2009 年 12 月 6 日

・説教 「インマヌエル・主が共におられる」 マタイの福音書1章18節-25節

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第2アドヴェント主日説教

鴨下直樹

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 先ほど、私たちは共に洗礼と転入会をなさった方々の証を聞きました。いつも、このような証を聞く時に私が思うことは、神がこの一人一人と共にいてくださるということを覚えることです。

 主イエスを信じる。自らの救い主として受け入れる。このお方をキリストと信じる。それは、インマヌエルであられる、主が共にいてくださってはじめて可能となるのです。

 

 今日は、いつもよりも短い時間ですけれども、共に御言葉に耳を傾けていきたいと思います。先週からマタイの福音書を通して主の御言葉を聞いております。この福音書にはこの書き出しのところに、先ほども言いましたけれども「インマヌエル」という言葉が語られます。そして、この福音書の最後に、もう一度「インマヌエル」という言葉で締めくくられています。「神は私たちとともにおられるという意味である」と、新改訳聖書にはカッコ書きで記されています。新改訳はこれは後代になって説明として補われた言葉であって、もともとの本文にはなかった言葉ということでこれをカッコ書きにしているようです。

 この朝、みなさんと共に考えたいと思っているのは、この「インマヌエル」、「共にいてくださる神」を私たちはどこで見出すことができるかということです。

 

 この朝私たちに与えられています、クリスマスの物語りの中心を占めているのはヨセフです。ヨセフのことが語られているのですから、ヨセフに焦点を当てて聖書を読んでみますと、このヨセフが非常に厳しい決断に迫られていたことが良く分かります。婚約していた妻マリヤが、まだいっしょになっていないのに、身重になったことが分かったのです。

この聖書には「聖霊によって身重になったことがわかった」と18節にありますけれども、当のヨセフにはそんなことは分かりません。この時のヨセフはどれほど思い悩んだことでしょう。

 当時は婚約していたというのは、結婚と同じような意味を持っていました。この時代の結婚というのは、まずそれぞれの家が結婚に合意します。その次に、花婿の側から花嫁の父に花嫁料が支払われます。そして、結婚することを公に発表するのです。その後で、一年の間それぞれの両親のもとで別々に生活し、一年後、両者が一緒に生活を始めます。この時のヨセフの場合は、一年の間、それぞれの両親の間で暮らしている時期にあたりました。今で言えば婚約期間ということになりますけれども、当時のユダヤの法律的にはヨセフはこの時点でもうマリヤは妻であるということになります。ですから、この間に、妻のマリヤが他の人との間に子どもを設けるようなことがあれば、その妻は申命記22章23節-24節によると石打ちの刑によって処罰するという罰則に値することになるのです。

 聖書には「ヨセフは正しい人であった」と記されています。正しい人というのは、そのような律法をちゃんと守っている人であったということです。ですから、このままでは妻マリヤを石打ちにしなければならない。けれども、ヨセフはそうしたくなかったのです。マリヤを愛していたからです。それで、「内密に去らせようと決めた」のでした。つまり、マリヤが身重になってしまったことを、公にしないで、こっそり離婚しようとしたのです。

 これはどういうことかと言いますと、全部、その悲しみを自分だけのものにすると決めたということです。公にすれば、身の潔白を証明することができます。花嫁料も返してもらえます。自分が裏切られたという気持ちを、あらわすことができます。けれども、ヨセフはそれをしないと決めたのです。妻のためにあらゆる犠牲をはらうという姿がこのヨセフの中に見られます。それは、マリヤを守るためです。

 新約聖書が最初に語る人間の姿は、このヨセフの姿です。悩む者の姿です。苦しんでいる姿です。そして、妻を愛する者の姿だと言ってもいい。クリスマスというのは、そのような非常に深い悩みの中で起こった出来事です。そして、そのような人間の姿というのは、二千年たっても何も変わりません。人は誰もが、このヨセフのように不安と孤独を抱えています。けれども、聖書が私たちに語るのは、そのような中で、誰にも噺うことができないというような孤独の中で、そして、深い悩みの中で神と出会うということなのです。

 

 その聖書はこのように書いています。20節-21節をお読みします。

 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 

 深い悩み、悲しみ、孤独を感じている中で聴こえてくる神の言葉があるのです。誰の夢枕にも御使いが立って現れるということはないかもしれません。しかし、悲しみの経験の中で御言葉を聴くという経験をすることがあるのです。

 

 椎名麟三という、プロテスタンの小説家がおりました。この人の小説の中で「私の聖書物語り」というよく読まれた本があります。この本の最初にクリスマスの出来事のことが書かれています。椎名麟三は、最初にこのヨセフの夢に天使が現れたというところを読んだときに、大変腹を立てたそうです。夢のせいにすればなんでも正当化されると思っているからだと言うのです。「その子は聖霊によるものだ」ということを、一体誰が信じられるのか。結局のところ、理由がないのと同じではないかと言います。ところが、この「理由がない」ということが椎名麟三を打ちのめしたのです。それは一番恐れていたことだからと。そう言って、その中で、自分の子どもの頃のことを書いています。小さな時に言うことを聞かないと母親に「お前みたいな奴は知らない」と言われます。すると、それに反抗してこう言った。「じゃ、なぜ僕を生んだ」。すると、母親は応えて言います。「犬や猫に産まなかったんだから、幸せだと思いな」と。それで、もう一言も言い返せなくなった。自分がこうして生きているということは、理由がない。でも、生きている。死ぬことも同じで、理由がない。死にたくないのに死ななければならない。それは愛も同じだと言って、椎名麟三は本当のものには理由がないのではないかと言うのです。

 もちろん、理由はあるのです。しかし、それは神の側の理由です。私たちには受け止められなくても、神はそのうちに理由を含めているのです。そして、その神が、聖霊によって生まれたのだと言うのです。

 もちろん、椎名麟三はこのように最初は抵抗しているのですが、復活の項目で見事な信仰の告白をしています。受け止めることができるようになるまで様々なところを通ります。しかし、ヨセフは違います。「聖霊による」と言われて。それを受け止めるのです。自分では理由にならないような理由を、神がそう言われるのであればと受け止めるのです。

 

 神がそこで示された理由とはなんでしょうか。あなたは深いところで悩んでいるのか。誰にも打ち明けられないで孤独を感じているのか。私があなたと共にいよう。そのことがわかるために、あなたのもとにイエスをおくろうと言われるのです。このお方が「インマヌエル」のお方なのです。「神が共におられる」と言われるお方なのです。

 神があなたとともにいる。そのことを受け止めることが信仰です。今日洗礼を受けたSさんに与えられたのは、まさにこの信仰です。そして、ここにお集いの私たちに与えられているのはこの信仰です。私たちはこのインマヌエルであるお方を、私たちの悩みの中で、孤独の中でこそ、見出すことができるのです。もし、私たちが孤独であるままであれば、悩みの中に置かれたままで感じるのであれば、それは、共にいて下さっている神に、あなたの方が目をそむけているからです。そんなことは、理由にならないと、自ら背を向けてしまっているからです。しかし、主の言葉を心に受け止めるなら、そこに、共にいてくださる神がいてくださって、私たちの様々な不安と孤独を、このお方が取り除いてくださるのです。

 私たちが、このお方の言葉を、受け止めるなら、神は、私たちの心の中で、今日、生まれてくださるのです。

 

 お祈りをいたします。

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