2012 年 5 月 20 日

・説教 マタイの福音書23章1-12節 「一番偉大な者」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:35

2012.5.20

鴨下 直樹

昨年からみなさんに、ぜひ聖書を読んでくださいという話をしています。そのためか、みなさんずいぶん熱心に聖書を読んでくださっています。来週から聖書全巻痛読会という家庭集会も開かれようとしています。教会の牧師として大変嬉しく思います。ぜひ、聖書を読むということを日頃の習慣にしていただきたいと思います。
けれどもいざ聖書を読もうとすると、誰もが経験のあることだと思いますが、ただ読むだけでいいのかということがどうしても気になります。せっかく読むのであるから、何が書かれているか理解したいし、聖書が分かるという経験をしたいと願う。そうやって聖書を読んでいきますと、どうしたらこの箇所に書かれていることを実行する事が出来るかということに心がとまるようになります。自分はここから何をしなければならないかと考えて読むのです。そのように聖書を読んでいきますと、あまり難しいことを考えなくても比較的簡単に読めますから、ついついこのような読み方が身についてしまいます。
もちろん、そのように聖書を読むということは間違ったことではありません。けれども、そうやって「自分は何をしなければならないか」と考えながら聖書を読んでいるうちに、だんだん聖書を読むことが楽しくなくなってきます。聖書を読めば読むほど、自分がしなければならないことが増えていくからです。それで、気がつくとだんだんと聖書を読むことに疲れてしまって、ついには読むことを諦めてしまいます。まぁ毎週教会で説教を聞いているから大丈夫だとか、祈祷会で学んでいるからいいと考えてしまうかもしれせん。けれども、聖書を読むことを諦めてしまうということは、やはりとても残念なことです。

今日の聖書の箇所はいつも出てきています律法学者、パリサイ人に対して主イエスが語られているところです。読みようによっては、ここでパリサイ人たちをやっつけてしまわれた主イエスが、身内の者たちにまるでこれまでのうっぷんを晴らすかのように、ぐちぐちと批判をしておられるように読めます。この次のところなどは、いよいよ主イエスの口がなめらかになって、言いたい放題彼らの悪口をし始めているかのようですが、そうではないのです。
この前のところで、最後にようやく質問をしたパリサイ人は、主イエスに対して「先生」と語りかけました。これはここで明らかになっていますけれども、律法学者、パリサイ人という人々は「先生」と呼ばれる事をことのほか喜んだようです。そして、主イエスも「先生」と呼べば喜ぶのだろうと思ってそうしたことに対して、「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。」と弟子たちに語っておられるのです。
しかもよく読みますと、つづく九節には「あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。」とありますし、その後の十節には「また、師と呼ばれてはいけません。」とも記されています。

最初に言いましたように聖書を単純に読みますと、ここに先生と呼ばれることは良くないと書かれているから、この聖書が教えていることは「先生」とか「われらの父」とか「師」などと呼ばないことだと読めます。すると、直ぐに考えるのは「あれ、教会で牧師などと呼んでいるけれども、これは聖書の教えに反するのではないか、まして、先生などと呼ぶのはもっての他だ。」などとお考えになられる方があるかもしれません。
あるいは、この教会にも色々なところで「先生」と呼ばれることのある方が何人もおられると思います。職業上、先生と呼ばれる場合もあるかもしれませんし、何かを教える立場に着くときに先生と呼ばれることもあるでしょう。そういうことは良くないことだとなると、今度は何と呼べばいいかと考え込んでしまうことになるのでしょうか。
ドイツの教会におりました時に私が驚きましたのは、お互いに非常に近いDu(ドゥ)と呼びかけます。一般的はSie(ズィー)という言葉を使いますから、少し不思議な感覚がします。Duと呼ぶのはお互いにファーストネームで呼び合う関係という意味ですから、それだけ人の距離が近いのです。ですから、うっかりすると、誰が牧師かということさえ分かりません。私たちの行っていた教会のいわゆる牧師夫人は半年行ってようやく分かったくらいです。ですから、そういう国から日本に来ますと、例えば牧師会などでもお互いのことを何々先生と呼ぶのは不思議な気がするのです。何故、日本の教会はこの聖書が語っていることをもっと真剣に考えないのかと言われたこともあります。

