2012 年 6 月 17 日

・説教 マタイの福音書24章32-51節 「滅びることのないもの」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 17:35

2012.6.17

鴨下 直樹

今、主イエスの最後の説教を共に聞き続けています。この説教は二十四章から二十五章まで続いていますので、本当ならば一気に読んでしまうほうが良いのですけれども、少しつづ区切って学んでいます。今日の三十二節からも本来ならばここで区切るべきではありません。内容がここで変わっているわけではないからです。
主イエスはここでずっと一貫して、終わりの時に生きる者としての心備えを語っておられます。ずっと語られていることは忍耐です。あるいは、主への信頼と言ってもいいかもしれません。終わりの時に備えて必要なことは神への信頼なのだと言っているのです。

私が教えております名古屋の東海聖書神学塾に、私が神学生の時に実習として行っていた岡崎教会の方が神学生として学びに来ております。私と同年代の方です。私がこの教会にいた時、ドイツの宣教師であるベルンス・ラインハート先生が岡崎で開拓を始めたばかりでした。そんなこともあって、彼の顔を見ていると神学校の授業中に思わず、私が岡崎で経験したことや、このベルンス先生のことを思い出して話をしてしまうことがあります。そうすると、授業そっちのけで雑談に花が咲いてしまうのですが、先日の授業でこんな話をしたのです。
このベルンス先生は当時、名古屋の神学校で旧約聖書を教えている教師でもありました。いつもこの講義に出る生徒は授業の前になると、教室の前で必死に聖書を抱えて何やらぶつぶつ言っているのです。私はベルンス先生の授業をとっていなかったので、何をしているのかと尋ねますと、暗証聖句だというのです。毎週授業の最初に暗証聖句を10個覚えてこなければならないというのです。その話を私がしますと、岡崎から来ている神学生が言いました。ベルンス先生は、いつ聖書を読めなくなる時代が来るか分からなくなるのだがら、頭の中に少しでも多くの聖書の言葉を蓄えておきなさい、と教会で言うのがいつもの口癖だったと言うのです。それを聞いて、ああ、確かにこの先生の口癖だったと私も直ぐに思い出しました。ベルンス先生はドイツ人です。一般的にはキリスト教国と言われる国から来た宣教師です。けれども、ドイツでも実際に聖書を読む事が出来なくなった時がありました。戦争を経験するというのはそういうことなのでしょう。だからそういう時のために備えておくには聖書をそのまま覚えてしまうことだというわけです。神学生としてこれから牧師になろうとする者には特にそのことを忘れないでほしい、というのがこの先生の授業によくあらわれていました。

以前、ドイツの神学者でルドルフ・ボーレン先生が日本に来られたことがあります。この方は、一昨年前に私たちの教会で特別伝道礼拝でお呼びした加藤常昭先生とともに、説教についてのひとつのありかたを確立した先生です。このボーレン先生が日本に来られたのは今からもう二十年ほど前のことですけれども、名古屋で講演会がありました。私は当時神学生で三重県の桑名市におり、大山田教会のヴォルケ先生と一緒にその講演会に出席しました。一緒に出席したヴォルケ先生も大変感激した講演でした。その講演の後に質疑があり、一人の牧師が、これから日本で伝道する若い日本の牧師たちに何か伝えておきたいことがありますかという質問わされました。すると、ボーレン先生は迷いなく「殉教の覚悟を持つことです。」と答えられたのです。
私は非常に大きなショックを受けました。まだ牧師になっておりませんでしたけれども、その時まで、牧師になるために殉教の覚悟をしなければならないなどと考えたことはなかったのです。
二年前に芥見教会にお招きしました加藤常昭先生の主催する「説教塾」という説教者の学びに、私はこの神学生の頃から毎年参加させていただいています。それで、ボーレン先生の講演を聞いた翌年の説教塾の研修会に出席した時に、ボーレン先生から聞いた「殉教の覚悟を持つこと」という言葉をその時の説教で引用して、私が説教をしたのです。すると、その後で加藤先生に、君はボーレン先生の言われたことが良く分かっていないようだと言われてしまいました。加藤先生は私にこう問いかけたのです。「君はどれだけ聖書を暗記しているか、どれだけ沢山の讃美歌を何も見ないで歌うことができるか。」と言われたのです。このボーレン先生の「殉教の覚悟を持ちなさい。」という言葉は、牧師の心の持ち方のことを言われたのではなくて、もっと現実的なことだと言われました。私はいまでもこの言葉の意味を考える時があります。
ベルンス先生にしても、ボーレン先生にしても持っている問題意識は同じです。終わりの時に際して備えていなければならないということを教えてくださったのです。あなたは、その時のためにどう備えていますかということです。

