2013 年 4 月 28 日

・説教 詩篇98篇 「主に向かって喜び歌おう」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:43

2013.4.28

鴨下 直樹

復活節の第四主日を迎えました。今日は「カンターテ」、「歌え」と言われる主の日です。それで、この主の日には詩篇の九十八篇の一節が読まれるのです。

新しい歌を主に歌え。

冒頭にそのようにあります。

このカンターテと言われる主の日の強調点は「歌え」です。復活の喜びに生きるものは歌え、と命令されているのです。「歌う」というのは、私たちの生活の中でもそうですけれども、思わず歌ってしまうという時があるとしたら、それは心の中に喜びがある時でしょう。悲しい気持ちでいる時に歌うことはできません。「歌え」と命令することができるのは、歌いたくなるような喜びに支配されているからです。主の復活というのは、単なる生命として歌えるようになることなのだと言われているのではないのです。そうではなくて、歌い出したくなるような事実に包まれているから、その事実は心から溢れだしてくる喜びではないか、思わず歌いだしたくなることではないか。だから歌おう、心から主に向かって歌おうではないかという招きなのです。

みなさんの日常の生活の中に鼻歌を歌うということがどれほどあるでしょうか。お風呂で鼻歌を歌うということだっていいのです。もし、日常の生活の中で歌うこともできなくなっているのだとしたら、鼻歌もでてこなくなってしまっているのだとしたら、そこにはひとつのサインがあると考えることができるのかもしれません。
無理に歌わなければいけないということではないのです。もう二十年も前のことですけれども、ある教会の役員が会社の慰安旅行でみんながカラオケをしている時に、自分はこの世の中の歌を知らないので、讃美歌を歌ったという話を聞きました。びっくりしましたが、その人にとってはカラオケで何かを歌うことも、人前で讃美歌を歌うことも同じこと、自然なことなのだと驚きました。けれども、最近はそういう話も聞かなくなりました。
今は歌心の無くなっている時代だとある牧師から聞いたことがあります。家で歌えないのです。生活の中に歌心がなくなってしまっているのです。鼻歌もでてこなくなってしまっているのです。それは、生活の中に喜びが失われてしまっていることだとそのまま言い換えることのできることです。

この芥見教会に来て、毎月楽しみにしていることの一つにぶどうの木の句会があります。私も残念ながら俳句を作ることが出来ないのですが、そこで、実にみなさんが素晴らしい俳句を紹介してくださいます。毎日の生活の中で見たこと、感じたことを、写生するというのだそうですが、絵を描くように、そこを切り取るのです。それが、ただ切り取っただけではない、そこに何を感じたか、どう見たのか、そこにその人の心が現れます。不思議なことですけれども、そこには、悲しい俳句というのはあまりないのです。例えば、長い間指導してくださっておりました江崎先生の句は、自分が高齢になったことを詠んだ句が沢山ありますけれども、どれも悲しんでなんかいないのです。鼻で笑い飛ばすような面白みが込められています。そういうのを見ながら、ああ、ここにはまだ歌心は残っているのだと思いました。自分の生活の中に喜びを見つけ出して歌う、それはとても素敵なことです。

今日の聖書の箇所はとても面白いのです。「新しい歌を主に歌え」とあるのです。ここでいう「新しい歌」というのは一体何でしょうか。もちろん、新曲ということではないのです。教会の讃美歌の中にも、古い讃美歌と新しい讃美歌何ていう言い方をすることがあります。聖歌や讃美歌は古い讃美歌で、今月の賛美で歌っているような現代的な歌を新しい讃美歌と言ったりします。けれども、そこで歌っている歌であっても、もう二十年も三十年も前のことです。それこそ、俳句で指導してくださる先生が二十年も三十年も同じ俳句ばかり詠んでいたら、たぶん誰も指導をうけたくなくなると思います。そう考えれば、決して二十年前の讃美歌であっても新しいとは言えません。新しいものは、出来たその瞬間から古くなってしまうのです。
では、ここでこの詩篇は何のことを新しい歌と言っているのでしょうか。詩篇の中には「新しい歌を主に歌え」という言葉が何度も出て来ます。たとえば、すぐ隣の詩篇九十六篇の一節にもあります。詩篇の中で何度も繰り返されていますこの言葉は、新しい出来事を経験した神の民が、その神の新しい御業のことを讃えるようにと招かれているのです。
新しい出来事、新しい御業とはなにかというと、まだ誰も経験したことのないような神の救いの御業のことです。それがつづく「くすしいわざをなさった」という言葉の中に表現されています。イスラエルの人々がもっとも大きな救いとしてとらえたのは、出エジプトを通して、神の約束の国に戻ることができるようになったことです。そして、それはやがて、イスラエルの人々がバビロンという強大な国に支配された時に、人々の心の中に強い憧れとして覚えられていたテーマでした。

