2012 年 4 月 15 日

・説教 マタイの福音書22章15-22節 「あなたは一体何者か?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:39

2012.4.15

鴨下 直樹

先日、車の中であるラジオ番組を聞きました。東京大学情報学環教授の姜尚中(カンサンジュン)さんの番組です。この方は昨年までNHKの日曜美術館という番組の司会もやってこられた方です。日曜の朝九時から十時までという時間ですから見たことのある方は少ないかもしれません。この方はもともと政治学が専門なのですけれども、そういう番組を任されるほどこの方は美術というものに深い関わりを持ってこられました。この方がキリスト者であるということはあまり知られておりませんけれども、信仰に生きておられる方です。この姜尚中さんが昨年末に『あなたは誰?、わたしはここにいる』という小さな本を書かれました。このラジオはこの本についてのインタビューだったのですが、大変心動かされる内容でした。

 これは姜尚中さんがまだ二十代の後半の時、これから自分が何をしていいかわからないでいた時にドイツに行ったんだそうです。南ドイツのミュンヘンにあるアルテ・ピナコテークという美術館を訪れます。そこで、一枚の絵との出会いが姜さんの人生を決定的に変えたと言います。その絵はアルブレヒト・デュラーの自画像ですけれども、この絵はデュラー自身、二十八の時に描いたものです。姜さんはこの絵を見ていて、この絵から問いかけられているような気がしたのだそうです。「あなたは一体何者のか。」と。「私はここにいる。あなたはどこに立っているのか。」とデュラーに問いかけられながらも、その絵から深い慰めを受けたといいます。今、将来どうしていいかまだ分からないでいる自分の生き方もゆるされているような気がしたと、そのラジオのインタビューの中で答えておられました。

 私たちはそのように自分自身が何者であるかということを自分自身に問う時に、私たちはどのように答えを見つけ出すのでしょう。


A.Dürer「自画像」

A.Dürer「自画像」

 さて、今日の聖書はパリサイ人たちに殺意が生まれたというところから始まっています。その前に主イエスによって語られた三つのたとえ話を聞きながら、これを聞いていた人たちは自分たちの生き方が、イエスによって否定されていると感じたのでしょう。自分のこれまでの生き方が否定されるということは、それこそ自分自身、自分のアイデンティティを問うことになります。これまでの自分の生き方が間違っていたのかということを問うことになります。それは、自分について、自分自身の生き方について自信の無くなるようなことを考えさせられる時でもあります。

 ところが、彼らは自分自身のことを問わないで、主イエスにもう一度問うことにします。この十五節を読みますと「どのようにイエスをことばのわなにかけようかと相談した。」とありますから、これははじめから自分自身に問うことをしなかったということが分かります。自分に問わないで主イエスに問いを投げかけます。しかもその問いはイエスを危機に落とし込み、復讐しようと考えて質問をしたのです。ここでパリサイ人とヘロデ党の者とがいっしょに主イエスのもとにやってきます。この「ヘロデ党」というのは少し説明が必要かもしれませんが、この地方を当時納めていたヘロデ・アンティパスを支持する人々のことです。どういう人々であったのかそれ以上のことは分かりませんけれども、ユダヤ人たちが大事にしてきた神からの戒めである律法を厳密に守ろうとするパリサイ派の人々と、ローマの支配者を支持する人々ですから相いれない立場であったことは明らかです。そのような相いれない立場の人たちがここで、わざざわ主イエスを殺すために一つに結託して罠を仕掛けようとしたのです。

 そして、主イエスに対してこう質問しました。

 

「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは、人の顔色を見られないからです。それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」

 十六節と十七節です。

 彼らは手を取り合って、慇懃に尋ねます。「あなたは人の顔色を見て答えられる方ではないお方です。」というのは、こう言っておけば、人の顔色を見ながら答えることはできないぞという一種の脅しのようなものです。そう言いながら罠に賭けようとしたのです。

 なぜこれが罠かと言いますと、もし税金を納めるべきだと言えば、イエスはローマの支配を認めたことになるのでユダヤ人たちからの支持を失うと考えたのです。けれども反対に、税金は必要ないと言えば、ローマに対して敵対視することを公言したことになりますから、それこそヘロデによってすぐにでもイエスを捕らえることができるという抜け目ない質問だったのです。

