2009 年 11 月 8 日

・説教 「言葉にならないものを聞き、見えないものを見る信仰」 詩篇19篇

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:25

鴨下直樹

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 昨日のことです。毎月第一土曜日には、教会で「ぶどうの木」という句会が行われています。昨日は牧師をしておりました私の父である鴨下わたるも参加いたしまして、短く御言葉から説教をいたしました。「見えないものと、見えること」という題で、ヘブル書11章1節の「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と、3節の「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」という御言葉から話されました。その句会で、江崎成則(しげのり)先生という名古屋から指導に来てくださっておられる方が、この説教を聞いたあとに、興味深い話をしてくださいました。「いま、信仰は見えないものを見ることだと話をしてくださったけれども、俳句でもまったく同じことで、句に詠まれた、見えないものをいかに詠むかということが、私には一番興味のあるところだ」と言われたのです。句の中で全部を語ってしまわないで、そこにある見えないものを詠むことが俳句の楽しみということなのでしょう。私はこの江崎先生のお話を聞きながら、まさに今日の詩篇を読む楽しみもそこにあると思わされました。

 

 この詩篇19篇は詩篇の中でも良く知られた箇所です。特に、最初の1節の言葉に、多くの人が心惹かれるようです。1節にはこうあります。

 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

 この言葉は、この言葉の中に秘められている見えない世界というのがあって、それぞれにさまざまな事を感じながら、この詩に語られた神の創造の御業に心を寄せるのです。

 

 少し前のことです。教会のある方から口語訳聖書を頂きました。口語訳というのは、文語訳聖書という非常に厳格な日本語の聖書についで翻訳された聖書ですけれども、最近は新改訳聖書や、新共同訳聖書などが訳されて、今日ではほとんどの教会でそれらの聖書を用いておりますので、口語訳聖書が用いられることはだんだん少なくなってきましたが、この聖書の日本語は大変美しい言葉で訳されております。そのために、長い信仰の歩みをしておられる方は、何種類もの聖書が家にあることになります。夫婦ですとその倍ですから、その方もどうしたものかと思っていたところ、私が口語訳の聖書は新訳の部分しか持ってないと話しましたら下さったのです。話が長くなってしまいましたけれども、その口語訳聖書でこの詩篇の19篇は次のように始まっています。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみてのわざをしめす」。

 最近の新改訳聖書や新共同訳聖書は「天」としているのを、この口語訳聖書は「もろもろの天」としているのです。考えてみますと、「もろもろの天」という言葉が何を意味するかはよく分かりません。というのは、日本語には名詞を表すのに複数形をあまり使わないからです。

 私が子どもの頃のことですけれども、私が育ちました当時の木曽川教会の隣に、ドイツの宣教師たちの子どものための学校がありました。今は帰国されておりますけれども、エルケ・シュミッツという宣教師が、この学校で教師をしておりました。このシュミッツ先生は非常に言語が得意な方でして、ドイツ語は当然ですが英語、フランス語そして日本語も良くできる方でした。お隣どうしなので、よくシュミッツ先生と一緒に食事をいたしました。ある日、一緒に食事をした後で、このシュミッツ先生が「いまから私は歯を磨いてくる」と言いました。それを聞いておりました牧師である私の父が言いました。「シュミッツさん。歯を磨いてくるという日本語は正しくない。歯というのは一本の歯だけをさすので、複数形は『はっぱ』という、これからは『はっぱを磨く』と言うようにしたほうがいいですよ」、と言ったのです。もちろん、これは父のいたずらでしたが、それからしばらくの間、この宣教師が「葉っぱを磨いてくる」というのを聞いては楽しんだものです。何だか意地悪な家族のようですけれども。複数形でものを表現する人たちにしてみれば、歯は一本でも沢山でも同じ歯と言うのは少し分かりにくいことです。ですから、「葉っぱ」と言われた方が本当のような気がしてしまうようです。

