2012 年 5 月 27 日

・説教 マタイの福音書23章13-39節 「偽善者として生きる?」

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2012.5.27

鴨下 直樹

 

 今朝もまたと言ってもいいかもしれませんが、説教の題が変わっています。予告されているものでは七つの悲しみとなっていましたけれども、「偽善者として生きる?」と改めました。いつものことですが、毎月前の月に来月の説教箇所とタイトル、讃美歌を選びます。六月のものもすでに印刷されて今日みなさんの手元に届いていると思います。けれども、まだ一ヵ月も先の説教までできているわけではないので暫定的なものにすぎません。これは、前任の後藤牧師の残していった遺産ということになっております。私にしてみれば、そのために毎回、今日もタイトルを変えなくてはならないと胃酸を飲みたくなる思いをしておりますが、そういうわけですからお許し頂きたいと思います。

 

 さて、今日の聖書箇所には「忌まわしいものだ。」という言葉が八回出てきます。これは口語訳聖書は「わざわいである。」と訳されたり、新共同訳聖書では「不幸だ。」と訳されております。この言葉は、マタイの福音書のはじめに時間をかけて学びました山上の説教の冒頭に八回にわたって語られた「幸いです。」という幸いの祝福を告げる言葉に明らかに対応して、ここでは「不幸だ。」、「わざわいだ。」と記されているわけです。

 わたしはいま聖書に「忌まわしいものだ。」とあると説明しましたけれども、すでにお気づきになられた方も多いと思いますが、新改訳聖書の第三版では、ここは「わざわいだ。」と訳が変えられております。これは「忌まわしいものだ。」と訳すよりも、山上の説教の冒頭の「幸いです。」という言葉に対応させたほうが良いだろうという判断で、翻訳が変わったのだろうと思われます。

 この忌まわしい、わざわい、不幸などという言葉は、もともとのギリシャ語で「ウーアイ」という言葉です。あるいはもっと正確には「ウェーッ」という発音になる言葉です。何か、お腹の中にあるものを吐き出すかのような音ですけれども、そのような言葉が、わざわい、あるいは不幸を語る言葉であるというのは、この言葉の持つ雰囲気がよく出てきていると言ってもいいかもしれません。これは心の奥底にある悲しみを吐き出すほどの思いだということです。それで、説教題をはじめ七つの悲しみとしたのです。

 

 このマタイの福音書は、主イエスが宣教の初めにこういうものは幸いであるという言葉をもって伝道を始めましたが、いよいよ十字架に架けられる直前の、いわば最後の説教では、その反対のこと、こういうものは不幸だ、わざわいだ、と語らなければならなくなっておられる主イエスの思いがよく表されていると言えます。

 主イエスは山上の説教で神の国に生きる者の生活を語りました。それは、神に支配されて生きるということはこれほどに幸いな生活をするということなのだ、と希望をもって伝道の言葉を語られたの対して、最後の説教では反対に、不幸とは一体どういう生き方をすることなのかとここで語っておられるということになります。それは、ウェーッとお腹の中にあるものがこみ上げて来るような、残念な、悲しい生き方なのだということです。

 

 

 それで、もう一度確認したいのですけれども、誰に向かってこの言葉が向けられているかと言いますと、「偽善の律法学者、パリサイ人たち。」に向けての言葉です。

 十六節だけは「目の見えぬ手引きども。」となっていますけれども、それ以外はすべて「偽善の律法学者、パリサイ人たち。」となっています。ここで「偽善の」とあります。この「偽善」という言葉ですけれども、もともとこの言葉はギリシャ語で「役者」を意味しました。古代ギリシャの演劇というのは、マスクを顔につけて喜劇や悲劇を演じました。それで、仮面の下の本当の顔と、人前で演じている顔とは異なるという意味から、偽善者という意味に理解されているのです。

 主イエスはパリサイ人や律法学者のことをこの古代ギリシャの役者のようだと言われたわけです。何故かというと、人前で見せている立派な人格者としての振る舞いは、まるで役者が仮面をつけて演じているかのように見事に演じているかもしれないけれども、その心の中は、演技は異なるということを非難なさりたかったからです。

 しかし、この言葉は、「ウーアイ」という言葉に現れているように心の底から湧き上がる悲痛な表現です。主イエスは憎しみを込めて言っておられるのではなく、まさに、心からのうめきとして語っておられるのです。というのは、主イエスは神の言葉を聞き、神の戒めに厳密に従って生きようと思っている人々にこそ、神の御心に生きて欲しいとねがっておられたからです。

 ところが、このパリサイ人、律法学者たちの生活というのは、聖書を良く読み、聖書の教えに人一倍精通していながら、その心が神に向かうことなく、自分のことにだけ心が向かうのでした。ここにあげられている八つの悲しみの言葉は、どれをとっても神の意志とは程遠いところに生きている彼らの生き方に対する嘆きばかりです。

