2009 年 11 月 15 日

・説教 「神を待ち望め」 詩篇42篇、43篇

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 22:42

本日は、子ども祝福礼拝でした。

鴨下直樹

今日は先ほど、子どもの祝福の祈りをいたしました。芥見教会では毎年この季節になりますと、子どもの祝福を祈る礼拝をしています。そのためにこの礼拝には子どもたちの姿がいつも以上に見られます。

この子どもの祝福礼拝で共に聞きたいと思った御言葉がこの詩篇第42篇と43篇です。この詩篇は本来二篇が一つの詩篇であったと考えられています。ここには三度にわたって「神を待ち望め」という言葉が繰り返されています。今日、私がこの礼拝にお集いになったみなさんに知ってほしいことは、この言葉に尽きるのです。神に期待し続ける心を、いつまでも忘れないでいただきたいということです。

先週の金曜日、はじめて山田さんのお宅で家庭集会をいたしました。その集会の最初に山田さんは「家の教会というものを大事にしていきたい」と言われました。それぞれの所に立てられている家は、主の教会であるということを忘れないでいたいということです。パウロの伝道も、多くはそれぞれの家庭を教会としてきました。ですから、言ってみれば各家庭が教会であるという理解は、教会が誕生した時の最初の姿であったということができます。それぞれの家庭の中で、主が働いておられるということを覚えることは本当に大事なことです。家庭のなかで主に期待する心が常に育っていくからです。

この集会で「鹿のように」という賛美をいたしました。ワーシップソングと呼ばれている賛美は、私たちの礼拝ではあまり用いておりませんが、素晴らしい賛美がいくつもあります。この「鹿のように」という賛美は中でも有名な賛美です

この詩篇42篇が元になっている賛美です。多くの国で愛されている現代の賛美歌です。

・ワーシップソング 「鹿のように」
谷川の流れを慕う 鹿のように
主よわがたましい あなたを慕う
あなたこそ、わがたて
あなたこそわが力
あなたこそわがのぞみ
我は主を仰ぐ

この歌い始めの歌詞がこの詩篇の第1節の言葉なのです。新改訳と比べてみますと新改訳はこのようになっています。

鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(42篇1節)

この「鹿のように」という賛美も同じです。「鹿が、谷川の流れを慕うように、私の魂はあなたを慕っている」という言葉が多くの人の心をとらえるのです。しかし新改訳やその他の多くの聖書の翻訳では「慕いあえぐ」という言葉が使われています。

鹿が渇きのために水を慕い求めて慕いあえいでいる。おそらく切なそうな声を発するのでしょう。そのように、この詩篇を歌った詩人は、自分の魂は神を慕いあえいでいるというのです。そのように神を求めるということは考えてみるとあまりないのではないかという気がいたします。

そもそも現代人である私たちはここで言われている「渇き」というものをあまり知りません。何日も水を飲んでいないというような状況におかれることがあまりないのです。飢えに関してもそう言えるでしょう。家のどこかには食べ物があり、何もなければどこかで買ってきてレンジで温めればすぐにでも食べ物を得ることができます。便利な時代ですけれども、どこかで大事なものを忘れてしまっているともいえます。便利な生活に慣れてしまって必死に求める、渇いている、飢えているということをあまり知らないので、同じように神も祈ればすぐに答えを与えてくださるものだと思い込んでしまうのです。けれども、事態はそれほど単純ではありません。

この詩人は続けてこう訴えます。

私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。(42篇2節、3節)

詩人は、人から「おまえの神はどこにいるのか」と言われています。それも一日中です。まるでヨブのようにです。あなたに神がいるとは到底思えない、あなたを神は見捨てられているのではないのか、などと他の人から言われ続けるのです。

鹿が、谷に水を求めて出かけて行ったのに、そこには水はなく、ただ嘆くほかない。そのような厳しい姿がここから見えてきます。神を求めて、渇いた心で叫び続けているのに、聞こえてくるのは、ただ、周りの人の「おまえの神はどこにいるのか」という厳しい言葉だけ。そこで詩人は泣くほかない。昼も夜も、涙にくれて、口に入るものといえば自らの涙だけなのです。

渇いている、神に飢え渇いている。どこに神はいるのかと祈り続ける。しかし、この渇いた叫びの口に入ってくるのは自らの涙のみ。それはどれほど厳しい思いでしょう。厳しい言葉はさらに続きます。

5節につづいてこうあります。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。(42篇5節)

新共同訳では6節になります。

なぜ、うなだれるのか、わたしの魂よ なぜうめくのか。(新共同訳6節)

ここで「思い乱れる」とか、「うめく」となっている言葉はヘブル語では「ハーマー」と言う言葉です。北森嘉蔵という日本を代表する神学者がおりました。「神の痛みの神学」という代表的な著作を記した神学者です。この北森嘉蔵は「ハーマー」と言う言葉を文語訳聖書で「痛み」と訳しているところから、神の痛みという概念を見出しました。ですからこの言葉も「痛み」と訳してもいいのではないかと言っています。