 同じように。同じように、と言っていいかどうか分かりませんが、古代のユダヤでも天は複数形で表わしました。天は一つだけではなくて、様々な天に分かれているのです。たとえば、雲霧のかかる天、大気の天、太陽のかかる天、星のかかる天などというふうに分けて考えたのです。

 このように、たった一つの言葉の違いからも、今と、この詩篇が書かれた時代の違いを知ることができます。

 

 私たちはふだん何気なく天を見上げます。今日は雲が多い日だとか、空が澄んでいるとか考えます。そして、どこかで、その向こうには宇宙があって宇宙には無限の広がりがあるなどということを思うこともできます。それは現代人である私たちは知識としてそういうことを知っているからです。けれども、この旧約聖書の時代の人々というのはもっと素朴でした。天を仰ぎ見る時に、その不思議さに驚かざるを得ないのです。なぜ、時間がくれば空の色は変わるのか、なぜ星が見えるようになり、月があれほど明るく輝くのか、太陽はなぜあれほど熱く照らすことができるのか、不思議なことばかりです。そして、認めざるを得ないのです。これは神がなされた業、それは天を仰ぎ見た時に、私たちに神の創造の物語を語りかけているではないかと。

 昼は昼へ、夜は夜へとその神の創造の不思議を語り続けている。声になって私たちに聞こえてくることはない。けれども、そこには言葉があって、その言葉が世界のすみずみまで響き渡っているのだと。

 

 私は以前、船に乗ったことがあります。学生たちを北海道につれて行くキャンプのためです。その時、船というのを初めて乗りましたので島が見えなくなる海の真ん中に出た時に、天を仰いで、不思議な気持ちになったことを忘れることができません。良い天気の日でした。空には雲ひとつかかっていません。上を見れば澄みわたる青い空、周りを見渡せば真っ黒と言った方がいいような深い海が広がっています。他には何もないのです。空と海の間に、自分がぽつんと一人でいるような、何とも言えない不思議な感覚です。思わず、口から「天の父よ」と言う言葉が口をついて出てきました。そして、そう口にすることができることが、何ともえいない喜びを私の心の中にもたらしたのです。

 この雄大な天を仰ぎ見る時、現代人である私たちも、素朴にその神の御業の偉大さに心打たれ、この神を、私は「父よ」と呼ぶことがゆるされているという素晴らしさに、心打ち震えるという経験を誰もがするのではないかと私は思います。理屈ではなく、神の偉大な創造の御業を、神が造っておられるところを目にしたことはないけれど、聴き取ることができる喜びが私たちには与えられているのだと思うのです。

 

 さきほど、讃美歌21の181番を賛美いたしました。あまり慣れない歌ですので、少しうたいづらかったかもしれません。この詩篇19篇の賛美ですけれども、この中では「天は神の栄光を物語り、大空は御手のわざを示す」と歌いました。これは、新共同訳聖書の翻訳からとられたものです。新改訳の「語り告げ」と言う言葉も良いとも思いますが、この「天は神の栄光を物語っている」という訳も、なかなかいい翻訳だと私は思います。天は、神の栄光を示す物語りなのです。その物語は、現代になろうとも語り告げられているのです。言葉となって聞こえなくても、聞き手はその物語を聞くことができるのです。

 

 最初に、俳句の会の江崎先生の言葉を紹介しましたけれども、「見えないものを読み取る」というのが俳句の世界にあります。私はキリスト者が俳句を詠むというのは、まさに、この言葉になっていない、見えない、天の神の栄光の物語りを聴き取る作業だと私は思うのです。

 「その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた」(4節)とあるとおり、エルサレムから見ればまさしく地の果てであるこの日本でも、天の神の栄光の物語りを聴き取っている。そういう会が教会にあるということは、私は素敵なことだなと思っています。

 

 

 そして、この詩は4節の後半から、天におかれた太陽へと視点が移ります。天の神の栄光の物語りは、全地に、地の果てまで届いている。それは神がお造りになられた太陽を見れば分かるでしょうと、この詩篇の作者は語ります。