 ユダヤ人たちからの支持を失うことが怖いか、それともローマ政府を敵にまわすか。パリサイ派とヘロデ党はこの罠に落とし込めることによって完全にイエスを窮地に追いやることができると考えました。何の共通点もない彼らが手を取り合ったのは、このただイエスを殺害したいという一点においてです。彼らにしてみれば、この罠は絶対にイエスを落とし込めるはずだったのです。他に逃げ場はないほど周到に用意された罠だったのです。

 

 もちろん、主イエスはこれが罠であることを見抜いておられます。ですからこれに対して「偽善者たち」と語りかけます。とても強い言葉です。主イエスは彼らの中にあるこの大きな悪意を、「偽善」と言われた。表面上は信仰上の問いです。何をすることが聖書に戒めに適うことですかと問いかけているからです。しかし、神を気にかけている。これは聖書の問題だと言いながら、彼らが問題にしていたのは、人の顔色を見るということでした。

 同胞であるユダヤ人の顔色を、そして、支配者であるローマ人の顔色をみる。実のところ彼らはこれ以外のことは考えられなかったのです。自分の立場はユダヤ人から支持される、あるいはローマ人から支持される。このどちらかしかないではないか、ならばあなたはどちらに立つのですか、というのが彼らの問いでした。

 

 けれども、それに対して主イエスは税金として納めるデナリを手にして、ここに誰の銘があるかと尋ねられます。というのはこの時代、一人当たりの税金は一デナリとなっていました。一デナリは大人が一日働いた労働賃金にあたる金額です。そして、それはローマの貨幣で支払われることになっていました。この貨幣をみながら主イエスが答えられたのが有名な「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」との答えです。

 

 ここで注意する必要があるのは、主イエスを罠に落とし込もうとした人々は「税金をカイザルに納める。」と言いました。税金を納めるのです。ところが、主イエスの返事は「カイザルに返しなさい。」と答えておられます。

 私たちは、お金というのは自分で働いて手にしたと考えていますから、自分のものだと考えています。その自分の働いて得たものの中から税金を納めると考えます。けれども、主イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と言われた。デナリ銀貨にはカイザルの銘が打たれています。ローマ帝国というのは、皇帝が新しくたてられるごとにコインに皇帝の銘をいれてその支配を表しました。そのようにして自分の権力の大きさを表しました。税金はそのお金でなければ納められないというのは、皇帝の権力の大きさをあらわす象徴的な出来事です。

 主イエスはここで、このデナリにカイザルの銘が刻まれているのであればカイザルのものだから、カイザルに返せばいい。しかし、「神のものは神に返しなさい。」と言われた。あなた自身には誰の銘が刻まれているのかと問われたのです。あなたは何者かという問いです。

 

 二十代後半で自分のやりたいことも見つけられないまま憂鬱な気持でドイツに行っていた姜尚中さんが、問いかけたのもまさにそのことでした。「自分はいったい何者なのか。」それをデュラーの描いた一枚の肖像画が自分に訴えかけてきたというのです。

 私はいったい何者なのか。自分はどこに立っているのか。そのように自分自身を問う時、すぐにしてしまうのは、他の人と自分を比較するということです。自分で答えを見つけられそうにないと考えると、周りを見る。周りの人々もあまり考えていない。そうするとどこかで安心するのです。人の顔色を見ながら、自分が今何をすることを求められているかと考えながら、周りに合わせて自分の生活をする。それは確かに楽でいいのです。周りと違う生き方をしていなければ安心して生きることができると考えるのです。けれども、それは自分を見失った生き方であると言わなければなりません。

 そして、その自分を見失った者の姿が、ここで主イエスに問いかけている人々の姿そのものなのです。あなただってユダヤ人の顔色を恐れているでしょう。あなただってローマ帝国の権力の前には従わなければならないでしょう。あなただって他の人と同じように、人から理解されなければその生き方を続けることはできないではないですか。神殿で自分勝手に振舞っているけれども、それは人々が支持しているからであって、自分一人では本来何もできないではないか。それが彼らの考えだったのです。

 なぜそう考えたのかというと、それしか知らないからです。他の考え方があるなどということを思いつきもしなかったのです。主イエスに尋ねた時は、「律法にかなっていることですか。」と尋ねました。これは、神の御心に適っていることですかという問いであったはずです。しかし、実は神のことなどは少しも考えておらず、人の顔色のことだけを考えていたのです。これを主イエスは「偽善者」とあえて読んだのです。

 