ただ、絶望しているのではない。心が痛んでいる。神を慕い求めても、神を見出すことができない。それは心が渇いているというだけではない、痛んでいるのだということです。それほどまでに心痛めて神を慕いあえぐ、ここには、壮絶な神への求めがあります。カラカラに乾いてしまった心が、渇きを通りすぎて痛みにまでなる。それほどまでして神を求める心を人はどうしたら持つことができるのでしょう。私たちが問うべきことは、私たちはこのように神を求めることが果たしてあるだろうかということです。

私たちは気付かなくてはなりません。私たちの神への渇きはどれほどなのだろうかと。私たちは真剣に神に祈り求めているのだろうかと。

詩人は語ります。「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」と、この5節に記された言葉は、この詩篇42篇と続く43篇で三度繰り返されています。それは、神を待つということ以外にないことを表しているからでしょう。

私たちは時折、厳しい状況におかれることがあります。愛する者が亡くなる。病気がいつまでたっても改善されない。問題の解決が見当たらない。そのような時、神が自分の近くにいないと感じます。神から見放されているのではないかと感じる。神は私など愛してくださっていないのではないかと考えてしまいます。それは、よく考えてみれば、単なる自己憐憫にすぎないということが多いのではないでしょうか。ただ、自分が可哀相だと、自分で自分を憐れんでしまう。けれども、それでは神を本当に求めたことにはなりません。いじけていても仕方がないのです。私たちはそのようなところを突きぬけて、それでも神を求めるというところに、何度も何度も立ち続けることが必要不可欠です。

今日、ぜひとも覚えて頂きたいことは、神を待ち望むということです。どんな時にも絶望してはなりません。どんな時にも自分の悲しみの殻に閉じこもってはなりません。二度も、三度も、「私は神を待ち望む」と神の御前に告白することです。現実がどれほど厳しかったとしても、神を仰ぎ見続けることです。心が枯れ果てても、そこに痛みが生じてきたとしても。誰かが、おまえの神はどこにいるのかと責められようと、神を仰ぎ見続けること、ただ、そこにだけ私たちの希望はあるのです。それが、この詩篇を通して私たちに語りかけている神の言葉です。

エルンスト・バルラハという私の大好きなドイツの彫刻家がおります。この人の作品で「仰ぎ見る」という作品があります。私はこの作品のことをはじめカードで知りました。

少し写真をお見せしたいと思います。これは、あるカトリックの書店でカードとして見つけたもので、おもてに「仰ぎ見る」と題がつけられていました。

マントの中から手を出しながら、まるで自分の殻から抜け出すようにこの仰ぎ見る人は、天を仰いでいます。神に向かっています。そんな彫刻です。

ドイツのハンブルグという港町にこのバルラハの小さな美術館があります。今から10年ほど前になりますけれども、ハンブルグにあるバルラハ・ハウスという美術館を訪ねました。

耳を澄ます人たちのフリーズ

耳を澄ます人たちのフリーズ

ここにこの「仰ぎ見る」を含む9つの作品が展示されていいます。作品の名前は「耳を澄ます人たちのフリーズ」というシリーズのようです。そこで、わたしは真っ先に私の大好きな作品の前に行きまして、いつまでもその作品を眺めていたのをよく覚えています。先日、この話をしようと思いまして、この時に美術館で買い求めた作品集を見ていて、その名前が違うことに気がつきました。その作品を見ますと、そこには「グロイビガー」と書かれています。「信仰者」という名前なのです。「仰ぎ見る」という作品だとばかり思っていた私には少しショックだったのですが、なるほどと思わされました。 神を仰ぎ見る者の姿、それは信仰者の姿だということです。


新約聖書では人間のことを「アンスローポス」と言います。これは「上も向く者」という意味です。「仰ぎ見る者」のことを、聖書は人間と言っているのです。もし、人間が神を仰ぎ見ることを止めてしまったら、人間ではなくなってしまいます。このバルラハの「信仰者」という作品は、神をいつまでも仰ぎ求める人間の姿として描いたものです。ここには人間とはそもそもこういう存在ではないかというメッセージがあるのです。

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(42篇5節)

わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(42篇11節、43篇5節)

42篇5節で語り、11節で語り、最後に43篇の5節にも、全く同じ言葉が繰り返されています。ここに、信仰者の基本的な姿があります。ここに、人間らしい姿があります。私たちは天を仰ぎつつ、神を待ち望む者なのです。

今日は子どもたちに祝福の祈りをしました。子どもたちが生涯にわたって神から祝福されて生きることができるためには、つねに天を仰ぎ見、神に期待し、神を待ち望む信仰に生きることです。それ以外にありません。神はどれほどの絶望の中にあったとしても、神ご自身が見えなくなってしまったように思えたとしても、神を待ち望み続ける心の中に働いてくださいます。そこに、神はいてくださるのです。

お祈りをいたします。

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