2009 年 11 月 22 日

・説教 「幸いな道」 詩篇1篇

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:01

鴨下直樹

昨日、JさんとMさんの結婚式が行われました。今年の4月頃からだったでしょうか、お二人はこの芥見教会に来られるようになり、11月に結婚の予定で新しい教会を探しているということでした。それ以来この芥見教会にお二人で礼拝に出席されて、昨日無事に結婚式を行うことができました。本当に、昨日のお二人の姿は幸せそうだと、出席された方みんなが思われたのではないかと思います。

今日の説教題は「幸いな道」といたしました。「幸いな道を歩む人」、「幸せな人」というのはどういう人のことだろうかと考えてみますと、結婚する花嫁と花婿のようだと、誰もが思われるのではないでしょうか。もちろん、生涯を共にする人と出会うこと、そして、結婚することは本当に幸いなことです。このふたりは、生涯を、喜びも悲しみも共にするのです。そして、昨日の結婚式でも説教いたしましたけれども、ふたりは指輪の交換と共に御言葉をそこに刻んで贈りあいました。とてもいいことだと思います。どんな時にもこの御言葉がお互いを支えるようにという願いを込めて贈った聖書の言葉でした。

この二人を支えているのが、御言葉を中心にして自分たちは生きていくのだという覚悟です。そして、今日の聖書が私たちに語るのも全く同じです。私たちの人生が、御言葉を中心として築き上げられていくなら幸いな道を歩むことができるというのです。

この詩篇第1篇は、詩篇150篇全体の序文ともいうべき内容で、この最初に置かれているに、もっともふさわしい詩篇の箇所だと言えます。この詩篇は二つの道と題をつけることができるほど、「幸いな道」と「悪者の歩む道」という二つの異なった生き方の違いがうたわれています。

この詩篇はとても分かりやすい構造で記されています。この前半に記されているのが「幸いな道」です。

この詩篇はまず、1節でこのように記しています。

幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。(1節)

「幸いなことよ。」この語り出しは、マタイの福音書の中にある山上の説教で主イエスが八つの幸いについての教えをされたことを思い起こさせます。この詩篇1篇では、人にとって何が幸いことなのか、幸せとは一体どのようにして得られるのかを、単刀直入に語り出します。そのために、この1節では三つの動詞が用いられています。

悪者のはかりごとに歩まない。

罪人の道に立たない。

あざける者の座に着かない。

「歩く」、「立つ」、「座る」という三つの動詞が否定的に用いられています。この三つの否定的な動詞は、人間が何をしてはいけないかということを語っているのです。ここで語られている三つのことを行ってしまうと、この詩篇の語る「悪者の道」に陥ってしまうと注意を呼び掛けているのです。ですから、これは人間が間違った道に進んでしまう、三つの段階などというようにも言われてきました。

まず、そこで、覚えたいのはここで「悪者」と言われている言葉です。この言葉はドイツ語のルター訳を見ますと、「ゴットローゼン」という言葉が記されています。「ゴット」は神です。「ローゼン」というのは「ロス」、つまり「失う」という言葉と「人」という言葉で「神を失っている人」という言葉が使われているのです。神を失っている人、神を神と思わない人は、「悪者」であると言われているのです。

この神を失っている人は、自らの計画に生きています。自らのはかりごとに頼っています。そして、それが罪を犯す道に立つことになってしまい、ついには、人の生き方をあざけるような者となって、そこに座りこんでしまう。それでいいのだと開き直ってしまうのだというのです。

すべては神を神としないところから始まり、最後にはその生き方に開き直ってしまうことになる。けれども、この詩人はそのような人のことを直接に非難しないで、そのように生きない人はどれほど幸せなことかと語り続けていきます。

まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。(2節)

そのような幸せな生き方をする人は、昼も夜も主の教えを口ずさんでいる人だ、と云うのです。この「口ずさむ」と言う言葉は、「思いめぐらす」というふうに訳すこともできる言葉です。一日中、それこそ、朝から晩まで、主の言葉を心の中に蓄えて歩むのです。

