・説教 マタイの福音書22章1-14節 「神からの招待」
2012.4.8
イースター礼拝
鴨下 直樹
イースターおめでとうございます。このイースターの礼拝を子どもたちと一緒にお祝いすることができることを嬉しく思います。この朝私たちに与えられている聖書もまた、祝いの場面です。結婚の祝いの場面です。しかもそのお祝いは、王さまからの直々の招待だというのです。王子が結婚をするというので、その祝いの場に招待されるというのですから、これは誰もが心待ちにし楽しんで出かけるところでしょう。
ところが、今日の話は少し変わっています。そのような王の結婚の宴に招いておいた人々が「来たがらなかった。」というのです。食事に期待できないからでしょうか。あるいは、王さまのことが嫌いだからでしょうか。王さまのことが嫌いでも、生涯に一度あるかどうかの王の宴会ですから、参加しておいても損はないと思うところですが、招かれた人々は畑仕事や商売に出かけて行ってしまいます。それどころか、ある人たちはこの祝宴に招いてくれた王のしもべを殺してしまったとさえ書かれています。
しかも、話はそれだけではありません。招いた人々が誰も来ないので、今度は大通りに出かけて行って出会った者を誰でもいいからこの祝宴に招くようにとしもべに伝え、片っぱしから宴会に招いたのだというのです。それで話が終わればいいのですけれど、今度はそのようにして招かれた人の中に、婚礼の礼服を来ていない人が一人いたといいます。そして、この人を縛り上げて外に出してしまったというのです。
さらに、この話の最後に何が書かれているかと言いますと、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」とあるのです。選ばれる者は少ないと言ったって、追い出されたのは一人だけなのですから、謎は深まるばかりです。
私がドイツに行きましたのは今からもう7年前のことになります。まだドイツでの生活が始まったばかりのことですけれども、友人がいつも通っている教会の礼拝に連れて行ってもらいました。土曜の夜になると彼は真剣な顔をして、「礼拝に行く時はきちんとした格好で行くように。ジーンズなんて履くのはよくないからね。」と私に言いました。こういう話を聞くと驚く方があるかもしれませんが、ドイツでは今でもこういう考え方が残っているということに私は嬉しく思いました。日曜の礼拝には一番きれいな服装で礼拝に行くという習慣があるのです。もちろん、翌日その友人と一緒に教会に行きますとジーンズで来ている人もいるのです。けれども彼は、私に礼拝というのはきちんとした身なりで行くものだということを教えたかったのでしょう。私の父もそういう意味では厳しい人でした。父もまたドイツからの宣教師にそう言って教えられたと言います。
もちろん、ここで礼拝に相応しい服装とは何かと言う話をしようと思っているわけではありませんし、この聖書の箇所がそういうことを教えているわけでもありません。この聖書の物語は婚礼の祝宴に相応しい服装のことについて語っているところです。王子の婚礼です。王の前に出る時には当然相応しい服装というものが求められるはずです。
十節にこうあります。
「それで、しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」
しもべたちは手当たり次第に通りで出会った人を招いたのです。だから、着替える用意の無かった人もいたのではないかと考えて、この場合、招いた側が婚礼に相応しい服を用意していたのだと説明する人がおります。これが教会の初期のころから言われていたことで、初代教会時代の教父の一人であったアウグスティヌスがした説明です。そのためこの説明は長い間支持されてきました。ところが、最近になってさまざまな聖書学者たちは、婚礼に招く側が服を用意するなんていうことは実例としてどこにも残っていないので、この説明は考えにくいというのです。
こういう議論を読んでいますと、専門家で無い者は良く分かりません。どちらにしても主イエスがここで話しておられるのは、難しいことを言っているわけではありません。相応しい服装をしてこなかったということです。用意してあろうと、用意してなかろうと、婚礼に招かれているのであれば、それにふさわしい服装をするのが常識です。立派な身なりをすることが求められていたわけではないのです。誰でもいいと言って招いたのは王ですから、服装が高価なものであったかということが大事なのではなくて、どういう気持ちでその場に来たかということでしょう。ある牧師は道ばたの花一つ胸に刺すだけでも良かったはずだと言います。そうであったかもしれません。けれども、それもしなかったのです。
これはどういうことかというと、服装の問題ではないことは明らかです。どういう思いで王の前に出ているかということです。この人は明らかに祝宴に招いてくださっている王を軽んじたのです。
