・説教 詩篇31篇 「我が霊を御手にゆだねます」
2013.3.10
鴨下 直樹
この詩篇は実に豊かな内容も持つ詩篇です。特に有名な箇所は、説教題にもしました五節の「私のたましいを御手にゆだねます。」という言葉です。これは、主イエスが十字架の上で最後に語られた言葉として知られる言葉です。ダビデの祈りとされるこの言葉を、主イエスの生涯の最後にお語りになられたということからしても、この言葉の持つ意味の重要さがおわかりいただけるのではないかと思います。死の直前に口にする主イエスの言葉が、この詩篇だったのです。今朝はこの実に豊かな内容を持つ詩篇から主のみことばを聴きたいと思います。
明日で、東北で起こった大震災から二年がたちます。連日、テレビでもそのような報道がなされています。教会の暦がレント、受難節を迎えていることもあって、私たちはどうしても、この季節に様々な問いを持ちます。その大きな問いの一つは「神よどうして」という問いなのではないかと思うのです。
この詩篇の作者とされているダビデの生涯というのは、ほとんどと言っていいほど逃げ続けた生涯でした。サウル王に追われ、王になった後は息子のアブシャロムに追われて逃げています。そういう状況の中で、いつも裏切りを経験したり、多くの敵に取り囲まれる中で、ダビデ自身「神よどうしてですか」と問いかけます。この詩篇の中にもこんなことが記されています。
二十二節。
私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」
ダビデ自身、神に見捨てられたと感じたことがあったようです。神に見捨てられると感じる、神は私のことを見ていてはくださらないのだと思う。それは、私たちが理不尽さを体験するときに思います。そこから「何故だ」という問いが生まれてきます。ダビデでさえそうであったのです。
山浦玄嗣(はるつぐ)というカトリックの信徒で、岩手県の大船渡で医者をしておられる方がおります。少し前に、ケセン語という気仙(大船渡市、陸前高田市のある岩手県南部沿岸)地方の方言で聖書を翻訳した人です。この山浦さんは、聖書の原典からケセン語訳という聖書を翻訳したことで知られるようになった人ですが、今回の震災で山浦さん自身津波の被害に遭います。ずいぶん海からは離れた所に住んでおられたようで、その日もあまり津波が来るという実感がなかったのだそうです。けれども、津波が来るから逃げるようサイレンが鳴り響きます。急いで逃げなくてはならないと言っているのに、山浦さんの奥さんは着替えをしていて、スカートが引っかかってなかなかはけないのだと呑気なことを言っていたそうです。山浦さんは業を煮やして二階に駆け上がった途端、津波が押し寄せて来てそのために一命を取りとめたのだそうです。
そんな津波による震災を経験し、医者という立場上、この町の人々を診続けてきた経験から小さな本が出されました。『「なぜ」と問わない 3・11後を生きる』という本です。この本の中にこんな話が載っています。少し長いのですが紹介します。
震災後少し落ち着くと、山浦さんのところに新聞や雑誌などのインタビューが殺到します。それは、山浦さんが医者であったからというのではなくて、ケセン語訳の聖書を翻訳したためです。「あなたはキリスト教信者だ。日本人で、キリスト教になっているのは百人に一人くらいしかいないのだから、かなり珍しい部類である。そういう人から、信仰者としての目でこの災害を見て、どう考えるかをぜひ聞きたい」というような申し出がほとんどだったのだそうです。そして、質問をする人はみなが判で押したようにこう言う。「東北の人たちは非常に我慢強い。何事に関しても実に黙々と耐えている。まことに立派だ。そして善良であり、正直である」。とこのように前置きをしてからこんな質問を投げかけてくる。「こういう実直で勤勉な立派な人が、なぜこんな目に遭わなければならないのか。神様はこういう人たちをいったい何故こんなむごい目に遭わせるのか。あなたは信仰者としてどう思いますか」と尋ねられるのだそうです。
それに対して、この山浦さんは驚いたと答えています。そんなことは考えたこともなかった。考えたこともないことに返事はできないと言うのです。ところが、どういうわけか、来る人来る人同じ質問を繰り返していくのだそうです。ついには東京から訪ねて来た神父までもが同じことを訪ねた。そのしつこさにだんだん腹が立ってきたのです。
そこでこんなふうに言っています。「私はあの惨害のさなかに、何千という気仙の人間を診ました。そして涙ながらにその悲惨な話を聞きました。彼らと一緒に泣きました。女房を亡くしたり、亭主を亡くしたり、子どもを亡くしたり、親を亡くしたり、そういう人たちと一緒に泣いてきました」。けれども、「なして、おらァこんたな目に遭わねァばらんねァんだべ」という恨み事を聞いたことはただの一度もない。私は本当に不思議に思います。東京の人はなんでみんな同じことを考えるんだろうと。それで、同級生仲間と何人かで集まったときにその話をしてみました。「いや、こういうわげでな、おれ、困ってんだども、お前だぢァそんたなごどォ考えねァ」。それでみんな考えました。「とにかく東京から来る人だぢァ判で押したように同じごどォ語る、なしてだべな?」そして出た結論は、「暇だからでねァが?」でした。われわれは忙しくてそんなことを考えている暇はない、今は生きることに大変なのです。なぜ、神は助けてくれなかったのかなどということを気仙衆は夢にも思わない。その問いは、結局のところ、「お前たちの信じている神さまは結局お前たちを見捨てたのではないか」「お前たちの信心は何のためだったのか」「何のために信心してきたのか」という非難めいた問いなのではないか。傷ついている我々に向かって、塩を擦り込むような極めて意地の悪い質問だ。こんな暇人の考えることにつきあってはいられないのだと考えるようになった、と言っています。