 ですから、「神のものは神に返しなさい。」と言われた時に何が起こったのかというと、「彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」と二十二節に記されています。そんな考え方があるなどと思いつきもしなかったのです。神の律法にはなどと問いながら、神のことなど考えてもいなかったのです。それなのに、主イエスは、「あなたは神のものではないのか。」と問いかけられたのです。あなたは何者なのですか。あなたが自分自身に神の銘が刻まれていることを知らないのですかと言われたのです。

 

 私は姜尚中さんがいつから信仰を持っている方なのか知りません。けれども、この方が今信仰に生きているということを聞いて深く納得させられました。自分は何者なのかと問いながら、その自分を肯定できるとしたら、それは周りの中に自分を見出すということではないはずだからです。おそらく、この方がドイツに旅立つ時にはすでに信仰に生きておられたのではないかと思います。なぜかというと、自分は何者かを問うということは、人との比較の中に自分を見出すことで良しとするか、あるいは、神によって立たされている自分というところで自己を再発見するかしか道はないからです。

 この姜尚中さんはご自分の書かれた「あなたは誰?わたしはここにいる」の中で、自分を見出すことになったアルブレヒト・デュラーの絵を紹介します。この画家もまた信仰に生きた人です。デュラーの描いた物の中でも有名な作品に「祈りの手」というものがあります。姜さんは、そのラジオの中で話しておられましたけれども、この作品はドイツの家のどこにでもある有名な作品だと言っています。実際に、版画であったり、ブロンズのプレートになっています。私もドイツの知人から貰ったブロンズのプレートを持っています。この祈りの手には有名なエピソードがあります。この姜尚中さんの書かれた「あなたは誰?私はここにいる」の本の中でも紹介されていますし、私も以前聞いたことがありますから、よほど知られた話しなのだと思います。

 この祈りの手はデュラーの友達の祈りの手だと言われています。デュラーが若い時に画家になることを目指している友人がいました。ところが二人とも貧しくて絵の勉強をするお金がありません。それでこのままでは二人とも画家になることを諦めなくてはならなくなるので、交代で働いてお金を都合しようということになりました。

 はじめに友人が働いてデュラーは友人の援助で画家になります。そして、名前が知られるようになった時、今度は友人のためにデュラーは今度は君が勉強をする番だと告げるのですが、その友人は仕事で長い間働いたために手は荒れた節くれだった手になってしまい、もう筆をもって繊細な絵を描くことはできないのだとデュラーに告げたと言います。それで、自分を祈りながら支えてくれた友人の祈りの手を書かせてほしいと言って、この作品ができたと言われています。

 自分は祈りに支えられてきたという、このエピソードはドイツの多くの人々の心にとまりました。そして、色々な家でこれを覚えるために飾られるようになったのです。自分は祈られている。祈りによって神が私のことを支えていてくださる。こうして、デュラーはルターの宗教改革を共に戦い、ルターの書物にいくつも挿絵を入れる画家になったのです。

 

 「あなたは何者か?」この問いは、私たちに向けられている問いです。あなたはどこに立っているのか。本当の自分、それは、ただ神だけが知っておられるのです。なぜなら、すべての人は神のかたちに造られているからです。神が、私たちにアイデンティティを与えてくださるのです。だから私たちは、この私たちを生かし、支え、私たちが正しく生きるためによみがえりのいのちを与え、そして、今もなお祈りをもって支えてくださる主の前に生きることが求められているのです。私たちが畏れるべきなのは人の顔色なのではなくて、私たちのいのちを支えてくださる主ご自身です。あなたが神のものであるならば、神に自分自身をささげて生きなさい、と主は言われるのです。

 今日は復活後の第一主日です。この日のことをクアジ・モド・ゲニティとラテン語で言います。「今生まれたばかりの乳飲み子のように」という第一ペテロの第二章二節の言葉です。教会の暦ではこの言葉を復活の祝いをした次の日曜日には覚えて祝うことになっています。それは、私たちは主イエスによって新しいいのちが与えられたことをまずイースターの次の週に覚えようということです。主が私たちを「今生まれたばかりの乳飲み子のように」新しい存在としてくださるのです。それが、主イエスのよみがえりがもたらした私たちへの贈り物です。主が私たちを生かしてくださるのです。この主にあって生きる。主とともに生きる。主によって私たちは新しい存在になる。そして、主に支えられるいのちにこそ、私たちの本当の自分らしさがあるのです。

 

 お祈りをいたします。

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