2012 年 6 月 3 日

・説教 マタイの福音書24章1-14節 「最後まで耐え忍ぶ者」

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2012.6.3

鴨下 直樹

 

 先週、七つの悲しみについて書かれた主イエスの言葉を聞きました。山上の説教で語られた八つの幸いに対応するように語られた言葉です。もう二年も前になりますから思い起こして頂かなければならないかもしれませんけれども、山上の説教で語られた幸いの言葉は、心の貧しい者は幸いです、悲しむ者は幸いです、と語られていました。決して幸せとは思えないようなことが、神がその生活を支配してくださるならば、悲しみも幸いとなるのだと語られていました。しかし、ここで語られている、忌まわしいものだ、わざわいだと語られている言葉は、この世界では当たり前に行なわれている、人にどうしたら自分を良く見せることができるかということです。けれども、神がその生活を見てくださっていないならば、そういう生き方はこの世界では通用したとしても悲しいことなのだ、と語られています。

 普通幸せではないと思えるところで主は幸せなのだといい、この世界で幸せだといわれるところで、それは悲しいことなのだと語る。ここに、主の心があることを私たちはいつも忘れないでいたいと思います。

 

 そして、その言葉が語られたところで、主イエスの嘆きの言葉はさらに続きます。先週時間がなくほとんど語ることができませんでしたけれども、二十三章の三十七節で「ああ、エルサレム、エルサレム。」という嘆きの言葉が語られます。

 主は何を嘆いておられるのかと言いますと、続く三十八節で「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」と言われています。「あなたがたの家」というのは何のことかと言いますと、「神殿」のことです。

 旧約聖書で預言者たちが何度も何度も、神のところに留まるように語り続けてきました。それはまるで、「めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」という言葉にあるように、それは本当に神の愛の招きでした。ところが、神の民は、神のもとで憩いを得ることを喜びませんでした。自分の好きなように生きたほうが、幸せを感じられると思ったのです。

 

 こうして、イスラエルは他のアッシリアだとかバビロンという国に滅ぼされてしまい、神を礼拝していたソロモン王が築き上げた神殿は破壊されてしまいます。もう、礼拝することができなくなったのです。ところが、ペルシャが支配する時代になって、イスラエルはようやくもう一度神殿を再建します。けれども、それは最初の神殿を知っている人からすればあまりにも残念なものでした。しかし、主イエスが生まれるときに住民登録をさせたことで知られるヘロデ大王と言われたローマの総督が、この神殿をもう一度、四十年以上の年月をかけて再建します。その神殿が、主イエスがおられた当時のエルサレムに立っていました。それは大きなものです。この時代の歴史学者ヨセフスによると、その大理石は長さが約二十メートル、高さが訳二・二メートル、幅が二・六メートルのものがあったと言われています。そのほかにも六メートルしたもの、十二メートルのもの、重さ百トン以上のものもあったと言われ、これほど大きな石をどうやって据えたのかは古代建築の謎だとさえ言われるほどの物であったようです。

 この当時、それほど大きな神殿がエルサレムにはあったのです。そして、主はここで、この美しく大きなエルサレムの誇りでさえあったこの神殿のことを、「あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」と言われたのでした。

 

 

 そして、今日の二十四章の一節にこうあります。

イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

弟子たちが確認しようとしたのです。 

「先ほど言われたのはあの神殿のことですか」と指をさしながら主イエスの尋ねたのです。それで、「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」と言われたのです。

 もちろん、これを聞いた弟子たちは驚きました。そんなこと起こるはずがないと思えるようなことを主イエスは言われたのです。ところが、弟子たちはここで主イエスにもうそのようには尋ねませんでした。

お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。

三節には、弟子たちはこのように主イエスに問いかけたと記されています。

 

 「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 これは、この神殿が崩壊するようなことが起こるということは、この世界が終る日が来るということだと弟子たちは理解したということです。もっと言いますと、この世界が終る時があなたの来られる時ですね、と尋ねたということでもあります。

 ここで主イエスは二つのことについて答えられます。それは、エルサレムの崩壊という出来事についてであり、もう一つはこの世界の終りの時のことです。けれども、この二つのことは深くかかわり合っています。

 この時代の弟子たちに限らず、すべての人は、立派なエルサレムの神殿が崩壊するなどということを信じることはできませんでした。そんなことはありそうもないことだと思えたのです。

 それは、まるで大きな地震が来るぞと言われてもあまり現実味を帯びて考えられないのと同じです。私たちは不思議なものですけれども、そのような破壊的な地震がくるなどということについて差し迫った恐怖をそれほど感じてはいません。しかし、日本という国に住んでいる人であれば誰もが、それはいつか必ず訪れるものであるということは肌で感じています。

 この世界が終るということも同じように考えることができるのかもしれません。誰もが、どこかでそんな日がくるかもしれないと少しざわついた気持ちになることはあるのでしょう。だから、世の終わり、世界の終りという言葉が私たちの日常の生活の中でも使われるのだと思うのです。

 けれども、そう言う中で、私たちは何を聞きとらなければならないかというと、ここで主イエスが語っておられる言葉です。四節から主の言葉は、ずっと次の章、二十五章の終りまで続きます。長い言葉です。しかし、まず主イエスがここで語られたのは、四節の「人に惑わされないように気をつけなさい。」という言葉です。

