2011 年 11 月 27 日

・説教 マタイの福音書17章1-20節「本当の主イエスと出会う時」

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2011.11.27

鴨下 直樹

 アドヴェントを迎えました。アドヴェントというのは、クリスマスを待ち望む季節のことです。先週の日曜日に大掃除をして、礼拝堂も奇麗にクリスマスの飾りがされて、このアドヴェントの季節に、主を待ち望む喜びを共に覚えたいと思っています。このアドヴェントの期間に私たちはきっといくつものクリスマスの音楽を聞き、また家族や友達とどのようにクリスマスを過ごすかを考え、またテレビやラジオでもいくつものクリスマスにまつわる物語に耳を傾けることでしょう。クリスマスは、主イエス・キリストのご降誕を祝う日です。

 「ご降誕」と今、言いましたけれども、この言葉はまさに主イエスがお生まれになったことを言い表している言葉です。天から降りて来て、お生まれになられたということを、「降誕」と言い表しているのです。まさに、クリスマスは、天におられた神が人となられたことを覚えてお祝いする日です。

 そして、このアドヴェントに私たちが今聞いた御言葉がこの主イエスの変貌の出来事の個所です。お聞きになって分かるように、少し不思議な出来事が記されています。今日の聖書の個所は少し長いということもあって、できるだけ簡単に説明したいと思います。これは、キリストが天におられたころのお姿を弟子たちに幻の中でお示しになられた出来事が記されています。

 

 今日の個所のはじめのところに、「それから六日たって」と一節に書き始められています。この「それから」と言いますのは、前の十六章の出来事のことです。ここでペテロがイエスのことをはじめて「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白いたしました。けれども、その後で、主イエスは、「わたしは苦しみを受けなければならない」と言われたのです。苦しんでやがて殺されてしまうキリストという姿を、当時、ペテロをはじめとする救い主、キリストを待ち望んでいた誰もが理解することはできませんでした。このペテロの信仰告白と、主イエスの受難の予告という出来事の後に起こったことが、今朝、私たちに与えられている御言葉です。

 それが、この冒頭の「それから」という言葉の意味です。また続いて「六日たって」とあります。これは七日目にという意味ですけれども、主イエスは自分が苦しみにあるキリストであるという大事なことをお示しになられてから、この出来事が起こるためにそれだけの日数を要して準備をなさったということです。ですから、今朝、私たちに与えられている御言葉は、それだけ重要な出来事が記されているということを覚えておく必要があります。

 

 さて、それで、主イエスは何をなさったかというと、主イエスはご自身のことをお示しになるために主だった弟子の三人、つまり、ペテロとヨハネとヤコブだけを連れて高い山に行かれたのです。そして、この山の上で、主イエスの姿が変貌します。二節に次のように記されています。

 「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった」。

 「太陽のように」とか「光のように」と表現されているようにまさに主イエスがここで光り輝いていたのです。それはまるで天そのものであるかのようなお姿を、主イエスはここで弟子たちにお示しになられました。それは、クリスマスに主イエスがこの地上に来られる前に備えておられたお姿に違いないのです。これは、ここで主イエスがまさに、神の人そのものであることを、弟子たちにお示しになられたということです。まさに、神の子であり、キリストであるということが、ここで明らかにされたのです。

 

 それで、この個所は「主イエスの変貌」とか、「変貌山」などと呼ばれています。昔から多くの画家たちがこの出来事をことを数々の絵に残してきました。それは画家たちの心をこの出来事がとらえたからです。ぜひ描いてみたいと思ったのです。それもそのはずです。主イエスが、ここでまさに天の輝きに照らされている姿を、弟子たちの前に明らかにされたからです。弟子たちはここで主イエスの本当のお姿、天でのお姿にお会いしました。それがどれほど衝撃的な出来事でした。

 

 先週、突然ではありましたけれども、前任の後藤先生が説教してくださいました。前もって知らせていなかったこともあって、みなさんも驚かれたと思います。その説教は後藤先生の伝道説教と言ってもいいほどの力強い伝道の言葉に満ちていました。そこで、ローマ人への手紙の八章二十八節から三十節の御言葉から語られました。「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」

 今、二十八節と二十九節の途中までを読みしました。ここに、神はわたしたちは御子のかたちと同じ姿に召してくださったと記されています。また他の個所でもパウロは語っていますが、私たちはキリストのお姿を見るときにキリストの姿に変えられると語られています。

 先週私たちは後藤先生を通して、「わたしたちは御子と同じ姿にあらかじめ定められた」という御言葉を聞きました。私たちの完成された姿、それは、キリストのようになることだと聖書はいたるところで記しています。つまり、ここで弟子たちはここでキリストのありのままの姿を見たのです。