主イエスが先生と呼んではならないと言われたということはどういう意味なのでしょうか。まず確認しておかなければならないのは、この律法学者、パリサイ人という人々はいつも目の敵みたいに言われていますけれども、当時は真剣に聖書に記されているように生きようとしたエリートと言ってもいいような人々だということを忘れてはいけません。他の人々が聖書を厳密に生きるという生き方を軽んじても、この律法学者やパリサイ人と呼ばれる人々は、そういう生き方を非難しつつ、神の戒めに従って生きるようと一所懸命に生きた人々です。そういう真剣な人々に主イエスがここで厳しい言葉を向けているということを、私たちは知っておく必要があります。
いい加減に生きていた人々ではないです。けれども、そういう人々が聖書を大切にする、律法を重んじた生き方をしているのにも関わらず、先生、先生と呼ばれているうちに、大切なことを見失っていってしまったということです。

ですから、単純に先生と呼ばれなければいいということではないのです。二節に、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。」と書かれています。これは、彼らは一方では「モーセの座を占めている。」と言われているのですから、神の戒めである十戒をいただいた、あのモーセの役割を今日では彼らが担っているのだという意味に理解することができます。けれども一方で、モーセに託された神の意思を彼らが伝えなえればならないのにも関わらず、そうなっていない事実にも目を向ける必要がありました。それが、つづく三節に「彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」と言われています。

人に正しく教えることはできても、自分では実行しない。それは本来の先生の姿ではないでしょう。このゴールデンウィークのことですが、東海聖書神学塾の主催でCS教師研修会が行なわれました。「ざっくりつかむ旧約聖書」というテーマで神学塾で旧約聖書を教えてくださっている末松隆太郎先生が講演をしてくださいました。二時間で旧約聖書を学べるということもあって、これまでにない参加者でした。この先生は関西の出身なので時々関西弁がまじりまして非常に楽しく学ぶことができたのですが、内容はしっかりしたものです。この話の中で、末松先生が教会学校の教師が犯しやすい危険として、聖書の戒めをただ単純に命令として子どもに語るということの危険をお話しになられました。たとえば、十戒に「盗んではならない」という戒めがあります。「人の物はとったらあかん」とだけ教える。そうするとどうなるかというと、子どもの中に抑圧された感情だけが残ります。クリスチャンホームの子どもに、「隣人を愛さなあかん」と言われるからただ我慢をする。「クリスチャンは礼拝にいかなくちゃいけないんだ、だから礼拝に行け」とだけ教える。そうすると、我慢している間はいいけれども、ある時爆発してしまって、「もう二度と教会なんかいかんからな」と思春期になったら親の言うことを聞かない子どもになってしまうことが起こってしまうのだと言われるのです。
そこで起こるのは、教会学校の教師も「自分が隣人を愛する」ということを、ただそのまま伝えているだけで、自分でそのように生きようとしなくても、言いたいことだけは「神の言葉だから守りなさい」とだけ伝えるということができてしまいます。聞いたほうはどうしたら隣人を愛するか真剣に悩みますが、教えている方はそんなことまでは考えていないのです。聖書をそのまま語っているのだから間違いはないはずだと考えてしまうからです。

主イエスがここでお語りになられているのは、まさにこのことです。自分で行ないもしないし、聖書の言葉通りにどう生きることができるか考えもしないで教えるということが教師の名に値するか、ということでしょう。それで、先生などと呼ばれて良い気になるなということです。

しかも、人に教えるということは何を意味するかと言うと、人の上に立つということです。誰かと話をする時のことを思い起こしていただければ、よく分かることだと思います。会話の主導権を取ろうとするのは正しいことを語る人です。正しいことを語ることによって、間違えている人を教えようとすると、どうしても上下関係ができあがってしまいます。本来そこで神さまのことを語っていたはずであっても、それを忘れて人の上に立っている気持ちが忘れさせてしまうのです。

彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。

と五節にあります。経札というのは、御言葉の書かれた聖句の入った小箱のことです。それを皮紐で縛って鉢巻のように頭にくくりつけることによって、主の御言葉を忘れないようにしました。もう一つは左腕に巻きつけたりしたんだそうです。ところが、この紐を分厚くすることで目立つようにしたというのです。
あるいは、衣の房というのは、彼らが着ていた衣に房がありまして、それを見る度に、間違った行いをしなくなるように、その戒めを思い起こすためにつけられていました。けれども、こういうものを大きくして、自分はこれほどまじめに戒めに対して厳格に生きているのだということを人前で見せるようになったのです。