ここで語られた主イエスの言葉、特に三十五節にこうあります。

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

ここで主イエスが語っておられるのは、私たちを本当に支えるものはこの天地にある世界なのではなくて、神の言葉そのものであるということです。それだけは永遠に変わることのない確かなものなのだということです。私たちは、この永遠に変わることのない神の言葉によって備える以外にないのだと主イエスの宣言がここでなされているのです。

けれども、この神の言葉によって備えるというのはどういうことなのでしょうか。主イエスはこのお話をなさった後で、ノアの出来事になぞらえて語られました。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

三十七節から三十九節です。

ここで語られているのは、終わりの時に備えよということですが、それはあと何日待てばいいということではなくて、常に神の前に正しく生きることです。
私たちには毎日の生活があります。その人その人にするべきことがあります。それぞれの生活があります。そういう生活が当たり前に続いて行くと、いつのまにか、この生活はこのままずっと変わることなく続いていくのだと錯覚してしまうことがあります。
毎日が退屈だと言って嘆いたり、あるいは忙しすぎると言って嘆いたりするのも、こういう日常がずっと続くと考えているからです。
けれども、「この天地は滅び去ります。」とあるように、この世界のものは永遠ではありません。私たちは自分の生活は不確かだけれども、この世界は変わることのない永遠のものだとどこかで考えてしまいます。けれども、主イエスはこの世界そのものが不確かな存在で、永遠ではないのだということを忘れてはならないのだと語ります。かつてノアの時代がそうであったようにです。

私たちは昨年大きな地震や津波という被害を目の当たりにして、一方ではそういう事に対して備えなければならない。この世界は不確かなものだということをあまり抵抗なく受け入れることができるようになっています。それは分かるけれども、自分の生活が変わるまでには至らないという、そのはざまで生活しています。だから、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という生活に特別な危機感も感じないで生活しています。けれども、その日は来るのです。

主はここで、

ただし、その日、その時がいつであるのかは、だれも知りません。天の御使いもたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

と語られます。三十六節です。
主イエスはここで、自分もその日がいつなのかは知らないと言っておられます。天使たちも知らないことだと。こういう言葉を読むとびっくりするかもしれません。主イエスでも分からないことがあるのかと思うからです。しかし、ここで語られているのは、主イエスにも分からないことがあるということではなく、父がすべてのことを知っておられるということの強調です。
私たちは、自分のこれからのことでさえ知りたいと思っても知ることができません。自分がこれからどのようになるのか。どういう病気になるのか。その後家族はどうなるのか。知りたいと思っても知ることはできません。それは、主イエスも同じだと言うのです。イエス様は、父が全ての事を知っておられるということだけで十分だと確信を持って語られました。それは、そこに主イエスが持っておられた大きな信頼が語られています。ただ、主を信頼しながら、自分の毎日の生活を築き上げていくことこそが大切なのだということです。

この前のところで、終わりの時のしるしについて語られています。
三十二節です。

いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。

ここで語られているのは、いちじくの木をみれば収穫がいつであるか分かるように、終わりの時というのも分かるものだということが言われています。そうです。ここで言われている終わりの時というのは、かならず起こることだと言うことは分かるでしょうということです。いつ起こるということは大事ではありません。ただ、その日があることを覚えながら、主に信頼して私たちの日ごとの生活を築き上げることこそが大事なことなのです。

