2009 年 11 月 29 日

・説教 「系図に示されし神の御計画」 マタイの福音書1章1節-17節

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鴨下直樹

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 今週から教会歴でアドヴェントを迎えました。待降節とも言います。主イエス・キリストの御降誕を待ち望む季節を迎えたのです。このアドヴェントと言いますのは、教会の暦では一年の初めになります。それで今朝はアドヴェントの蝋燭の一本目に火が灯りましたし、タペストリーも紫色に変わりました。このアドヴェントの季節には「待つ」ということを表す紫色を使うのです。教会の暦では一年の最初の日になります。新しい年を迎えて最初にすることは、キリストがおいでになることを待ち望むことだと、教会では長い歴史の間、そのように覚えてきたのです。それは、主イエスがクリスマスにお生まれになったように、もう一度この地においでになる日を待ち望む信仰を忘れないようにしようということでもあります。

 このアドヴェントから、私たちの教会では共にマタイの福音書から新しく御言葉を聞き続けていこうとしているのです。マタイの福音書は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」という言葉で始まります。この「系図」とされている言葉ですが、これは少し面白い言葉で書かれております。この言葉は「創世記」と訳すこともできるし「起源の書」というふうに訳すこともできるのです。先日まで、私たちは創世記から御言葉を聞き続けておりました。そこでも、もうすでに何度も系図が記されておりましたので、「また系図の話しか」と思われる方があるかもしれませんが、それほど系図というものがユダヤ人たちにとって大事だということが分かって頂けるのではないかと思います。この創世記は、この世界の成り立ちについてが記されています。新約聖書の成り立ちについてがまず記されていると言ってもいいのです。けれども、このマタイの初めの部分も「創世記」と言うことができる言葉で書かれているのです。アドヴェントを迎え、教会の暦で新しい年が始まった時に、このように新約聖書の初めから御言葉を聞くということも良いかなあと思います。そして、この福音書の最後には「世の終わりまで」という言葉で結ばれておりますけれども、そのように、「初め」から「終わり」まで一貫して主イエスの福音を語ることによって、新しい聖書が始まるのだと、このマタイの福音書は意識して描きだしているのです。

 

 今日の聖書の箇所は、先ほどご一緒にお聞きしましたように、様々な名前が続きます。聖書朗読をする方はいつも以上に気をつけて読みませんと、すぐに読み違ってしまいそうになるほど、あまり聞き覚えのない名前も連なっております。

 聖書を初めて手にとって読もうと言う方には、大抵の方が「まず新約聖書から読むといいですよ」などと聞くことがあると思います。そう言われて聖書を手にとって読み始めると、すぐに知らない名前ばかりが続くので、これでもうすでに聖書を読むことを断念してしまったなどということを耳にすることは少なくありません。とても残念なことですけれども、気持ちは良く分かります。何か聖書には良い言葉が書かれていると期待をして読み始めると、いきなり出鼻をくじかれてしまうのです。なぜ、新約聖書の最初にこのような系図がでてくるのかとさえ思います。それは、恐らく今の時代に生きている私たちにとって、系図というものがそれほど大事だと考えられていないからだと思うのです。

 最近は大勢の方が犬を飼っておられます。この教会に来られる方でも、犬を飼っておられる方は少なくないでしょう。そうすると、犬の血統書と言うものを見ることがあります。確か、三代か四代くらい先までその犬の家系図というのが載っております。ところがこの犬の血統書というのは手にとって見てもあまり面白いものではありません。知らない名前ばかり出てくるからです。せいぜい、その中に面白いものがあるとすれば、その家系にチャンピオン犬として選ばれた犬があればそこに「CH」という印がついているということくらいでしょうか。それが唯一といってもいい犬の血統書を見る楽しみと言えるかもしれません。こういう話をしますと、家に帰って見てみようと思う方があるかもしれません。そのように、血統書というようなものを見ても、全く分からない。知りもしない名前ばかり出て来る家系というものをいきなり見させられても、興味が湧くということは少ないのです。このように、新約聖書の初めに系図が載っていても、聖書を読み始めたばかりの者にとっては良く分からないのです。けれども、わざわざそれが新約聖書の初めに出てくるわけですから、系図というものが重要な意味をもっているということは分かるのではないでしょうか。まして、この系図はイエス・キリストの起源の書とか、創世記などともいうことができるのですから、この系図がそれほど重要と考えていることはよく分かっていただけるのではないでしょうか。