私は以前、宗教改革者マルチン・ルターの祈りについての本を読んだことがあります。もうどういう書物だったのか思い出せません。その中で、ルターは祈りは短ければ短いほどいいと書いているのですけれども、別の所で、私は毎日8時間祈るとも書かれていたのです。私は、どういうことなのか色々考えました。祈りはだらだらと祈ればいいのではなくて、短い言葉で端的に語る祈りが大事だと言う説明を読んで、私はずいぶん感動を持って読みました。言葉というものは不思議なもので、短い言葉であればあるほど、その中に色々なものを集約して語ることができます。ところが、だらだらと説明しようと、言葉を加えれば加えるほどに、意味が薄まってしまうということがあるということに私はその時初めて気付きました。けれども、そのルターが私は8時間祈るというのは、どういうことなのか。これは私の想像ですけれども、恐らくルターは8時間というのは、仕事をしている間ずっとということだと思うのです。そして、ルターはこの仕事の間中、神に向かっているということなのだろうと思うのです。昼も、夜もルターは仕事の間、絶えずこの聖書の御言葉を噛みしめるように味わっていたに違いないのです。それが、私は8時間祈っているという言葉になって表現されたのです。

実際、ルター訳の聖書では、この「口ずさむ」という言葉を「思いめぐらす」と訳されていますから、恐らくその時、ルターはこの詩篇1篇のことを考えながら語ったのではなかったと思えるほどです。

しかし、そのように聞くと、仕事をしている間、一日中主の御言葉を思いめぐらすなんてことは実際はできないのではないかと思われる方があるかもしれません。けれども、例えばローズンゲンという毎日御言葉を読むために、旧約聖書と新約聖書の御言葉が一節づつが記されたものがあります。すでに、来年のためのをこの芥見教会の方も何人か注文しておられます。あるいは、芥見ネットといって、毎朝、聖書の一節を心に留めることができるようにと、メールで配信するということもやっております。そのような御言葉を少し心に留めて一日生活してみると、そのようにして自分に与えられた御言葉が、自分の生活を支えているという経験をされる方は少なくないのではないかと思います。

そのように、御言葉によって毎日の生活が築きあげられていくというのは、自分では思ってもみないような豊かな祝福がそこにはあるということなのです。ですから、この詩篇は続けてこのように記しています。

その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(3節)

木が豊かに葉を茂らせて、実を実らせるというのは、当たり前のことではありません。水はけの悪い所に植えられた植物は、油断してしまうとすぐに枯れてしまいます。自分では少しだけのことなのにと思っていても、意外に水をやっていない時期が長く、枯らしてしまうことが私にはあります。木が豊かに実を実らせるためには、ちゃんとした場所に植え、ちゃんと水をやり、日が当たり、土が豊かでなければなりません。

もし、私たちが昼も夜も御言葉を思いめぐらしながら、生活を築き上げていくなら、それはまさに、水路のそばに植えられた木のように、私たちの生活は日ごとに、豊かになっていき、やがて実がなり、その喜びを豊かに味わうことができるようになるのです。そのような生き方は、神などいないとうそぶきながら、自分で自分の計画を立てて、神に逆らい続け、やがて人をあざけりながら、自分の生き方はこれが正しいなどと、自分で自分を慰めるような生き方とは、まるで変わったものとなることでしょう。

ここには、神が約束された、幸いな生き方があるのです。

4節からは後半の「悪者の道」についてが記されています。これについては、それほど、丁寧に説明するまでもないことです。それはまるで「風がふきとばすもみがらのようだ」とあります。

私は、昔ながらの脱穀のやり方を見たことはありません。今はすべて機械で出来てしまう時代です。けれども、昔はお米でも、麦でも取れると、まず脱穀をして、その殻と実を分けるために、風の吹く外で、恐らく籠か何かを手にしながら、実を少し高く放りあげるのでしょうか。そうすると、殻は風に飛ばされますが、実だけは落ちて来るので実と殻とを分けることができます。殻には命がありませんから、軽いのです。ただ、風に飛ばされて捨てられてしまうのです。

そのように、外からは立派なお米や麦に見えたとしても、籾しかないなら、つまり、命がなければただ風に吹き飛ばされて捨てられてしまうのです。そのように、神と共に生きていないと、人はいきいきと生きることができないので、それは本当に空しいものとなってしまいます。自分で、自分の生き方はこれでいいのだと、強がったところでそれはどうすることもできません。自分の人生は傍らからは整って見えたとしても、実がないのです。命がないのです。それが、人が神を失って築き上げる生活の姿です。