 

 神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(4節後半、5節、6節)

 

 今日は、色々な聖書の翻訳の話をしておりますけれども、この詩篇は読み比べてみると、様々な違いがあって面白いのです。たとえばカトリックのフランシスコ会訳の聖書がありますが、最後の6節を、新改訳では「その熱を、免れるものは何もない」となっているところを、「仮ずまいにもどる道からはずれることがない」と訳しています。これはヘブル語の母音を少し読みかえると、「熱」と言う言葉が「仮ずまい」という語になるのだそうです。

 このフランシスコ会訳で少し変わった訳を試みているのは、太陽が東から昇って、西に沈んで行くように、東の幕屋から花婿に譬えられた太陽が、地上を行き巡って、天の果てから天の果ての西の仮ずまいまで走り去って行く様子が歌われているのだということになるようなのです。これはもちろん、ひとつの解釈ですけれども、世界の端から端までこの太陽の暖かさにいだかれる様子が見事に歌われているということができます。いずれにしても、天の栄光の物語りは、言葉ではないけれども、太陽の熱を通しても語られているのだという、まさに最初の話したように、見えないものを、読み取らせようとしている詩人の姿がここにも浮かび上がっているということができるのではないかと思います。

 

 ところが、これまで天と太陽に目を向けていたこの詩人は、この7節から突然、主題を変更いたします。

 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのないものを賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(7節、8節)

 

 この詩篇第19篇には大きく分けると二つに分かれています。6節までの前半部分の天の栄光の物語りの部分と、7節からの主の戒めである律法がどれほどに素晴らしいものであるかを歌った部分とにです。多くの聖書学者などは、ここからの内容があまりにも大きく異なるため二つの異なった詩が、一つにされてしまったのではないかと考える人もいるようですけれども、この詩を良く見てみると、1節から言葉にならなくとも天が物語ってきた神の栄光というのは、ここにきて、主のみおしえの中に、神の戒めの中にこそ生きていると言わざる負えなくなった詩人の信仰がここから歌われているのです。神の栄光は、自然を通してもあらわされているけれども、やはり、聖書の中に、神の御言葉のなかにこそ生き生きとあらわされていると言わなければなりません。

 

 宗教改革者ルターはこの詩篇19篇の1節から説教をしています。この説教はこのように始められています。

 「福音は、神のみわざを宣べ伝える以外の何ものでもない。福音は、神がなされることを語り聞かせるもので、そのこと自体が神の栄光を語り聞かせることであるからである。なぜなら神のみわざを語ることが、たしかに神の栄光を帰するからである。」

 「福音は神のみわざを語ることである」、ルターはこの詩篇の説教をそのように始めます。それは自然によってであろうが、聖書によってであろうが神のみわざを語ることが、神に栄光を返すことになる。ルターは全く自由に福音を語ります。この詩篇の作者が、この詩篇の前半と後半を別のものとみなしていない事を、ルターは短い言葉によって端的に言い表していると言えます。つまり、天を仰ぎみて、神の御業を思うことも、神の言葉である聖書を通して神のことを思うことも、どちらも神の御業だからです。ルターはこの説教を終始「福音」と言う言葉で語っているのです。ルターはこの1節からしか説教をしていないのに、詩篇の第19篇全体の主題をしっかりとらえているのです。

 

 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。(7節)

 

 ここで語られている「みおしえ」と言う言葉は「トーラー」というヘブル語です。つまり、「律法」のことを指しているのですが、これは神がこの世界に与えた法律という意味です。神の秩序です。ですから、聖書と言い換えても差し支えないのですが、この「主のみおしえ」に従って生きるならば、天を仰ぎみて偉大なる神の御業を思いながら心が打ち震えるように、疲れて、自信を無くしている者を、神は立ちあがらせ、足取りを軽くし、喜びにあふれさせることができるというのです。文字通り、神のみおしえである聖書に従って生きるならば、この天が青々と澄みわたり、海が広々と広がっている世界を創造し、今も保っておられる神が、そのルールに従って、私のような者であっても、立ちあがって生きることができるようにしてくださるのです。それは、まさに福音です。この詩篇が最初から、最後まで貫いている一つの主題です。つまり、ルターの言うところの神の御業の素晴らしさです。