 

 この系図を見てみますとヨセフまでの系図であるということが良く分かります。そして、この系図が強調して記しているのは、ダビデという王が、この系図の中心であるということです。「アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる」と17節にまとめられていますけれども、そのように、ダビデの子孫がキリストなのだということをこの系図は語っているのです。

 先ほど私たちは讃美歌21の248番「エッサイの根より」という讃美歌を歌いました。この讃美歌はイザヤ書11章1節の御言葉から歌詞が作られているのですが、このイザヤ書にはこういうふうに書かれています。

 「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ」。

 これは、ダビデの父であったエッサイの子孫から新しい時代が始まると言う預言の言葉として理解されてきました。この讃美歌を先週の祈祷会で礼拝に先立って歌いました。すると、ある方からこういった内容の質問がありました。「エッサイの根からイエス様は生まれたと歌っているけれども、聖書は主イエスがマリヤから生まれたとしている。そうするとこのマタイの福音書の系図がマリヤの系図を言っているのなら分かるけれども、ヨセフと何の関係もないではないか」というのです。ヨセフはダビデの子孫であったとしても、マリヤはヨセフによって生まれたのではなく聖霊によって生まれたのであれば、エッサイの根から生まれたというのはどういうことなのかというのです。大変するどい質問だと思いました。私はそれまで、そんなことを一度も考えたことがなかったのです。それで、実はこの説教をするために、どうしてもその質問に答えなければならないのではないかと思いまして、あらゆる注解書やマタイの福音書の研究所を読んだのですが、ほとんどの聖書学者たちはこの問題には触れていません。けれども、その質問は的を得ていると思います。色々な書物を探して調べてみたところ、辛うじて一冊の本だけがそのことについて書いていました。それによると、「今日の私たちが疑問に思うほど、当時の読者はダビデの子孫としてイエスが生まれたということに何の疑問もいだかなかったのだろう」というのです。つまり、ヨセフがマリヤを自分の妻と迎え入れた時に、それはもうダビデの家系に入れられたのであって、マリヤからキリストが聖霊によって生まれようと、それはダビデの家系から生まれたと自然に考えられたということです。

 それは、この系図の他の人物からも見て取ることができます。というのは、この系図には四人の女性の名前が出てきます。これは当たり前のことではありません。系図というのは、日本でもそうだと思いますが、ユダヤ人たちのこのような血統というのは男性が重んじられるのであって女性が重んじられると言うことはまずありません。ですから、ここに四人の女性の名前が入れられるというのは決して当たり前のことではないのです。

 そして、この四人の女性はみな、ユダヤ人ではない異邦人とみなされた人々であったということも注目に値します。これは興味深いことですけれども、私たちは、ユダヤ人、神の民イスラエルというのは生粋のユダヤ人達だけが神の選びの民であると思って聖書を読んでいるところがあります。けれども、この系図を見ていますと、異邦人の女性であったとしても神の民に加えられている。異邦人であったとしても、「生ける真の神を信じて神の民として加わるならば神の民として数えられる」という、新約聖書の信仰を先取りしたことがもうすでにこの福音書の最初に記されているのです。

 

 この系図の中にはルツという女性が出てきます。このルツはモアブの女性でイスラエルの民ではありません。けれども、そのような異邦人であったとしても、姑のナオミの信仰を見ておりまして、ナオミの信じている神に、自分も従っていきたいと願ったのです。それで、自分の夫が亡くなった時に、ナオミと一緒にこの神を信じてイスラエルに戻ってきたのです。イスラエルを導かれる神を信じて、ルツはイスラエルの民に加えられたのです。そのことを聖書はしっかりと書き記しているのです。

 これは他のラハブも同様です。このラハブはヨシュア記にでてくる遊女です。けれども、このラハブはイスラエルの民がエジプトから出て来た時に、神がさまざまな御業を行ってイスラエルを導かれたことを耳にします。それでヨシュアの偵察がラハブのいた町に偵察に来た時に、この人々をかくまって、城壁から籠をおろして逃がしてやったのです。この女性もまた異邦人でありながら神を信じることによって神の民に加えられたのです。ですから、この女性も異邦人であったのにもかかわらず、神を信じることによってイスラエルの民に加えられたということができます。