ルターの言葉としてよく知られている言葉の中に「たとえ明日、世界が滅んだとしても、私は今日リンゴの若木を植える。」というものがあります。みなさんもどこかで聞いたことがあるでしょう。
今映画館で上映されている、韓国の工芸・陶器の魅力を知らせた人浅川巧さんの生涯、「道 -白磁の人」というのがあります。先週礼拝の後で聞きまして、この人はキリスト者であったということですけれども、映画館でチラシを見ました。やはり、このルターの言葉が紹介されていました。というのも、この方は韓国で林業に携わりながら、韓国の木工や磁器のすばらしさを伝えた人ということでした。
色々なところで使われるこの言葉ですけれども、ルターのこの言葉は終りの時に生きるキリスト者の姿勢を語ったものです。もう世の終わりが来るから自分はもう働かないのだ、何もしないということではない。毎日、毎日、自分の歩むべき道を歩むのだという信仰を失うことのないようにという言葉です。

「この天地は滅び去ります」。こういう言葉を聞くと絶望的になってしまうかもしれません。自分が今やっていることはやがては無駄になる時がくる。どうせ無くなってしまうもののためにあくせく働くのは馬鹿らしいと考えてしまうことを、ここで主イエスは教えておられるわけではないのです。
その日が来ることは分かっているからこそ、その日まで毎日主を信頼しながら誠実に生きることを主はここで求めておられるのです。この主への信頼というのは、主ご自身がなさったように、そしてここで言われているように、永遠に変わることのない確かなものである神の言葉に生きるということです。

山形県にキリスト教独立学園高等学校があります。この四月にCさんが入学しました。この入学式のもようをYさんからお借りしまして聞かせていただきました。この独立学園というのは、内村鑑三がつくりました無教会と深く結びつくもので、全寮制のキリスト教を土台とした高校です。自分の故郷、家族から離れて三年間この学園で学ぶのです。その中に校長の安積力也先生の式辞があります。もちろん説教です。安積先生は冒頭からこう語り出します。自分の故郷家族を離れて新しくこの学園の生活が始まる。いろんな不安を持っていることでしょう。そこで覚えていてほしいのは私たちはここでお互いに一つの事実を共有していることです。それは、大きな決断をして今ここに独りでいるということだと言います。けれども、この学園はどんなに悲しい経験をしたとしても独りになることができない。常に誰かと一緒に生活をしている。それはとても厳しいことです。けれども、そういう生活の中に大きなヒントがある。それは、あなたがたには聖書があるということだ、と冒頭から語り出したのです。
私はのめり込むようにしてこの校長の言葉を聞きました。自分の持つ様々な恐れ、その中にあってあなたを支えるものは聖書意外にないのだと断言するのです。そのようにして新しい高校生活を始めることができることは何という祝福だろうかと思います。
もちろん、それは高校生活だけのことではありません。この終わりの時にあって、私たちは様々な不安を持ちます。自分の生き方に自信を無くす頃があるでしょう。しかし、私たちは永遠に変わることのない神の言葉が開かれているのです。この事実を忘れてはなりません。この言葉によって私たちはどんな恐れをも乗り越えて生きることができるのです。

最後の四十五節から五十一節に、その後の二十五章の導入とも言える言葉が語られています。そこには、主人がまだ帰らないからと油断してお酒におぼれていると、思いがけない時に主人が帰ってくるという例え話があります。私たちはこの例えにあるように、日ごとの生活をおろそかにし、終わりの時を忘れたものとして、生活しないことを覚える必要があります。
「たとえ明日、世界が滅んだとしても、私は今日リンゴの若木を植える。」という言葉にあるように、毎日、毎日、私たちは主に信頼しながら、主にある生活をつくりあげていくことを覚えなければならないのです。生活に飽きてしまって、油断してしまって、神を軽んじた生活をすることこそ主の悲しまれることはありません。
そのためには、決して滅びることのない神の言葉に耳を傾けることを何よりも大事なこととして生活をつくり上げることが大事です。この言葉は、私たちを日ごとに生かす言葉になるばかりか、私たちの終わりの時の備えとなるのです。
神の言葉に生きること。これこそが、永遠の生活を築き上げる土台です。この言葉の上に立って、私たちは永遠の生活を築き上げて行くのです。

お祈りをいたします。

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