 この出来事の後で、主イエスは「人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見た幻を誰にも話してはならない」と言われたと九節にあります。

 ですからこれは幻の中でおこった出来事ということになります。けれども、幻であったとしても、ここで三人の弟子たちは主イエスがお語りになられた神の国というものがどういうものなのか、私たちの救いというものがどういうものなのかを、ここで見ることがゆるされたということなのです。主イエスがお語りになられた神の国とは、まばゆいばかりの光に包まれている主イエスのように、私たちもそのような天の輝きに包まれて、キリストのようにされるのです。

 そして、このことは秘密にしておくように言われました。何故なのでしょうか。こんなすばらしいことであれば、みんなに話せばよいのにと思います。来ることのできなかった他の弟子たちに話して聞かせれば、きっと他の弟子たちもより深く主イエスを信じることになるのではないかと思えます。けれども、それはゆるされませんでした。なぜなのでしょうか。それは、主イエスの復活の出来事なしに、このことが正しく理解されないからです。私たちに与えられている福音は、私たちが将来立派な人間になるとか、将来が確かに保証されていると漠然と信じているわけではありません。私たちの将来は、このキリストにかかっているのです。私たちがまさに、キリストのように変えられるという約束も、主イエスの十字架と復活がなければ何の意味も持たないのです。

 

 ここで主イエスに身にまとっておられた光り輝くお姿は、主イエスがあのクリスマスの夜に野原で羊の番をしていた羊たちが見ることのゆるされた天の輝きそのものであったに違いないのです。まさに、ここで神の完全な姿として、主イエスは天の輝きをそなえて弟子たちの前に自分を明らかにしてくださったのです。それは、あなたがたの救いとは、このようになることなのだということをお示しになるためでした。

 

 ですから、ペテロは言ったのです。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と四節にあります。

 自分たちの住まいのことなど考える必要もないほどに、この主イエスとモーセとエリヤのための幕屋があって、そこにいられるのならばもう何もいらないと思えるほど、いつまでもここにいたいと思ったのです。それほどにすばらしい天の栄光の姿をペテロたちは見たのです。

 

 すると、五節に次のように記されています。「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして雲の中から『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい』と言う声を聞がした」。

 主なる神が、みずからの声で、これこそがわたしの愛する子、彼の言葉を聞きなさいと、まさに天からのお墨付きを与えられたのです。イエスこそが、神の御子なのであり、彼の言葉は真実なのだと。

 ここで、私たちが聞きとらなければならないのは、この「彼の言葉を聞きなさい」という言葉は何を指しているかということです。これは、もちろん、主イエスの言葉すべてと理解することも大事なことです。けれども、ここで直接的に言われているのは、主イエスが語っているように「イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と十六章の二十一節で語られたことが実現するのだということを語っているのです。

 

 さて、主イエスの弟子たち、ペテロとヨハネ、ヤコブがそのような天の輝きを目にしていた時、残りの弟子たちは何をしていたのでしょうか。それが、続く十四節から二十節に記されています。それほど丁寧に説明する時間はありません。それで、一枚の絵を紹介したいと思います。それはラファエロの描いた「キリストの変貌」、あるいは「キリストの変容」という題の付けられたものです。

 この絵は上の半分にキリストの変貌が描かれています。そして、下半分にはこの十四節以下の出来事、主イエスが一緒にいない弟子たちは、てんかんで苦しんでいる息子が連れて来られますがどうすることもできなかったという出来事が記されています。

 

 かたや、山の上では神の栄光の姿を見ている弟子たちがいる。しかし、地上では病に冒された子どもをどうすることもできない弟子たちの姿が描かれているのです。このラファエルの絵画はそのことを非常に的確に描いています。それはまるで、教会の説教を聞くと、なんでもうまく問題が解決しそうな気がするのに、家に帰ってみると大変厳しい現実が待ち構えているといった私たちの日常の姿が描き出されているのだとでもいうかのようです。

 わたしたちはこのことをどのように考えたらいいのでしょうか。主イエスはここでこう言っておられます。「不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」と十七節に記されています。

 

 山の上で神からの言葉が聞こえて来た時に、弟子に手を触れて「起きなさい。おそれることはない」と優しく語りかけられた主イエスが、ここでは「もう我慢できない」とでもいうかのように強い言葉を語っておられるのです。

 私たちはこの主イエスの言葉をどこまで正面から聴き取ることができるでしょうか。私たちが毎週毎週味わっていることであるに違いないのです。先週も私たちはキリストのようになるのだという御言葉を聞いて、一週間を過ごしました。そして、やはりキリストのようになれなかったとまた御前に出る。そんなことを繰り返していると、私はやはりどんなにがんばってもダメなのではないかという思いが、私たちの心に働くのではないでしょうか。

