・説教 ヨハネの福音書3章1-15節 「新しく生まれる?」
2014.5.4
鴨下 直樹
ゴールデンウィークを迎えました。何となく休み気分になっている方も多いのかもしれませんけれども、今年はカレンダーでは29日の火曜日と、昨日の3日、土曜のみが休みなだけで、本格的にゴールデンウィークを味わうことができるのは、これからと感じておられる方も多いのではないでしょうか。私は、毎年4月29日は東海聖書神学塾のCS教師研修会が行われまして、出席してきました。今年も大変大勢のCS教師の方々が参加してくださいました。私とマレーネ先生は、午後の分科会で二時間のセミナーを行いました。私の担当したテーマは「CS教師のための聖書研究と、メッセージの作り方」です。大変大勢の方々が参加してくださいました。それほど、それぞれの教会学校の教師たちが、毎週の子どもへのメッセージの作成に苦労しているのだということがよく分かりました。
そこでもお話をしたのですけれども、聖書を読むときに、そこで何が語られているのかを意識しながら、気になったことを書き出してくださいと言いました。そして、実際に聖書を読んでいただいて、ある箇所から、気づいたこと、書き出したことを質問していきました。みなさん、とても丁寧に聖書を読んでおられるのだということが良く分かりました。
それと同じように、今日の聖書の箇所も気にして読んでいきますと、気になるところがいくつも出てきます。今日の箇所はニコデモというユダヤ人の指導者と主イエスとの対話のところです。そうすると、まず気になるのは、前回少しだけ触れましたけれども、主イエスを信じたと書かれているのですが、主イエスはそれらの人々をあまり当てにしていないのだということが書かれております。そして、このニコデモの話しに続いているということは、このニコデモという人を、言ってみればここではあまり当てにならない信仰の代表者として描かれていることです。ところが、読んでみますと、とても大切な対話をしておられるわけで、これは一体どういうことなのかということがまず気になってきます。
そのほかにも、「新しく生まれる」というのはどういう意味なのかであるとか、「水と御霊によって生まれる」というのはどういう意味かであるとか。6節まではニコデモに対してなので、主イエスは「あなた」と答えているのに、7節から急に「あなたがた」になっているのはなぜかとか。8節の「風は思いのまま吹く」というのは何を言っているんだろうとか、読んでいきますと、どれも大事なことだというのは分かりますけれども、いったいどういうつながりがあるのだろうかということを考えていきますと、分からなくなっていきます。
こうやって私もあれこれと本を読んで調べていくうちに、今日は15節までとしましたけれども、15節までいくのはできないのではないかという気がしています。ですから、ある部分は次回にまわしますが、できるだけここで語られていることを注意しながらみてみたいと思います。
前置きが長くなりましたけれども、今日の箇所は先ほどお話したように、主イエスがエルサレムにいるあいだに多くの人々は、御名を信じたと書かれておりましたけれども、ここでは、その人々の信仰というのはどういう信仰であったのかを説明しようとして書いているということが、お分かりいただけると思います。そこで登場してきたのが、ニコデモというユダヤ人の指導者です。指導者というのは、どういう人のことかというと、サンヘドリンというエルサレムの宗教議会を組織している七十一人の議員のことであったのは、どうも間違いのないことのようです。つまり、聖書の中にでてきます、パリサイ派の代表と言ってもよい人々を指す言葉です。そうしますと、このニコデモと言う人は主イエスを目の敵にしていたのかといいますと、どうもそうではありませんでした。主イエスに対して、一定の評価をしていたのです。それが、二節に書かれています。
この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことはできません。」
ここにもいくつも気になることが書かれていますが、まず、ニコデモが主イエスを尋ねてきたのは夜であったということです。なぜ夜に訪ねてきたのか。聖書学者たちは色々なことを考えます。昼間に来ると、他のパリサイ派の仲間たちに見つかってしまうので、人に見られないようにするためだったのではないかとか、当時、ラビと呼ばれた律法の先生に質問に行くときは、夜にいくのがあたりまえだったので、こそこそ行ったわけではなかったとか、色々な説明があります。けれども、明らかなことは、このニコデモのことを、このヨハネの福音書は夜の人として描いているということです。ニコデモは主イエスに対してとても好意的で、かなり、主イエスを認めているのす。けれども、この人は夜に属する人だと、ヨハネは描いているのです。このヨハネの福音書とは光と闇、霊と肉、善と悪というように二元論的な描き方がされています。このニコデモは闇の人で、肉の人という視点で描かれているわけです。ニコデモは言います。「私たちは、あなたが神のもとから来た教師であることを知っています」と。そして、「神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことはできません」とさえ言うのです。もう少しで、信じることができそうな勢いが、このニコデモの言葉にはあります。
長い間、若い人に対する伝道をしてきました。その中で、時々「わたしは神さまを信じているんです」という方にお会いします。「小さいころから、私は神さまを信じてきたんです」と言われるのです。良く耳にする言葉であるかもしれません。そこで、私がよくお話しするのは、日本には八百万の神々を信じる信仰があるので、何かを神と信じる人は多いと思いますよ、と答えます。けれども、肝心なのは、ただ、漠然と神さまを信じることではなくて、どのようなお方を神と信じるのかということが良く分からないのです。もっというと、主イエスこそが、主であるという信仰にはなかなかならないのです。