イスラエルの周辺には実に強い民族がいくつもありました。歴史を学ぶと見えてくるのはイスラエルがどれほど小さな国であったかということです。あのあたり一帯には、歴史上重要な国々がいくつも存在しています。メソポタミヤとエジプトという強大な国にはさまれるようにして存在しているのがイスラエルです。それらの国々はイスラエルよりもはるかに強大な国でした。そんな中で小さなイスラエルが滅ぼされることなく残ったのは奇跡としか言えないことでした。聖書を中心にして読みますと、聖書が中心ですから当たり前のことのように読んでしまいますけれども、神の守りがなければ存在し続けることなどできなかった小さな国だったのです。その小さな国が今日まで守られているのは「神のくすしいわざ」としか言えないものです。
そのイスラエルはやがてバビロンに支配され捕囚を経験します。そのなかで人々はこの詩篇を信仰の歌として歌い続けて来ました。「新しい歌を主に歌え、主はくすしいわざをなさった」とイスラエルの民は歌い続けて来たのです。絶望的な現実の中で人々はこの信仰を、救いの神を見失わないということを歌うことによって覚え続けて来たのです。
それはこう言い換えることもできます。圧倒的な厳しい現実の前に、「もう諦めてしまえ、お前のちからなど取るにたらないのだ」という圧倒的な状況の中にあっても、心からの歌を、喜びの歌を歌うことができたのがイスラエルの民であったということです。そして、事実、イスラエルは神の守りと支えを感じ続けてきたのです。
この詩篇は、「お前なんかだめだ。何の力もないのだ。諦めてしまえ」という私たちの心の中に浮かぶ声に抗うことのできる歌として、今、私たちの前に与えられているのです。

この詩篇はこう続きます。

その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果て果てまでもが、みな、われらの神の救いを見ている。

何という希望に満ち溢れた言葉でしょうか。神の救いの御業、世界に示され、誰もがそれを認めるのだと宣言しているのです。そして、この詩篇は事実、実現しました。それが、イエス・キリストの十字架と復活です。
神の御業は、主イエスの復活によって世界に証されました。まぎれもない事実として神の御業を人々は見たのです。そして、地の果てであるこの日本にまでこの神の救いの御業は告げ知らされました。誰もがこの神の「恵みの真実」、新共同訳聖書では「慈しみとまことを」とされていますが、ここに神の慈しみと誠実さを見たのです。主の復活によって、新しい出来事が世界に示されました。それまで、世界の人が見たこともない出来事です。
「新しい歌を歌え」とあるのは、この神の救いの業の新しさを歌えということです。かつて、エジプトの奴隷であったときから救い出され、バビロンの支配にあっても希望を持ち続け、主イエスによって明確に知らされたのがこの神の救いの御業でした。「もう希望など無い、もう諦めるしかないのだ」との声を、神は払いのけるようにして救いの御業を行なってくださったのです。
だから、私たちは歌を歌うことができるのです。救いの喜びの歌を歌うことができるのです。

この後、讃美歌21の479番をうたいます。「喜びは主のうちに」という讃美歌です。先日の祈祷会でもお話ししましたけれども、もしも、葬儀に歌う曲を決めていない方は、私はこの讃美歌を選ぶと話しました。この讃美の中にはこうあります。「主に望みを置くものはとこしえのいのちうけ、救われるハレルヤ。生きる時、死ぬ時も、主イエスから離すものは何もない。ハレルヤ」。
ローマ人への手紙の八章の言葉が歌われています。たとえ死んでも、主イエスから引き離されることはない。どんなものも、主イエスから引き離すことはできないと言い得るほど、私たちの救いは確かなものなのだとパウロは語ったのです。たとえ、葬儀の時であっても、共に喜んでハレルヤと讃えることができるのだということを、ぜひ覚えて欲しいと思うのです。人は死の悲しみの中にあっても、私たちは喜んでハレルヤと歌うことができるのです。
それは、毎日の生活でも同じように言うことができます。たとえ仕事がうまくいかなくても、たとえ病が治ることがなかったとしても、自分の望むものが手に入れられなかったとしても、私たちは主イエスから引き離されることはない。だからハレルヤと歌おうということができるのです。

主は私たちを喜びに招きいれてくださるのです。完全な喜びの中に。イスラエルの人々がたとえ捕囚として他国につれて行かれ、みじめな生活を強いられていても、神をたたえることを忘れなかったように、私たちも神の恵みの御業を忘れてはなりません。
主イエスはよみがえったのです。確かに、よみがえられたのです。私たちと、主イエスを引き離す者はなにもありません。死も、悪も、病も、悲しみも、完全に私たちと主との間に入り込むことはできないのです。だから、歌うのです。心から歌うのです。
新しい歌を、この世界が経験したことのない新しいうたを歌うことができるのです。それは、ただ、私たちを喜ばせるだけの歌ではなく、神の救いの事実を告げる歌です。「主はくすしいことをなさった」と歌うのです。
私たちは主に向かって喜びの歌を歌うことのできるものとされたのですから

お祈りをいたします。

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