 自分のようなものは相応しくない。主イエスにここで叱られている弟子たちの姿をみながら、私にもはっきりとそう言ってくださったら良いのにと思うのかもしれません。

 

 この弟子たちの姿は私たちの姿です。イエスをキリストだと告白することができる。自分もちゃんとしたキリスト者として歩みたいと思う。山の上で光り輝いている主イエスの姿に憧れながら、私たちもやがてはああして頂けると信じる、信じたいと思う。

 でも、自分の目の前の問題があまりにも大きすぎてどうにもならないのではないかと思えるのです。それと、これとは違うことのように思えるのです。山の上で光り輝くキリストの御姿は、できることなら見なかったとしたほうがよっぽど楽だとさえ思えてくるのです。

 主イエスはここでも、「あなたがたの信仰が薄い」という言葉を使われました。もう何度も語られている言葉です。「あなたの信仰は薄い」と言われると、認めざるを得ないような私たちです。けれども、ここで主イエスは言われました。「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません」と十九節にあります。

 この短い言葉は色々な想像を私たちにさせる言葉です。どう考えたらよいか分からなくなりそうな言葉でさえあります。主イエスはここで「からし種ほどの信仰」と言われました。「けしつぶ」のことです。そんなに小さなものでも、そこには命があります。主イエスはここで、信仰が薄いとか、濃いとか、小さいとか大きいとかそんなことに気をとられてしまうのではなくて、小さくてもいい、信仰があるならば、そこにはどんな大きなことだってできるのだと言われました。「どんなことでもあなたがたにできないことはありません」とあります。そんなこと一度でいいから口にしてみたいと思えるような言葉です。

 私たちは自分の実力というものが、だんだん年をおうごとに分かってきます。自分にはどの程度のことができるのか。子どものころは大きな夢を抱くことができたけれども、だんだんと、自分の力というものが分かってくる。それは、寂しいことでさえあります。そして、自分の分に応じたことであればできると考えるようになります。

 けれども、そういう一方で、「神には不可能なことはない」ということも信じることはできます。そうです、神は私たちをキリストのようにするとおっしゃっているのです。私が自分の力でするのではないのです。主イエスがしてくださるのです。私たちの内側に与えられている聖霊がそれをなしとげてくださいます。大事なことは、それを信じるということです。そこには、本当は、大きいも小さいもないのです。あるのは、あるのかないのかということだけです。

 

 面白いことに、新改訳聖書にはこの二十節の後ろに二十一節が鉤カッコの中にいれられて記されています。そこには「ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」とあります。これは、後の時代になってここに書き足されるようになった言葉です。ということは、教会の歩みの中で、ある人々は、わたしたちが何でもできるなどということはあるのだろうかと、考えて、できるかもしれないけれども、そのためには祈りと断食をして、霊的に成長しないと無理だと考えたということです。

 けれども、これは本来の言葉ではありません。ですから、新共同訳聖書などもこの部分は記しておりません。記す必要はないからです。そう考えてしまうところに間違いがあるのです。あるレベルに達しないと、何でもできるなどとはいえないと考えてしまう。そうすると、ここで主イエスが語っていることの意味を取り違えてしまうのです。

 

 わたしたちはわたしたちの日ごとの生活の現実がどれほど厳しかったとしても、病の中にあったとしても、悪霊に支配されてしまっているのではないかと思えるようなところにいたとしても、キリストを信じるのです。

 どうして信じることができるのか。それは、主イエスを見るときに分かるのです。私たちはキリストと出会うことがゆるされています。主イエスは、私たちにご自分を隠すことなく明らかにしてくださるお方です。主イエスは私たちにご自分を明らかにすることをためらってはおられません。私たちの方が、主イエスを見ようとしないことの方が問題なのです。

 昨日家庭集会がありました。そこでもお話したのですけれども、森有正というキリスト者の哲学者がおりました。その方が、加藤先生ともう一人の牧師と座談会をしたものが本になりました。「教会のアレオパゴス」という書物です。そこで森有正さんが語っているのですけれども、「すべての問題が行き詰った時に、その根底に罪がある。罪がなければ人間は何も問題がない」と言っています。

 問題がいきづまるとこには、罪がある。その罪を解決することなしに、前には進めないというのです。その罪とは何か。それは、キリストを見ることを辞めてしまうことです。神を見ないで、他のことに心が捕らわれてしまっていることです。

 

 私たちがキリストと出会うならば、そこに新しい道が示されるのです。そして、その道は、あのキリストの栄光のお姿とつながっているのです。キリストと出会うことが、私たちの問題の行き詰まりの解決ともなるのです。それこそが私たちの望みなのです。

 

 お祈りを致します。

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