2013 年 3 月 24 日

・説教 詩篇22篇 「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 18:29

2012.3.24

鴨下 直樹

今日から教会の暦で受難週を迎えます。主イエスが十字架に架けられた週。エルサレムに主がお入りになられて、十字架につけられ殺されてしまわれる週を迎えました。そして、私たちはともに、この主イエスが十字架の上で叫ばれたことば「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というあのマタイの福音書第二十七章四十六節のもとになった詩篇第二十二篇のみことばに耳を傾けています。

以前も礼拝で紹介しましたが、岩手県の気仙地方で医者をしておられる山浦玄嗣(はるつぐ)さんが、気仙地方の言葉で聖書を翻訳しました。ケセン語訳聖書と言われるものです。今はすべてが津波に流されてしまいまして、津波から残って出て来た水をかぶってしまった本も全て完売して手にいれることが出来なくなっています。けれども、文春新書で『イエスの言葉』という小さな本が出ました。これはこの山浦さんのケセン語のエッセンスをご自身の言葉で解説していますから、とても面白く、このケセン語訳の聖書の雰囲気を少し味わうことができるようになっています。

この本の最後にちょうど今日の聖書の言葉が紹介されています。山浦さんが訳したケセン語ではこうなります。

三時頃、ヤソァ大ぎな声ェ上げで叫(さガ)び、こう語りやった

「エリー、エリー、レマー、サバクタニ?」

この意味ァはこんだ。

「神さまんすゥ、神さまんすゥ、何故(なして)俺ァどごォ見捨てやりァしたれ?」

そして、山浦さんはこの聖書の言葉にこんな言葉を添えています。

あの恐ろしい津波が去って二日目、至る所に積み重なる山のような瓦礫を乗り越え、折り重なる家々の残骸や積み重なるひしゃげた自動車のかたまりをくぐり、真っ黒な泥に足を取られながらやっとのことで小雪の舞うコヒドロ山にたどりついたとき、目の下一面に倒壊した大船渡町のありさまがひろがっていました。カトリック教会の建っているこの丘の南側の崖は大きくえぐり取られ、鉄筋コンクリート造りの納骨堂は粉砕されてはるか彼方に流され、懐かしい人々の遺骨は泥の中に散ってしまいました。

あのときの気持ちをどう表現したらいいものか、ことばにもなりません。

まっさきに心に浮かんだのは、あの有名な、イエスの最後の言葉でした。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!」

誰もが共感するのではないかと思います。神よ、教会の納骨堂に納められた信仰に生きた方々の亡きがらさえも奪い去ったあの津波に、神よ何故ですかと叫びたくなったと言うのです。

主イエスが十字架にかけられる最後の七つの言葉の一つがこの言葉でした。それは、誰もがその生涯に何度か口にすることばであると言ってもいいかもしれません。

もちろん、この山浦さんは、「なぜ」と神に問うことには意味はないと別の本でも書いていますし、この本の中でも書いています。震災で苦しんでいる人に向かって、「何故神はこんことをなさると思いますか?」などと、苦しみの中にいる人に問うことは意味はないと言います。それは、そこに生きている人々をあざ笑う言葉でしかないのだと、憤りを込めて書いているのです。そんなことは暇な人が考えることで、ケセンの人は誰ひとりとしてそんなことは問わないと言います。そこから乗り越えようとしている者にとって、それは不信仰を示すことばでしかないのだということです。

ダビデの書いたと言われるこの詩篇を見て見ると、神に見捨てられていると叫び始めたこの祈りはこう続いていきます。私たちの先祖はそのように祈って誰も恥を見ることはなかったと続くのです。つまり、神は祈りをちゃんと聞いて聴いてくださったということです。そして、自分は虫けらのような無価値な者にすぎないけれども、私は生まれた時から神により頼んで生きて来た。だから、助けてくださいと、この危機的な状況に置かれている私を見捨てないでくださいと続きます。