 

 ですから、この詩はこう続きます。

 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。(9節、10節、11節)

 

 主の御言葉に従って生きることは、どんなものよりも甘い人生を与えてくれるとこの詩人は語ります。

 少し前のことですけれども、教会員のYさんの家で蜂を飼い始めたそうです。今週の金曜日に、Yさんの家で家庭集会が持たれますので大変楽しみにしているのですけれども、この蜂の巣箱を私は一度見てみたいと思っているのです。というのは、少し前に、この蜂たちから採った蜂蜜と蜂蜜の巣を分けていただきました。巣の中にびっしりの蜂蜜が入っています。もう見るだけで美味しそうな蜂蜜の巣なのです。

 この詩篇の詩人はおそらく自分でもこの蜂の巣から蜂蜜をとってなめた経験があるのでしょう。この忘れられないような経験が、主の御言葉に従って生きる生活にそのまま譬えられるというのは、それほどに印象的な出来事が何かあったに違いないのです。聖書に従って生きることは、蜂蜜が与えてくれる幸せにも勝るものだという経験です。それほど、神の御言葉に従って生きることは、豊かな報いがあるということを、詩人は体験的に知っているのです。

 

 ところが、この詩篇は続く12節から突然悔い改めに変わります。

 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。(12節、13節前半)

 

 詩人はここで自分を振り返らざるを得ないのです。神の御業があまりにも大きいことを思い起こしたのでしょう。この世界をつくり、太陽の熱を毎日与えているばかりか、神の戒めがこの世界を支配しておられるお方が、自分の生活にも大きな影響を与えている。それは本当に豊かなものだと認めざるを得ない。そうすると、このような偉大な神の目に留まっている私とは何者なのかと、自らを問うほかないのです。すると、たちまち不安が襲うのです。私はこの神の前に相応しい存在であろうか、自分はこの神に捨てられてしまったらどうなるのだろうか。気がつくならば悔い改めざるを得ないのです。この神と共に生きる以外に、何が自分にできるだろうか。そう考えるならば、神など自分には必要ないと思うその傲慢さが、自分を支配することがないようにと祈るしかなくなってしまうのです。だから自身は続いてこう祈ります。

 

 それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。(13節後半、14節)

 

 詩篇は、続いてこのように物語っています。言葉にならない言葉を何とか表現しようとしていた詩人はここにきて、ついに自分の口から出る言葉に思いが留まります。神の御前で受け入れられる者であるために、自らの口にする言葉にいたるまで、この神の御言葉、御業が身に沁みついていなければならない。そのために、心の思いと、自らの言葉とが、この神の御前に受け入れられますようにと。

 気がつくと、天を仰ぎみて、讃美をしていたはずであったのに、自分を振り返っているうちに祈りとなってこの詩篇は締めくくられています。

 神の御業に驚きながら、このお方を讃えているうちに、自然に祈りへと導かれていくというのは、ごく自然な心の動きです。海の真ん中で、そのように祈ることも、小さな自分の部屋で静まって神に祈ることも、本来同じことです。その中で覚えられていることは、ただ、神の偉大な御業です。

 

 私たちにも、同じように祈りの言葉が与えられています。讃美の歌が与えられています。それは、私たちがこの天地を造り、私たちを支配していてくださる真の神に、自分の心を注ぎだすことです。この天を造り、地を支配しておられる神は、私たちに言葉にならないものを聴き取らせ、目に見えないさまざまな神の世界の不思議さを見させてくださいます。聖書はそれを信仰と呼んでいます。この信仰によって、私たちは豊かな神の言葉の世界に喜んで生きることができるのです。

 

 お祈りをいたします。

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