 けれども、今日の予定していた説教題は七つの悲しみとしました。お気づきの方もあると思いますが、十四節はかっこの中に入れられています。これは、後の時代に書き足されたことが分かっているのでこうなっているのですが、それは、おそらく山上の説教では八つの幸いについて語られていたので、ここもやはり七つよりも八つあったほうがいいのではないかと付け足されたのではないかと言われています。それで、今朝はこの十四節は数えないで聖書を読んでいきたいと思います。

 いずれにしても、ここで主イエスは「わざわいだ。」、「不幸だ。」と言っておられるのは、ここに主ご自身が大きな悲しみを見ておられるということです。そして、この悲しみを主がどこで感じておられるかというと、それがパリサイ人律法学者たちの偽善ということなのです。

 

 

 この偽善者という言葉に次いでよく出て来ているのが「目の見えない人」という表現です。「目の見えぬ手引きども。」という言葉が十六節と二十四節に出てきます。あるいは、「目の見えぬ人たち。」と十九節にあります。また、二十六節には「目の見えぬパリサイ人たち。」とも言われています。これは、実際に目が見えないという意味ではもちろんありません。見るべきものが見えていないのです。つまり、自分たちの姿が神からどう映っているかということが見えないのです。ですから、ここで偽善者と言っていることも、目の見えない人と言っているのも同じことを指していると言えます。

 

 ここでどのような姿を見ているか、今日は一つ一つの言葉を丁寧に見ていくことはできませんけれども、例えば最初の一つ目にはこうあります。

十六節以下です。

わざわいだ。目の見えぬ手引きども。あなたがたはこう言う、『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』愚かで、目の見える者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。

 少し長いですが二十二節までお読みしました。これには少し説明がいると思います。聖書の民数記の第三十章に誓願についての戒めが記されています。誓いをする場合の戒めです。その冒頭の二節にこうあります。

人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。

 ここにあるように、何か誓いをすることは破ってはいけないという非常に大切な戒めとされていました。そうすると、大抵の場合人々がそこで何を考えるかというと、できる限り誓いをしないほうが賢明だということになります。しかし、この時代の人々は誓いについての戒めを守るには大変だからできるだけ誓わないようにしたかというと、そうではなくて別の方法を考え出しました。それは、何に対して誓いをしたかという、誓い対象によって誓約の拘束力がかわってくると考えたのです。それで、それぞれの誓いの重さは、神に対してどれだけ距離が離れているかで、誓いを果たさなければならない拘束力も変わると考えました。

 その例が、今お読みした部分に現れているのです。つまり、神殿の黄金にかけて誓うほうが、神殿そのものにかけて誓うよりも重いと考えたのです。これは、十戒をおさめていた契約の箱のことですけれども、これは黄金でつくられていました。この契約の箱に近ければ近いほど、神への距離は近いと考えたのです。ですから、神殿の黄金にかけて誓うと神により誓い距離で誓いをしたことになるけれども、神殿そのものにかけてしかう場合は、神から少し距離があるので、その時の誓いは果たさなくてもいいというような考え方をつくりだしたのです。

 

 続く、二十三節から二十五節にも面白ことが書かれています。ここで語られているのは十分の一の捧げもののことです。パリサイ人、律法学者はこの十分の一の捧げものを厳密に捧げていました。それだけでもちゃんとした人々であったことが良く分かります。けれども、それほど熱心に神に心を向けていたのかと言うと、どうもそうではなかったのです。「正義、あわれみ、誠実」というこの三つの点において、彼らは神の前に誠実ではないと主イエスは言うのです。その説明として、お茶を飲むときに小さなぶよまで一緒に飲むことがないようにこしてから飲んでいましたが、らくだはそのままのみこんでいるではないかと言われたのです。もちろん、ラクダは大きすぎてこして飲むことはできません。これは、一つの言葉遊びなのですが、ぶよは主イエスがお語りになったアラム語ではカムラと言います。そして、らくだはガムラと言うのです。カムラはこしているが、ガムラはそのまま飲み込んでいるではないかと言われたのです。これは、十分の一献金は厳密にすると言って、どんなに僅かな料でも、それこそ消費税分までちゃんと計算して納めているにもかかわらず、もっと肝心な神への正しさ、人への憐れみ、人としての誠実さはまるでその頭の中には入っていないではないかと言われたのです。

 

 こう言いながら、主イエスはつぎつぎに厳しいことをお語りになります。二十七節以下にはこうあります。

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

 ここまできますと、主イエスもそうとう口が悪くなっていますけれども、人に向かって「あなたがたは白く塗った墓のようだ」などと言うというのはよほどのことです。心の中と、外に現れている姿は異なります。

 彼らは人前では白く塗った墓のように、体裁は整えていたのです。誰からも悪く言われることがないほどに完璧におこなっていました。けれども、その心は神から遠く離れてしまっていたのです。その心の中にあるのは、自分が人からどう見られるかだけで、神が自分をどう見られるかということには思いがいかないのです。これより悲しことはあるか。そう主イエスは言われるのです。この「ウーアイ」、「ウエーッ」ということばは、まるで神がそれを吐き出しているかのような響きとして、大きな悲しみが語られているのです。これこそ偽善ではないかと、あなたがたは見えないのかと、主は嘆いておられるのです。