福音館から出ている絵本に「ペレのあたらしいふく」というものがあります。エルザ・ベスコフというスウェーデンの絵本作家のものです。この人は学校で絵の先生をしていたのですが、やがて牧師と結婚をします。そして、絵本作家としてさまざまな絵本を世に送り出しました。この「ペレのあたらしいふく」はこのエルザ・ベスコフの代表作です。1910年に造られたものですから今から百年も前のことになります。
この物語は一匹の羊を飼っている少年ペレの物語です。ペレはある日、自分の買っている羊の毛を刈って、それを近所のおばあさんにすいてもらいに行きます。その代わりに畑の草取りをする。今度は別の人の所に行ってすいた毛を紡いでもらう。その代わりにおばあちゃんの牛の面倒をみる。今度は紡いだ糸を染めるためにペンキ屋さんにお願いして染め粉を分けてもらう。その代わりにお使いに行く。その糸を母親に織ってもらう代わりに赤ちゃんの面倒をみる。こうしてできた布を下手屋さんに持って行き、そこでも下手屋さんの代わりに働きます。そうしてようやく新しい服を手に入れるのです。その服は土曜の夜きっかりに出来上がったと書かれています。そして、日曜の朝、ペレはこひつじのところに行きました。と最後に書かれているのです。
もちろん、これはひつじのところに行ったにちがいないのですけれども、礼拝に行ったという意味なのです。日曜に新しい服を来て礼拝に出かける。そのために子どもながらペレも一週間働きとおして、神の御前に出たのだという話です。
なぜ、そんなに大変なことを子どもの頃からするのでしょう。それは、子どもの頃から神様の前に出て礼拝を捧げるというのは、大事なことなのだということをこの時代は教えたからです。神の前に出ることはそのような喜びがあるのだということに気づかされる絵本です。
そうです。この王さまの子どもの結婚式というのは、まさに礼拝です。お祝いなのです。今日はイースターです。神の子が十字架につけられたけれども、この日、よみがえられたことを覚えて祝う日です。そして、その礼拝に大人も子供も、良い人でも悪い人でも招かれているのです。何故か。それは王であられる真の神が、この喜びをすべての人と共に喜びたいからです。本当のお祝いなのですから、すべての人を招きたいのです。
けれども、今日は仕事があるので、畑がある、商売があると言ってこれを拒むというのは、王のこの喜びよりも自分の日常の方が大事だということです。せっかく来ても、とりあえず形だけ、義理だけは果たしたということであっては、招いている方としてはあまりにも残念です。この祝いは、王さまだけが喜んでいるのではなくて、招かれている者たち、つまり、私たちすべてにとって嬉しい日であるからです。
子どもでさえ新しい服を整えて行きたいと思えるような嬉しい日なのです。なぜ嬉しい日なのでしょうか。それは、正しい人であっても悪い人であっても、人は、罪が赦されて新しく生きることができると明らかになった日だからです。すべての人への喜びの知らせが、このイースターなのです。そして、毎週の日曜ごとの礼拝もまたそのことを覚えてお祝いしているのです。
イスラエルの指導者たちとの間に起こった質問の最後の答えが、この三つ目のたとえ話です。ここで気づかなければならないのは、主イエスはこの話をなさりながら、律法学者たちや、民の長老たちも招いておられるということです。あなたがたはちゃんとした服装に着替えていないからダメだ、というつもりでこの話をなさったのではありません。最後の十四節にある「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」という言葉も、少ない人しか招かれていないのだからということではありません。そうならないようにという、この言葉がそのまま招きの言葉なのです。
主はこのすばらしい宴席に私たちを招いていてくださるのです。そこに相応しい姿とは、ジーンズを履かないことというのではなくて、神が与えてくださる復活による新しいいのちを、救いを、義を身にまとうことです。このイースターに洗礼式をすることができなかったことは残念なことですけれども、洗礼式の時に白い衣を身にまといます。もちろんそれは象徴的な姿ですが、ヨハネの黙示録にも白い衣をまとう者のことが出てきます。神の義を身にまとうという意味です。神が私たちの罪を清めて白くしてくださるのです。それが、神の義をまとうということです。そのように神はわたしたちを、主イエスの血によって清めてくださり、新しい命を身のまとわせてくださいます。
その私たちの姿そのものが、そのまま喜びの姿なのです。そして、喜んで、主の御前に立つことができるのです。この主によって与えられる喜びを、いつまでも身にまといつつ、喜びに生きることこそが、主が私たちに与えてくださる復活の喜びなのです。
お祈りをいたします。