この詩篇が語るのは、この一つです。神と共に生きる幸いな道を歩むか、それとも、神を失ったまま、その先に不安を抱えた道を歩むかのどちらかです。それ以外にはありません。私たちは、この二つの道を自分で選びとらなければならないのです。

「幸いなことよ」この詩篇は私たちにこう語りかけています。ユダヤ人のある哲学者はかつてこの箇所を「おお、このような人は幸せだ!」と訳しました。私たちの人生において、この幸せが与えられるとしたら何という喜びでしょう。「あなたは何をしても栄える」と云うことのできる人生が得られるとしたら、それは、どれほど大きなことでしょう。

この詩篇が語る、この幸せの秘密は、一つのことです。「聖書を読み続ける」ということです。これ以外にないのです。この聖書の言葉を、口ずさむ、一日中この聖書の言葉にを心に留めることです。

私は、説教の学びをするために説教塾というグループで学びをしています。その中で、よくドイツの神学者ルドルフ・ボーレンの書いた書物を通して学びをいたします。このボーレンという人がいつも大事にしていることがあります。それは「黙想」ということです。つまり、御言葉を、昼も夜も口ずさむとされているこの詩篇に出て来る言葉です。

この「口ずさむ」と言う言葉をヘブル語で「イェーゲー」と言うのですが、ボーレンはこの詩篇の1篇からの説教の中で、この「イェーゲー」と云う言葉は、何かを探してクークーと喉を鳴らしている鳩を言い表すために用いられている言葉だと言います。そして、「この鳩から、聖書をどのように読み、聖書についてどのように黙想するかを学んでいかなければならない。」と、自分の子どもの頃の体験を語っています。

ボーレンの子どもの頃、家でピアノを弾いていた時のことです。そのピアノの音色に惹かれて一羽のハトが家の窓辺にとまって、クークーと喉を鳴らすのだそうです。ところが、窓がピアノの音と、鳩とをさえぎっているので、鳩はあちこちと歩き回っていたのだそうです。それと同じように、御言葉を読む時に、ガラスが自分と聖書の世界を隔てていることがある。それで、私たちも鳩のように、クークーと鳴きながら、窓が開けられるまで、その音の秘密の中に入りこむことができるようにしなければならないというのです。このボーレンと云う人は、それは、自分自身のために説教をし続けることだと言います。これはちょっと面白い説明ですが、これが、「御言葉を口ずさむ」、「思いめぐらす」、「黙想すること」なのだと言うのです。牧師の説教を聞いて、アーメンと祈ったらそれで終わりというのではなくて、聞いたそこから、今度は自分の説教をそこから始めていくのです。自分で、自分に説教を続けていくことが、この御言葉を口ずさむということなのです。

そのためにはトレーニングが少し必要かもしれません。自分で自分に説教をし続けていくということは、すぐにできないかもしれませんが、今日の説教は自分に何を語られていたのかと、その不思議な世界の中に自分も入りこむために、鳩がピアノの音の正体を知りたいとクークーと鳴きながら、それを探し求めるように、私たちもその御言葉の世界に自分も入るために、この言葉を口ずさんでいくことなのです。

それは時々みなさんが説教を聞きながらしていることです。「自分ならこう語るのに」。そのように思いながら説教を聞くことがあるでしょう。それでいいのです。そんなことを思ったら牧師に悪いなどと考える必要は全くありません。「自分ならこう語る、そうすれば、もっと分かりやすいのに」と思うことを、自分に向けて語りなおしていくのです。そういうことです。そのようにして、御言葉を自分に向けて語り続けていくと、この御言葉の世界の窓が開かれて、入っていくことができるのです。

そこに、「幸いな人となる道」が隠されています。私たちが、御言葉を思いめぐらしながら、自分の心に御言葉を語り聞かせていく時、主イエスが傍らにいてくださいます。聖霊があなたの中で働いてくださいます。そして、その御言葉の世界の扉を開いてくださるのです。そのような信仰の歩みを続けていく時、私たちはこの聖書が語る「おお、このような人は幸せだ!」という、幸いな生活を実を持って体験していくことができるでしょう。

この道を選び取ること。これは私たちにとって必要不可欠です。ぜひ、この神の言葉の与える幸いな窓の中に、足を踏み入れて頂きたいのです。聖書は、日ごとにあなたに開かれているのですから。この聖書が、あなたを幸せにする、ただ一つのものなのですから。

お祈りをいたします。

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