 ですから、マリヤがダビデの家系の直系でなかったとしても、ヨセフが迎え入れたのだからダビデの子孫として数えるというのは、この時代にしてみれば当然だったと言えるのです。異邦人であったとしても、イスラエルの民に加えられるのですから、マリヤがダビデの家系に数えられるということも、彼らにとっては当たり前のことであったということができるわけです。

 他の二人の女性の名前を見てみますと、この一人の女性はタマルです。3節に出てくる最初の女性です。このタマルという人は、系図からも分かるようにユダの妻であるかのようにして記されております。ところが、このタマルはユダの妻ではありません。本当はユダの子であったエルという息子と結婚するはずであったのです。ところが、このエルは神に逆らいまして、神がこれを打たれて死んでしまいます。そのために、結婚したものがその血を絶やすことがないようにという律法に基づいて、弟のオナンと結婚することになります。ところが、このオナンとタマルの間には子どもができません。このオナンも神に逆らったために打たれて死んでしまいます。それで、ユダはタマルに対して、次の子どものシェラが成人したら結婚するようにと約束したのですが、三人目の息子まで死んでしまうのではないかと恐れて、この息子とタマルを結婚させませんでした。しかし、それでは血が絶えてしまいます。それで、タマルは何をしたかと言いますと、道端に立つ遊女のふりをしてこのユダとの間に、子をもうけたのです。このタマルは異邦人であるかどうかはっきりしないのですが、ユダヤ教の資料では異邦人とされています。

 そしてもう一人女性の名前があります。それはバテシェバです。しかし、ここにはバテシェバという名前は記されておりませんで、6節にこう記されています。「エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」と。このウリヤはダビデのもとで戦った勇士の名前ですが、いつも「ヘテ人ウリヤ」と記されていました。外国人だということです。外国人の妻となったこのバテシェバも外国人、異邦人とみなされます。まあ当然と言えば当然でしょう。このバテシェバがウリヤが戦争に行っている間に、ダビデは自分のものとしてしまって子をもうけるのです。そしてダビデはこのウリヤを殺してしまいます。聖書はここで、「ダビデにウリヤの妻によってソロモンが生まれ」と書いておりますけれども、ダビデの子どもは、ダビデの妻ともなっていなかった者から生まれたのだということを、この系図は記しているのです。

 そのようにこの系図を見てみますと、実に人間のどろどろとした罪の姿が浮かび上がってきます。男と女の罪の姿がそのままここに現れているのです。決して、この系図はダビデを立派な家系の王とは描いておりません。ですから、そのような血の流れを持った者としてイエス・キリストはお生まれになった。イエス・キリストは、まるで人間の醜い罪をそのまま背負うようにして生まれてこられたのだということがこの系図を見ると分かるのです。

 この系図は、これからこの主イエス・キリストのことを知るためにどれほど大切なことが最初に記されていたかが良く分かるのです。このお方は、信仰の父と呼ばれたアブラハムの子孫であって、その後さまざまな人間の罪の歩みの中でこの信仰の民に加わりたいと願う女達も加えながら、ダビデを王として迎えるようになった。そして、このダビデ自身も罪を犯しながらも、人々はキリストと呼ばれるお方を待ち望んできた。そのようにしてキリストと呼ばれたイエスがこの世界にお生まれになったのだということを語っているのです。

 過去を振り返るならば、綺麗な歴史だとは言えないのです。それは、聖書だけではない、この系図だけではないでしょう。私たちのことを振り返ってもそうでしょう。自分の過去を振り返ってみれば、いくらでも罪を見つけだすことができます。すべて真っ白だと言うことのできる者は一人もおりません。けれども、そのような人々の醜い罪の歴史の中に、それをすべて背負うようにして、キリストと呼ばれたイエスがお生まれくださったのです。これが、イエス・キリストの誕生です。

 

 