この詩篇の内容はそれほど複雑なものではありません。こうして見ていくと分かるのは、神に見捨てられているという叫びは、ホントに見捨てられていると思っているのではなくて、神の関心を引こうとして叫んでいる叫びだということが分かってきます。

ところが、この叫びを十字架の上でお叫びになられた主イエスはどうであったのかというと、これはずいぶん意味が異なってきます。なぜなら、主イエスは本当に神に捨てられてしまわれたからです。神の救いの手が届くことなく、人々にさげすまれながら主イエスは十字架の上で殺されてしまいました。なぜ、主イエスが十字架の上でこう叫ばなければならなかったのか。神に捨てられなければならなかったのか。それは、私たちの身代わりとなるためでした。

先ほど、洗礼式を行ないました。Aさんは中学三年生です。キリスト者の家庭に育ち、子どもの頃から教会に来るのが当たり前になっていますから、神様をいつ信じましたかなどと聞いてもきっと答えられないと思います。先ほどの証のなかでもそう言っておられました。けれども、この四月から山形にあるキリスト教独立学園に入学します。その新しい生活が始まる前に、自分はキリスト者として生きることを明確にして、それを自分の支えとしたいと先ほどお話ししてくださいました。なぜ、主イエスを信じていることを告白して、洗礼を受けることが自分の生活の支えになるのかというと、まさに、ここで主イエスがなさったように、自分は神に捨てられることはないことを確信することができるからです。なぜなら、私の代わりに、主イエスがもうあの十字架の上で神に見捨てられたからです。

洗礼を受ける時に、私たちの教会では浸礼という方法で行ないます。水の中に体をすべて浸すのです。それは、私はここで死んだということを表しています。そうして、私はこれからはキリストのものとして生きるということを証するのです。キリストの死は私のためであったことを、神に本当に捨てられなければならなかったのは私のほうであると、そこで明らかにするのです。けれども、この水を上がる時に、新しい者として生きる。私のために死んでくださり、よみがえってくださったお方の命に生きることを明らかにするのです。

主イエスを信じるということは、もう私たちの人生の最後に待ちかまえている、死という自分の力ではどうすることもできない圧倒的な恐れに対して、この主イエスが十字架で神に代償を支払って死んでくださったことを信じるということです。だから、神の御前に私たちは本当に見捨てられることはなくなったのです。だから、安心して生きることができるようになるのです。私たちの決定的な不安は取り除かれていると信じることができるので、新しい生活を始めるにあたっても、安心して生きることができるということです。

最初に紹介した山浦さんは、このところで、子どもが安心して親にだだをこねるような叫びがこのダビデの詩篇の叫びだと書いています。けれども、それは深い信頼があるゆえに叫ぶことが出来る叫びなのだと。

今週は、主イエスが十字架につけられたことを心に留めながらこの受難週の一週間を過ごそうとしています。そこで、いつも覚えていただきたいのです。私たちは主がこう叫んでくださったがゆえに、私たちの本来叫ぶべき叫びを叫んでくださったがゆえに、神に完全に捨てられることはなのだと。受難週などというと、あまり私たちはそんな一週間を過ごしたくないと考えるのではないかと思います。何をやってもうまくいかない週、受難としか言いようがない一週間をすごすなど、耐えがたいことです。けれども、私たちの人生には何度となく受難を迎える時が来ます。神よなぜと問いたくなる時があります。

なぜ、病気になったのか。なぜ、私にばかり不幸が降りかかるのか。なぜ、他の人のように幸せに生きられるないのか。なぜ、なぜと、この問いから私たちはなかなか解放されることはありません。しかし、覚えて欲しいのです。私たちの本当の苦しみは、主イエスがあの十字架で負ってくださったのだと言うことを。あの十字架の出来事は私のためであったのだということに心をとめていただきたいのです。

すると、私たちは知るのです。私は神に支えられているのだと。主イエスが、私を支えてくださっていると。このお方と共に生きるならば、私はしっかりと立ってなおも生きることができると。

お祈りをいたします。

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