もう特別な説明はいりません。人前でこれ見よがしな飾り物をつけて、自分の正しさを誇示しようとはしないかもしれません。しかし、言葉に言葉を重ねることによって、自分の言葉が引き立つようにしたり、声を大きくすることによって、自分の主張を通そうとすることも、これと変わりないことです。
経札にしても、衣の房にしても、それは本来神の言葉を忘れないようにするためでした。神のことを忘れないために行なわれていたのです。けれども、それを自分のために行なってしまう。

ですから主イエスが三節で

彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。

と言われた言葉を私たちはよく聞きとらなければなりません。
とても厳しい言葉ですが、人ごとではないのです。というのは、主イエスは人の上に立って上からものを言われるお方ではなく、人の下に立たれて、そこで人と一緒になって御言葉を聞こうとしておられるお方だからです。

正しいことを言うことは簡単なことです。けれども、真実に生きることは簡単ではありません。だから、主イエスはここで言われるのです。

あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

十一節、十二節。

主イエスがなぜエルサレムにお入りになられて、パリサイ人や律法学者の言葉に耳を傾けておられるのか私たちは不思議に思うかもしれません。そんな人の言うことに耳を傾けなくてもいいではないかと思えるのです。けれども、主イエスが受難週に、十字架にかけられる直前に、なおもこの人々と語り合われておられるのは、ここに、特に、聖書に従って生きようとする人の最も陥りやすい姿を見ておられるからです。

これは、パリサイ人たちの問題というよりも私たちの問題なのです。聖書を単純に読み、単純に教え、そのために人がどうして苦しむのかということを考えなくなってしまうことに対して、主イエスはよくよく注意してくださっているのです。
そして、みずから人の上に立つものとしてではなく、人の下に立つ者、人に仕える者となる姿を示されることによって、まさに身を持って教えようとしておられるのです。
このあと、非常に厳しい言葉が続きます。「忌まわしいものだ。偽善の律法学者」そう語る言葉が、あの山上の説教で八回にわたって語られた「幸い」の言葉を思い出させるかのように、ここで八度にわたって「忌まわしいものだ。」と呪いの言葉を繰り返されます。それは、それだけ真剣に、信仰に生きる生き方を伝えたいと思っておられるからに他なりません。
なぜ、これほどまでに厳しいのか。それは、私たちが間違った聖書の読み方をし、間違った教え方をしているのにも関わらず、人から認められ、賞讃されることを期待する心があるからです。いつのまにか神さまのことを忘れて、自分が教えていることで満足してしまう誘惑が人にはあるのです。正しいことを話すということは、それだけ大きな誘惑もまた潜んでいるのです。

パリサイ人や律法学者が経札を頭に結びつけたり衣に房をつけたりするのも、そもそも神を忘れないようにするためでした。神を忘れないで聖書の言葉を忘れないようにするための工夫であったのに、それさえもが、神を忘れて自分が立派な者であることを誇示する道具となってしまうのです。人はそれほどに、自分が認められるということに心奪われやすいのです。
だから、主イエスは言われます。「人に仕える者になろう」と。「人の下に立つ者となろう」と。それは、徹底的に自分を捨てることです。いや、徹底して主を見つめ続けることです。主は、ご自分を捨てて十字架につけられました。神から見棄てられるほどに、人の下に下にと降って行かれたのです。

私たちは聖書を読むときも、聖書を教えるときも、それは常にキリストに集中して読み、また語ることに心がけることです。いつも主を見つけ続けることです。主は何をしておられるのか。そうすると、上から、こうしなさいと命じておられるのではない主の姿に気づくでしょう。気がつくと、自分の悩みに寄り添っていてくださる主と出会うことでしょう。自分を支え、慰め、生かそうとしてくださっておられる主と出会うはずです。そして、ここに、私たちの慰めもまたあるのです。

一番偉大な者とは誰か。それは、誰よりも自分を低くしたお方なのです。人を愛し人を支えることがおできになることよりも偉大なことはないからです。そして、主はそれをしてくださったのです。あなたを支えるためにです。あなたを愛し、生かすためにです。この主を知ること、ここに私たちの真実の生き方がしめされるのです。

お祈りをいたします。

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