そこに生きている人は、神はなぜと問わないのに、外にいる人がそのように問う。それは自分が傷つかないから問うことができるのだ、と山浦さんは言います。結局のところ、「神よどうして」と問うことは、神を信じないための問い、人の信仰を非難するための問いだと。
今日の礼拝で、古知野教会の教会員である大島章義さんが、昨年出版された福音讃美歌集に収められたご自分の造られた讃美歌を紹介してくださいました。自分の経験から生まれた、とてもよい讃美歌です。歌詞は大島さんの証をもとに造られていますが、とても素晴らしい歌詞です。
主の愛の言葉で造られたこの世に
暗闇の力は働いているけど
あなたの言葉に生かされる私は
この世に輝く小さな光です。
これは、先ほどの証にもありましたけれども、ミャンマーに学校を建設するために大島さんが訪れた時のことが背景にあります。この世界には理不尽なものが沢山あるのです。学びたくても学校がないから学べないという国もある。先日もニュースでミャンマーは今急激に日本人が増えているようですけれども、学校の校舎が古く、教える先生もいないために、もう数年すると子どもたちを受け入れることができなくなるということをやっていました。日本の企業が沢山入っているのに、そこで働いている社員の子どもたちのことさえ考えられていない。私たちの生きている世界には理不尽なことが沢山あります。それこそ、神よどうしてと問わずにはいられないような現実があるのです。けれども、そこに、私が生きていることの意味を問う。それが、この大島さんの証です。そこに私が生きていることが小さな光になるのではないかと。
私たちの生きている世界に暗闇の力は確かに働いている。地震が起こる、津波が来る、貧しさがある、病がある、学校がない、将来への不安がある、いつまでたっても解決されない問題はたくさんあるのです。ダビデもそこで問うた。「わたしは神に見捨てられているのではないか」と。
この詩篇の全体にあるのは、私を救ってくださいという祈りの叫びです。一節。
主よ。私はあなたに身を避けています。私が決して恥を見ないようにしてください。あなたの義によって、私を助け出してください。
前回の詩篇二十五篇も冒頭に同じ主題がありました。「恥を見ないようにしてください」というくだりです。ダビデが何度も、神を信頼することは恥をかかなくされることだという信仰がよく分かります。しかし、ここで特に大事なのはその後の言葉です。「あなたの義によってわたしを助け出してください」とあります。
実はこの詩篇の言葉が宗教改革者ルターにとって画期的な信仰の理解へと導いた言葉となりました。それまで神の義というのは、神の正義と理解されていました。つまり神は正義のお方なので、間違っている者はお裁きになるという理解です。「神よなぜ」と問う時の多くが、この神に裁かれているのではないかと考えるのも、この理解がまずあるからです。しかし、この詩篇で語られている神の義というのは、どうも神の裁きとはあまり関係がないのです。むしろ神の裁きというよりも、神の救いを求めながら神の義を求めています。それでルターは、神の義というのは裁きという面だけが強調されているのではなく、神の救いと深くかかわっていることに気づきます。
この詩篇は「あなたの義によって私を助け出してください」と祈りながら、神への信頼の言葉を次々に語り出します。自分の現実は理不尽な現実です。けれども、神の義は、この理不尽な現実を打ち破ってくださると信じているのです。しかし、すぐに問題が解決しない時にダビデは嘆きます。「私はあなたの目の前から断たれたのだと。」捨てられてしまったのだと思うのです。
けれども、この詩篇はそこで終わりません。二十二節。
私はあわてて言いました。「私はあなたの目の前から断たれたのだ。」と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに。
ダビデは神に見捨てられたと思ったけれども、気づくのです。いや、神は私の叫びを聞いてくださったと。
この受難節の時に、私たちは主イエスの叫び声を思い起こします。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになったのですか。」というこれも詩篇22篇の引用です。私たちは知っています。この主イエスの叫びもまた、神に見捨てられたままで終わる叫びではなかったのだということを。
主イエスのこの叫びは、神のもとに届いて、神は主イエスのその叫びを受け止められたのです。
私たちは、人生の様々な局面でこのように叫びたくなる時があります。あるいは、気仙の人たちのようにそんなふうに怒りを神に向けないで、前を向かって立ち上がろうとすることもあるでしょう。私たちがそこで知らなければならないのは、神に叫ぶ時は、神は受け止めてくださると、救ってくださると、神の義は、裁きの義なのではなく、救いの義なのだということを信じて祈ることです。すると、そこに私たちは身を置くことができる場を持つのです。倒れていても、立ちあがることのできる場所を持つのです。
ダビデはこの詩篇の最後をこう結んでいます。二十四節。
雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。
私たちは心打ち砕かれることなく神に祈ることができます。なぜなら私たちの義なる神は、私たちを救いに導いてくださるお方だからです。だから、理不尽さの前にたつことがあっても、勇敢に、雄々しく歩むことができる。心を強くして、主を信頼することができるのです。
お祈りをいたします。