2011 年 12 月 4 日

・説教 マタイの福音書17章22-27節 「主イエスのなさった献金」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2011.12.4

鴨下 直樹

 今朝の説教の題を「主イエスのなさった献金」としました。月報で礼拝の説教題を先にお知らせしておりますから、それだけで、今朝はあまり説教を聞く気がしないなぁとお思いの方もあるかもしれません。献金の話をすると聞くと、何だか少し身構えた気持ちになるからです。反対に、教会の会計の執事などは、どこかで期待しているのかもしれません。いずれにしても、今日の聖書の個所は、主イエスが献金をなさったという出来事が記されているところです。ですから、それはいったいどういうことかと興味を覚えることのできるテーマであることに違いはないと思います。

 今日の聖書の個所は二つのテーマの出来事が記されています。一つ目は二十二節から二十三節までの二度目の受難の予告が弟子たちに告げられているところです。そして、二つ目は、その後の二十四節からの税金にまつわるペテロとの出来事です。なぜ、こんな取りとめもない二つの出来事が続いて記されているのか不思議にすら感じるところです。

 もうすでにマタイの福音書から御言葉を聞き始めて二年がたちます。そこでみなさんはマタイという人物は非常に緻密にこの福音書を記していると言うことに気づいておられると思います。どの出来事もちゃんとした意図があって記されているのです。

 

 そこで、まず注意深く見てみたいのはこの最初の出来事です。つまり、主イエスが苦しみにあうということをもう一度予告されました。一度目の時もそうでしたけれども、ここでもまた不思議に思うのは、主イエスは苦しみにあうということを語ると同時に、三日目によみがえるということをすでに語っておられます。けれども、苦しみにあうということについては弟子たちは反応をしめしていますけれども、三日目のよみがえりについて何の反応も記されていません。まるで、聞いてはいても頭の上を通り過ぎてしまっているかのようです。これについて、昔から多くの聖書学者たちがなぜなのだろうかと考えて来ました。ただ、明らかなことは、自分の理解を超えたことが語られる時に、それはここで弟子たちがしているように、ただそれは通り過ぎて行く言葉のようになってしまうのかもしれません。

 ここで、マタイの意図していることは明らかです。それは、いよいよ主イエスが受難の道へと足を踏み入れて行かれるのだと言うことを描こうとしているのです。ですから、この二十二節で「彼らがガリラヤに集まった時」と書いています。この言葉は、注意深く読んでみますと、おかしな言葉であることが分かります。いつも、主イエスと集まっているのです。それを、わざわざ「集まっている時」と、まるで特別なことでもあるかのように記しているのです。実はこの言葉は「集結した時」というようにも訳すことのできる言葉です。わざわざ集まったのです。何のためかというと、いよいよエルサレムに向かうためにです。エルサレムに向かう。それはそこで過ぎ越しの祭りが行なわれるということがありますが、同時に、主イエスの十字架への道行がはじまるということです。

 

 そうすると、不思議なのは、この次の出来事です。そのようにして決起して集まったのに、この二十四節からは他の弟子たちの姿は見当たりません。まるで、主イエスとペテロしかいなかったかのように描かれているのです。もちろん、そういう日もあったと思います。ペテロにしてみれば、そんな出来事は非常に貴重な経験であったはずです。

 当時、イスラエルの人々は二十歳以上の男子はこれを払うように定められていました。出エジプト記の第三十章の十一節から十六節に記されています。少し長いですがお読みしたいと思います。

主はモーセに告げて仰せられた。「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。二十歳、またはそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納物を納めなければならない。あなたがた自身を贖うために、主に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。イスラエル人から、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これは、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための記念となる。」

 ここに記されているのは、神殿税をすべてのイスラエルの二十歳以上の男子が聖所のシェケルで半シェケル、つまり当時の二日分の労働賃金にあたる額を払うことになっていたということです。出エジプトには一年に一度とは書かれてはいませんけれども、次第にこの税は毎年集められることになったようです。そうすることによって、神の民であることに喜びを見出していることを表したのです。しかも、興味深いことに、神殿のために使うのだから、じゃあもっと沢山払いますということもできませんでしたし、家は貧しいので少なくしてくださいと言うこともできませんでした。誰もが均等にこの税を納めることになっていたのです。それは、誰もが同じように負担するのです。何故か。「これはあなたがた自身の贖いのため」です。みなが、神に救われたのだから、みなでこれを出すのだと決めたのです。そこには、お金持ちも貧しいという考え方はありません。当時のイスラエル人でいえば、みなが同じようにエジプトの奴隷であったところから、神の前に等しく救いだされたのです。そのことを忘れないようにしようとしたのです。誰がこれを決めたのかという、神ご自身がこれを決められたのです。

 

