらわれてしまうのです。家庭や、職場で、誰か力を持ったものが、その場を支配するというのはあまりにも日常的に行なわれていることです。誰かが権力をふるう。すると、そこの力のもとに秩序が築き上げられていきます。そして、そこで抑圧ということが起こり始める。
だから、この世界というのはそれに抵抗しようと、あらゆる努力をしています。例えばここ数年で良く耳にするようになった言葉に「パワハラ」という言葉があります。「パワーハラスメント」と言うわけです。そういう言葉をつくって理解を広げていきながら、自衛しようとするわけです。
しかし、主イエスがなさろうとしておられる「支配」というのはそのようにペテロやヨハネが考えた支配であったのかということを私たちは考えなければなりません。そして、それはそのまま、教会の役員として選ばれるというのは、そのような権力を教会の中で誰かが持つようになるということなのかどうかということも、同時に考えられなければなりません。
主イエスが語っておられる「わたしが飲もうとする杯」とは一体何なのでしょうか。主イエスが築き上げようとしておられる神の国とは、どういうものなのでしょうか。
主イエスは二十五節から二十八節でこのことを明らかにするためにお語りになられました。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなた方の間では、そうではありません。あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」。
この世界では力ある物が権力を持つのです。そのために偉くなりたいと思うのです。けれども、主イエスは言われるのです。「人に仕える人になりなさい」と。
すべての人は上を目指して生きています。少しでもいい学校にはいる。いい会社に就職する。いい人と出会う。健康になる。もっといいものがあると知れば、どんどんとそれを自分のものにしていこうとします。そうすることで、少しでも高いところに上り詰めること、少しでもいい生活を手に入れることが、自分たちの生活の将来を支えていると考えるからです。それが当り前の世界に、私たちは生きています。
そうやって、上を目指して生きていくうちに、落ちこぼれていく人たちが出て来る。そうはなれない人と言うのが出て来る。そうすると、それは仕方がないことだ、そういう人にかまっていては自分が足を引っ張られてしまうのだからと、そういう人を振り切ってでも、上に上り詰めていくのが人生だと、この世界は教えるのです。
けれども、そういう人々の生活の中で、主イエスはエルサレムへと向かって行かれるのです。十字架の道、試練の道、苦しみの道へと自ら足を向けられるのです。そうです。主イエスの歩みは、上へ向かう歩みなのではない、下へ向かって行かれる歩みが、主の歩みだからです。なぜ、下に行かれるのか。そこに取りこぼされた人たちがいるからです。主イエスはそうして、すべての人の下に立たれようとなされるのです。それが、主イエスによって示された愛の姿です。
主イエスがペテロとヨハネに何と言われたか。その言葉を良く見てみると、こうおっしゃった。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。」と言われたのです。主は全く間違った考え方をしているペテロとヨハネとその母に対して言われたのです。
「そうだ、あなたも私の杯を飲むようになるのだ」と。「そうだ、あなたも愛に生きる者になる」と主イエスは言われたのです。今は分かっていないあなたも、愛に生きる者になる。そうです。そして、ペテロは伝説によると、人々がローマで激しい迫害のために逃げていく中を、私はローマに行く、とそこに向かって歩んで行くことができるものへと変えられたのです。
ヨハネもまたローマの大きな迫害の時代を生き抜いて、最後まで神の愛に生きる望みを、あのパトモス島という島流しにされた所から、教会に向けて手紙を書き続けたのです。ふたりとも、愛に生きる者となった。だから、ヨハネはこれこそが愛だと、その第一ヨハネの手紙にも書き記すことができたのです。そして、まさに、そのような愛に生きることが自分たちの将来を築き上げることをふたりはその生涯でしめしたのです。
この主イエスの言葉の中でも特に、今朝、注意して聞かなければならい言葉があります。それは、二十六節の言葉です。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」とあります。
「みなに仕える者になりなさい」。この言葉は「ディアコネオー」という言葉です。「奉仕する者」という言葉のもとになった言葉です。
ドイツにおりますと、時々この「ディアコニー」という働きを耳にします。教会の働きです。社会の中でまさに弱者と言われる人々を教会が支える働きをします。この働きを「ディアコニー」と言うのです。実に様々な働きがあります。ところが、このディアコニーという言葉はそういう社会福祉の働きを示す言葉として残る一方で、教会の執事を意味する言葉としても使われて行きます。執事というのは、この言葉そのままなのです。
つまり、人に仕える働きをする者のことを、執事と読んだのです。これは、初代の教会の時からすでに生み出されました。使徒とよばれた十二弟子たちの他に、執事たちを任命して、さまざまな具体的な人に仕える愛の業を教会はしてきたのです。
もちろん、これは執事たちだけの働きではありません。教会の愛の業を意味したのです。教会と言うところは、人の下に立って人に仕える働きをするのだということを、教会はこのようにして表してきたのです。
そうだ、あなたも愛に生きる人だと、主はペテロやヨハネに語られたように、今、私たちにも語ってくださいます。人の下に立って愛に生きる者と私たちはされるのです。そして、そのような役員を執事を、長老を私たちは主の御心を尋ねながら選ぶのです。そして、お互いにこの主の愛の働きをこの教会が表して行くのです。
今日の説教題を「将来を支えるものは何か」としました。もっと他の題にすべきであったと思いますが、けれども、こう言えると思います。私たち一人一人の人生を将来にある確かさも、そして、これからの教会の将来の確かさも、それは私たちが人に仕えるという主の愛に生きるよって形作られるということです。そして、それは確かなことです。この世の流れではありません。けれども、私たちは主の愛に生きる確かさを互いに知っているのです。お互いに支配しあいながら生きる歩みは悲しみばかりを生み出します。けれども、お互いがお互いを支え合い、愛にいきる歩みは喜びを感謝を生み出します。そして、そのことを、もう私たちは知っています。そのような喜びに生かされているからです。この愛に生きるのです。そして、この愛を覚えながら、この後行なわれる総会にも、望みをもって集いたいと思います。この愛を土台として、私たちの教会は築き上げられるのですから。
お祈りをいたします。