 わたしたちはすぐに周りの人を見ながら、みんなが同じことをしていれば大丈夫と安易に考えてしまいます。しかし、惑わされるなと主は語られるのです。今は便利なもので、インターネットでさまざまな情報を手にいれることができるようになりました。沢山の人の言葉を聞いて、できるかぎり正確な情報をつかみとることが安心につながると考えます。けれども、それと同時に、人の意見に耳を傾けすぎて、いつまでたっても安心することができなくなったということでもあります。

 ところが、十節以降に「人々」として語られている内容を見てみますと「人々が大ぜいつまづき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」とありますが、よく読んでみますと、これは教会の中で起こることとして記されています。世の中の人々の言葉に耳を貸すなと言っているのではなくて、教会の中でさえ混乱が起こると言われているのです。

 「不法がはびこるので」というのは、律法を否定するということです。つまり、神の戒めに生きることをやめるということです。では何に従おうとするのかというと、この世界の声なのでしょう。神の戒めは、聖書の言葉は時代錯誤に思えて、世の中の言葉の方がよほど説得力があると思うのです。そうなると、もう何を信じればいいのか分からないことになってしまう。しかし、主イエスは語ります。「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と。

 

 

 先週、ペンテコステの礼拝を致しました。主イエスは十字架につけられ、墓に葬られましたが、三日目によみがえり、人々にその姿を現わしてくださいました。そして、四十日弟子たちとともに歩まれ、天に戻って行かれました。主イエスは、もう一度やって来られるとの約束を与えられました。そして、聖霊が私たちに与えられることによって、主が来られるまでいつまでもわたしたちと共にいてくださることを示して下さいました。

 私たちは主イエスがもう一度おいでになる日を心待ちにしています。それが、再臨の信仰です。つまり、主イエスがもう一度来られる日というのは、この世界が終る日とここで言われていますけれども、救いの完成する日です。教会は、ペンテコステ以降、主イエスが再びこの地に来られる日を心待ちにし続けてきたのです。

 もちろん、それは簡単な道ではありませんでした。何度も何度も、主がここでお語りになられたように、教会は迫害の時代を通らされて来たのです。新約聖書の教会がすぐに迎えた問題は、ローマの皇帝を神としなければ、それは無神論者であるとされて多くの弟子たちが殺されました。この国でもまた、この国の天皇を神として礼拝しなければその信仰は認めないという時代を経て来たのです。

 いつの時代も忍耐を問われ続けて来ました。けれども、教会は神の御言葉に留まり続けて来ました。この世の中の声ではなく、聖書の言葉に信頼し、神に信頼してこの道を歩んできたのです。それは、神が、私たちに与えてくださると約束された救いを全うしてくださると確信しているからです。それは、この世の中のどんな言葉よりも、信じるに値すると信じるからです。

 

 今、教会の執事Kさんのお母さんのMさんが意識を失ったまま入院をしております。この方は、もう三十年も前に信仰を持ちました。生まれた時から耳に障害をもっておりました。ですから、人と話をするのは難しいのですけれども、教会のみなさんに聞いてみますと、実に色々な方とお交わりがあったようです。いつもは名古屋のローア教会に通っておられました。そして、まだ中学生であった息子さんのKさんにも教会に誘ったのだそうです。Kさんが言うには、このMさんはいつもコリント人への手紙第二、第五章の十七節の御言葉を良く聞かせたのだそうです。そこにはこう記されています。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 キリストによって自分は新しい存在にされると信じたのです。この言葉がMさんを救ったのでしょう。ここに希望を見出したのです。

 いつも言いますけれども、私たちは死んだ後、霊の存在になって永遠に生きるというのではありません。霊魂不滅ということを信じているのではありません。肉体を伴った復活を信じているのです。それは、新しい存在にされるという神からの約束です。

 このMさんを支えた一つの御言葉をとってもそうです。私たちはこの肉体に支配されるのではなく、新しい存在にされるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とある通りです。

 

 この世界が終ってしまう時に、自分はどうなるか分からないなどと不安に覚えながら、どうしたらいいかというようなものを主は私たちにお与えになられたのではありません。もっともしっかりとした確信を持って生きることができるものを、主は私たちに与えてくださったのです。

 そして、このお方の聖霊が、今、主イエスを信じるすべての人に与えられているのです。それは、何かによって取り去られたりするようなものではありません。だから、主は言われるのです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」と。

 

 私たちを不安にさせるものはいくらでもあります。私たちの信仰を失わせようとする力は、さまざまなところで強く働くことでしょう。それは、これまでの教会の歴史を見てきても分かります。簡単なことではありません。しかし、主はすでに私たちに確かなものを与えてくださいました。それが、主イエスご自身であり、私たちに与えられた信仰であり、神の霊そのものである聖霊です。この確かなものが与えられているので、私たちは将来に希望を見出すことができるのです。

 たとえ、地震が襲おうとも、原子力発電所の恐怖があったとしても、さまざまな宗教がこの世界で大きな惧れを引き起こしたとしても、私たちは、私たちに与えられている確かなもので、しっかりと立ち続けることができるのです。

 お祈りをいたします。

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