 このペテロの家は、主イエスがカペナウムでの伝道をした時の拠点となっていました。その拠点にいた時のことです。「宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。『あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのですか』」と尋ねたと二十四節にあります。ペテロはすかさず「納めます」と答えます。

 これが事の起こりです。先ほどお読みした出エジプト記を見ますと、すべての人が払うことになっているわけですから、ペテロが「納めます」と答えたのは当然であったと考えることもできるでしょう。

 しかし、ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白し、この前のところでは、変容の姿まで見ているのです。神ご自身が、神殿のために税金を払う。考えてみればおかしな話です。ですから、「いえ、先生は払いません。なんと言ったって神の御子なんですから」答えることもできたはずなのです。

 

 さて、「納めます」と答えた後です。ペテロはこれをどう主イエスの言うべきなのでしょうか。自分だけでこっそり払うつもりだったのか、それとも、主イエスにたずねるつもりだったのか、それはここに記されていません。しかし、驚くことに、このことについて主イエスの方からたずねてきたのです。

 二十五節をお読みします。「彼は『納めます』と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言いだされた。『シモン。どう思いますか。世の王たちは誰から税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それとも他の人たちからですか』」

 この時、ペテロはびっくりしたに違いありません。まさに、ペテロが考えていることそのものをお尋ねになったからです。これは、簡単に言ってしまえば、わたしに払う義務があると思うかという質問です。王は、自分の家族のために税を取り立てたりはしません。だから、ペテロは「他の人たちからです」と答えています。すると、主イエスはそこでこう言われています。「では、子どもたちにはその義務はないのです」と。

 ここで主イエスが答えておられる「子どもたち」というのは、主イエスだけをさしているのではありません。ペテロも指して言われた言葉です。つまり、神の子どもたちは、もう神の子どもとされているのだから、神殿のために、税を払う必要はない。

 

 けれども、実際はどうしたのかというと、税金をお払いになりました。二十七節。「しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

 実に小さな奇跡が記されています。ペテロ以外の他の誰かが知る必要もない、まさに小さな奇跡です。魚を釣ったらその中からスタテル銀貨が見つかる。これは四ドラクマであると欄外の注に記されています。宮の納入金はいくらかというと、これも二十四節の注にありますけれども、二ドラクマです。つまり、ちょうど二人分の銀貨が出てくるのでそれで税金を払うと言うのです。

 なぜ、払うのか。それは、「つまづきをあたえないため」と説明されています。もし、主イエスが税金を払わないならば、人々はこの人は神を大事にしていない、神殿を軽んじていると考える。だから、そうならないために、わたしたちは払おうじゃないかと言っておられるのです。

 

 マタイはこの「つまづく」という言葉を何度も使っています。信仰を持とうとしている人が、それで信仰をもつことができなくなる、小さなことだけれども、それが原因で信じることができなくなるのです。

 そのもっとも大きなつまづきとなるのが、献金の問題です。それは、今日もそうであるのとどうように、主イエスの時代からそうだったようです。そして、マタイは主イエスがいよいよ受難の道を歩もうとしているところで、まず最初に記したのがこの献金のつまづきのことであったと理解することもできます。

 

 何よりも、ここでペテロがそのことをどうしたらよいかと考えたのです。人の手前、やった方がよい、神殿に献金するなどということはイスラエルの民ならみんなやるべきことでした。だから、「納めますよ」と答えたのです。しかも、それは自分たちが神に救われたことを忘れないためにするという意味があったのです。

 また、当時の人々はこうも考えた。献金しないとどうなるか。神殿に納めるべきお金を納めないと、それを神様がどのようにお考えになるか。これは、旧約聖書の中に何度もでてくるテーマでさえあります。まず、神のことを第一にすることを、旧約聖書は、特に預言者の時代はこのことが非常に大事に書かれています。そうすると、献金しないと、自分たちの生活は守られないのではないか。神様は祝福してくださらないのではないかという恐れが出て来ます。そうやって考えていくうちに、何か献金がぎこちないものになってくるのです。献金しないと祝福してもらえない、そういう神は信じるに値するのかと考えたり、献金をしてもそれは義務を果たしたという思いだけが残って、神の救いの御業を忘れないためというようなことは、次第に薄れていっていまっていくのです。

 そうすると、いつもこの献金は過ぎ越しの祭りの一か月前に集められたと言います。これは、イスラエルの民が今日でも大切に祝っているお祭りです。先月、ドイツに行った時に、ベルリンのイスラエルの大使館の前を通りかかりました。すると、そこに過ぎ越しの祭りのために使う仮庵が作られていまして、置かれていました。その期間は、今日でも家の中に住まないで、家の外に仮庵をつくりまして、そこで生活します。そうして、神がイスラエルの長男を守ってくださったことを今でも覚えているのです。