 この系図をずって見ていきますと、「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ」という書き方で続きます。これは昔の文語訳聖書ではこうなっていました。「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み」というふうに訳されていたのです。そうすると、アブラハムがどうやってイサクを生んだのかということが気になります。やはり生むのは女性ですから、アブラハムがイサクは産めないだろうということになる。それででしょうか、口語訳聖書が出ました時に、ここは「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父」と、このように訳されたのです。けれども、新改訳聖書はこれを「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ」とうふうに致しました。これは原文の味わいを少しでも出そうという試みです。というのは、この言葉は「アブラハムがイサクを生んだ」と訳してもいい言葉だからです。

 この芥見教会の前任者でありました後藤喜良先生は、御自身の書かれた書物のなかでこんなことを書かれています。後藤先生が聖書を初めて手にして呼んだのは高校一年生の時のことだったようです。それで、聖書を読み始めると、「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み」と書いてあるので、「聖書の時代は男性が子どもを産んだのか!」と驚かれたようです。後になってそれは間違いだと気付いたようですけれども、その後から、聖書は子どもを産む時に「男が子どもを産む」と書かれているとおりに、男性がしっかりと子どもを産むことを考えて、女性と協力して子どもを産む。そのようにしっかりと男性が責任をもつことが祝福となると確信するようになったと言います。 子どもを産むのは男に大きな責任があるのだということを、聖書は初めから語っているではないかと言うのです。ですから、子どもが出来てしまったから結婚しなければならないというような考えは、聖書は初めから考えていないということができるのです。

 口語訳聖書は「アブラハムはイサクの父であり」というように訳したことにも意味があると思います。つまり、このマタイの福音書の系図は「父の系図」であるということができるからです。これに対してルカの福音書に記されている系図は「子の系図」であると言われています。ヨセフがマリヤをその体にいる子どもを含めて受け入れたのも、ヨセフの父としての姿がよく表わされています。これまでの出来事は、過去は自分とは関係ないと言って拒絶していくのではなくて、そこで起こっている出来事を、ここに記されている父たちは受け入れていった。ユダにしてもそうです。ボアズにしてもそうです。この系図に記された父たちは、そこで起こった出来事をしっかりと受け止めて、子を生んで育てていった、あるいは妻を受け止めていった歴史であるということができます。そのように、この系図は、人間の罪を受け入れてお生まれくださった方、私たちが主とお呼びしている主イエス・キリストの物語りとなっていくのです。

  この「キリスト」と言う言葉は、新改訳聖書の下に注が載っております。そこには「メシア」と書かれております。「油注がれた者」という意味です。旧約聖書の中には、この油を注がれた者というのは、祭司、そして王、そして預言者でした。人々を神ととりなしをする祭司、そして、人々を治め導くのが王の役目です。そして神の言葉を人々に語って導くのが預言者です。この「メシア」、「油注がれた者」はやがてギリシャ語で「キリスト」と呼ばれるようになり、また、それは「救い主」と呼ばれるようになっていきます。この救い主であるキリスト・イエスは、この三つの職務をすべて備えた「救い主」として、私たちに示されていくのです。

 主は人とすべての過去の過ちを引き受けるようにしてお生まれになりました。私たちの様々な過去も同じように引き受けて下さる。このお方は私たちの過ちの歴史であろうと、それを引き受けて下さり、この神の民の歩みの中に私たちを加えて下さる。

 私たちと神との関係をこのキリストはとりなしてくださいます。このキリストは私たちの王となって私たちを治めてくださいます。そして、このキリストは私たちに御言葉を与え、私たちを導いてくださるのです。このお方がお生まれになる。それがクリスマスです。そして、この方が来られることを待ち望むのが、このクリスマスまでのアドヴェントの期間です。この主が私たちのために生まれてくださって、私たちのためにその救いをもたらしてくださる。生まれてくださるということは、私たちの中で生きてくださるのです。その救いを私たちにもたらしてくださるのです。

 この救い主である主イエスを仰ぎ見つつ、このアドヴェントの季節を迎えましょう。主は私たちの中に生まれてくださるのです。 お祈りをいたします。

 

 すべての罪を身に受けて生まれてくださる私たちの主なる神様。私たちの歩みも様々な罪の中にありました。けれども、あなたはそれを受け入れて生まれてくださいます。心から感謝いたします。主よ、どうか私たちのために生まれてください。私たちを救ってください。私たちの罪を担ってください。そして、私たちの祭司として、私たちの王として、私たちの預言者として、共に生きてください。私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン。

 

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