 

 

 これは、何度も言いますが、神の前に正しく生きようと願っていた人々の心の中に起こったことです。聖書の戒めを正しく行なおう、正しく生きて行こうという願いが、気づくと、人からどう見られているかということに心奪われていくのだという危険を語っているのです。しかし、そう考えてみますと、私たちキリスト者の生き方はどうかと問わなければなりません。私たちの生き方は偽善と言えないかということです。

 

 私が神学生の頃ですけれども、東京の銀座に銀座教会という日本基督教団の教会があります。そこで伝道しておられた渡辺善太先生が、もうずいぶん昔のものですけれども、「偽善者を出す処」という説教集をみんなで読みました。この渡辺善太先生は、日本の説教の歴史の中でももっとも重要な人と言ってもいいほど素晴らしい説教をする方でした。この説教集のタイトルが「偽善者を出す処」というのです。

 偽善者を出す処というのはどこのことを言っているかと言うと、教会のことです。渡辺善太先生は、教会というのは偽善者をつくりだしてしまうところだ、とその問題に注意を投げかけています。教会に来る人は善人であるかのように振舞っているけれども、その腹の中はどうなのかと言われることがあります。信仰に生きようとすると、どうしても、ちゃんとしたクリスチャンとしての生き方を身につけなければならないと考える。こうして、偽善者が生まれてしまうのだというのです。そういうことからしても、教会というところは偽善者の集まりだと言われることがあるのです。ところが、この牧師は、そうして偽善者になることをむしろ歓迎するべきだと言うのです。

 

 まるで、主イエスがここで語っておられることと正反対のことを言っているかのようですけれども、そうではありません。

 ここで主イエスが嘆いておられるのは神の目にどう映っているかを気にすることなく、結局は自分の振る舞いを人に見せることでとまってしまうことについて嘆いておられます。神を軽んじているとは何事か、という主イエスの嘆きです。私たちはこのことはよくよく耳にしていなければなりません。

 

 けれども、同時に信仰に生きようとすると、どうしても自分の罪の生き方をそのまま開き直って、これでいいのだと言って生活するわけにはいきません。自分の罪の部分と戦う必要がどうしてもでてきます。たとえそれが人に偽善だと言われようとも、そのように生きようとすることは、神の前に誠実に生きようとすることです。問題は、人の顔色をみて、自分を誇りとするのか、それとも神を畏れて生きようとするのかという違いです。

 

 C・S・ルイスという英国の文学者がおります。ナルニア王国物語を記した人です。この人はいくつもの非常に信仰的な作品を書いております。その中でも、キリスト教徒は何か、その教理を説明した「キリスト教の精髄」というタイトルの書物があります。その本の中で、キリスト者になるということは、キリストの仮面をつけることだと書いておられるのです。

 最初に、偽善と言う言葉はもともとのアラム語で役者という意味だと説明しました。けれども、このCSルイスは恐れることなく、キリスト者になるということは、キリストを演じる仮面をつけてその訳を演じることだと説明するのです。最初にその仮面は自分に合わないかもしれない、なかなかその演技はしっくりこないかもしれない。しかし、キリストのように生きるという仮面をつけて生きて行くうちに、私たちの顔はキリストそのものであるかのように変えられていくのだというのです。

 渡辺善太先生が大いにこれを歓迎すべきだといったのもまさにそこのことを表していると私は思います。自分を人に立派に見せるために、立派なキリスト者を演じて見せることには意味はありません。しかし、キリストのようになろうとするのであれば、これが身に着くまで、修練する必要はあるのです。

 何でも、ある技術を身につけようとすれば、まず型から入ります。私は子どもの頃卓球をしていたのですけれども、朝学校の部活に行きますと、特に一年生のうちはその間中素振りをさせられます。こんなことでうまくなるのかと思うのですけれども、素振りがうまい人は技術も身についてくるのです。野球の選手もそうでしょう。からだにしみこむまで、何度も何度も同じことをくり返しながら、身につけていくのです。

 

 教会に行く、祈りをする、聖書を読む、人に対して親切にする。何をとったところで、私たちの身についているようなものはありません。しかし、主が望んでおられることであることは分かります。急にこんなことし始めたら周りの人がびっくりするし、自分らしくもないからやらないのだということは、やはり言えないと思うのです。

 何故か。主が望んでおられるからです。私たちは神の前に生きるキリストを役者となるように召されたのです。こう言ってもいいかもしれません。小さなキリストとして私たちは生きるように、と主イエスは願っておられるのです。そして、そのために、主イエスはご自身の生き方を私たちにお示しになられたのです。

 私たちが、人を見るのではなくて、主をいつも見上げるのです。これには、訓練が必要です。キリスト者として生きるためには、聖書を読む、礼拝に集う、そういうことが身についていなければ、身につけていかなければなりません。人の顔色をみてそうするのではないのです。主を見あげつつ行なうのです。

 お祈りをいたします。

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