 けれども、当時、このような献金はだんだんと形だけが残りまして、まさに税金のように取り立てられるようなシステムに代わって行きました。そうすると、いつのまにか義務感だけが残りますから、いよいよ、献金をしなくてもいいのではないかという思いを持つ人々がでてきます。そして、主イエスも、この税金を払わない人々なのではないかと、当時周りからみられていたようなのです。

 神殿税を納める。献金するということは、イスラエルの人々にとっては昔から定められた大事な決まりごとですから簡単に軽んじることはできません。そして、本来の意図は、神の贖いを覚えるためのものです。そこで、主イエスと弟子たちが納めないとどうなるか。そこで、多くの人々は不信感を持つようになるのです。神の子であるから、私たちは神の子なのだからそれをしないと言って献金をしないことよりも、主イエスがわたしたちも人につまづきを引き起こさせないために払うと言われたのは、まさに主イエスの配慮でした。

 

 

 しかし、ここで実に面白いことが起こっているのです。主イエスが苦しみにあわれるということで、弟子たちは悲しんだということが記されています。苦しみを受けるメシヤというのはそれこそ弟子たちにとってみればつまづき以外のなにものでもありません。それに対しての配慮はないのです。けれども、献金については配慮なさった。これは一体どういうことなのでしょう。

 さらに、これから先のことを言ってしまうと、主イエスはエルサレムに向かいます。十字架の道へと向かって行かれます。そこで、人々は次々につまづいて行きます。信仰から離れていきます。これまで主イエスの話を聞き、奇跡を目の当たりにして、主イエスのまわりには常に多くの人々がいたのですが、その人々はどんどん去っていってしまいます。つまづいてしまったのです。主イエスがここでこんなに配慮しているのにです。

 私たちがそこで知らなければならないのは、そこでほんとうのつまづきのもとになっているものはなにかということです。

 

 主イエスが、苦しみを受けられる、やがては十字架につけられるということは、大きな犠牲を払われたということです。献金もお金という犠牲を払うという意味で言えば犠牲でしょう。そこで起こるつまづきとは何かということ、主イエスのように自分もなるのだとしたら、そのような犠牲を払うことはちょっと考える必要があるということです。

 献金でおこるつまづきも同じことです。自分が何かを得られるということについては、それほど問題はないのです。奴隷から救われるということ、解放されるということは嬉しいことです。けれども、毎年一度、二日分の労働賃金を納めるとなると、そこで考えてしまう。そんなにする必要があるのかと考えるのです。

 三百六十五分の二です。それでも、おしいと思える。今日の教会は、十分の一の献金ということを教えられています。今朝、日々の聖句、ローズンゲンを用いて聖書をお読みになっておられる方々は、創世記二十八章二十二節の御言葉を読みました。ヤコブが神に祈った「あなたが私にあたえられるものの十分の一をささげます」という言葉です。これが、この献金の土台になっている言葉です。この時以来、神の民は神に十分の一を捧げるようになったのです。これは、どこの国でも同じです。すべてのキリスト者は毎月の収入の中からそのようにして十分の一を献金として捧げます。決して少ない額ではありません。犠牲ということだけ考えてしまうならば、誰もがそこで立ち止まって考えるのです。

 まして、ここで主イエスが、ペテロと一緒に、わたしたちは神の子なのだから、「献金しなくてもいい」と言われて、ここで献金をなさらなかったらきっと教会でも、献金するということを教えることはなかったでしょう。けれども、主イエスはなさった。そのために、魚を釣りに行かせて、その魚から銀貨を見つけるということまでして、献金をなさった。

 そんな小さなことでつまづいてほしくないからです。そして、何よりも本当の犠牲を払うのは主イエスご自身だからです。私たちは、その犠牲を払ってはいません。

 神から見捨てられるなどという犠牲を、私たちは払えるはずがないのです。そんなことは誰にも耐えられないことです。その本当の主イエスの犠牲の意味を知る前に、二ドラクマでつまづいてしまうのだとしたらあまりにも残念です。

 

 だから、ここでまず、主イエスはここでつまづくことがないようにと、配慮してくださったのです。私たちに良く分かるように、主イエスもペテロも、ここで献金をおささげになったのです。

 

 これは主イエスの愛の奇跡の御業です。ペテロにだけ、ひっそりと示された小さな奇跡であったのかもしれません。けれども、マタイはその物語をここに入れることによって、主イエスの苦しみの道が、まさに、私たちの苦しみを担うための歩みであったのかを示したのです。

 主は私たちの負うべき犠牲を負ってくださる。私たちのつまづきを、取り除こうとしてくださる。私たちを愛していてくださることを見えるようにしてくださるのです。ここに、大きな主イエスの愛の姿があるのです。

 

 お祈りをいたします。

 

 

 

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