その意味で、このニコデモも、そういう現代的な信仰の持ち主であったということができるのかもしれません。ニコデモの言葉は、「先生、あなたが神さまを通して働いていることは分かりますよ」と言ったに過ぎないのです。
それで、主イエスはこうお答えになられました。3節。
「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
この主イエスの短い言葉には、実に沢山の意味がこめられています。一つは、このニコデモの信仰に対する答えです。「あなたの信仰では、神の国を見ることはできません」と主イエスはここで、はっきりと、その信仰を否定されたのです。これは、ニコデモにしてみれば、そうとうショックな答えであったに違いありません。他のパリサイ派の人々のほとんど誰も、主イエスを認めてはいないのです。ニコデモにしてみれば、サンヘドリンの議員である自分が、十歩も百歩も譲歩して、「あなたはそれなりの人だと思う」と、主イエスを認めたのです。たいていなら、みんなそこで喜ぶんです。
私たちでもそうだと思います。私たちの周りの人が自分がキリスト者だと知って、「私も昔から神さまのことを信じているんだ」と声をかけてきたら、それだけで少しほっとするというか、うれしい気持ちになって、この人は私のことを理解してくれる人だと思ってしまう場合が多いのではないかと思うのです。
しかし、主イエスは、「それは信仰とは言わないよ、それじゃ、聖書が語る神の国を見ることはできないんだよ」と言われたのです。
そして、この主の言葉の中のもう一つの大切な言葉は、「人は新しく生まれなければ」とこの時に答えられました。この主の言葉も、ニコデモにはそうとうショックな言葉でした。というのは、ニコデモは、神の国、つまり、私たちが良く使う、天国のことですけれども、天国というのは、将来入るところだと思っていたのです。これについても、今日でも、ほとんどの人が同じように考えているんだと思います。死んでから、天国の国民として新しく生まれると考えているのです。けれども、主イエスは、天国に入るのは将来のことではなくて、今、まず人が新しく生まれることによって、神の国、天国の国民になるのだと言われたのです。
ですから、ニコデモは続く4節で「人は一度生まれると、あとは年をとっていくばかりなのに、どうして、もう一度赤ちゃんからやり直せるのか?」と疑問を投げかけます。
それで、主は、ここで、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません」という5節からの言葉に繋がっていくのです。
昨日から、教会で35プラスという集会を始めました。三十五歳から五十台までの方を対象にした、この教会の方々の交わりの場になればと考えて、土曜の朝、8時に、マレーネ先生のお宅で一緒に朝食をしました。マレーネ先生の家は、以前Kさんのご両親の住んでおられたところですけれども、すぐ裏が山です。昨日はそこから鶯の鳴き声をずっと聞きながら、暖かい小春日和を感じながら、美味しく朝食をいただいて、その後で聖書を学びました。そして、最後に、みなさんの祈りの課題を聞きました。少しづつ大人になっていく子どものこと、高齢になった両親のこと、そして、だんだん責任の重くなる仕事のことなどが出てきました。そして、自分の体が少しづつ、前のようにはいかないのだということをだんだん自覚していく。そんな年代なのだということを改めて感じました。そういう状況の中で、どのように生きていくことができるのか。沢山のことを抱えながら、くたくたになって行く、それなのに、体も少しづつ衰えていく。
人は年老いていく一方で、どうしたら新しく生まれることができるのか。もう一度、自分の人生を新しくすることはもはやできないのではないか。そんな、絶望的な気持ちになっていくのが当然という中に生きているのが私たちです。けれども、主イエスはそこで言われるのです。「人は、水と御霊によって新しく生まれることができる」と。主イエスを信じて、洗礼を受け、聖霊を与えられることによって、この世のしがらみに支配されていかなければならないのではなくて、神の支配の中で生きることができるのだと。
ですから、この七節以降で、主イエスはもはや、ニコデモ一人にではなくて、「あなたがた」という複数に答えているのは、ヨハネにしてみれば当然のことです。あなたも、あなたがたも、新しく生きることができる。この世界に縛られていきるのではなくて、神の国に、神に見守られながら生きることができるのだと、主イエスはここで人々を招いておられるのです。
ニコデモにとって、いや、現代に生きる私たちにとってこの主イエスの言葉は、まさに福音です。だから尋ねたのです。9節。
「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
と。そんなことが起こればどれほどすばらしいことか、しかし、どうやって?
主イエスは答えます。いくらこの地上でさまざまなことに思い悩みながら、どうしたら子育てがうまくいくのだろうか。どうしたら老いていく家族を支えることができるだろうか。どうしたら、どんどん増えていくばかりの仕事と責任をやりきることができるか、どうしたら、自分自身の限界を乗り越えていけるのか。それは、大切なことかもしれないけれども、地上からいくら沢山の問いを投げかけたとしても、その問題にかかりきりになっていたら何も見えないでしょう。地上から、天を見上げながら、天国はいいなぁと眺めているのではなくて、天から下ってきた方、「人の子」として、旧約聖書で約束された方を見るならば、そこに、信じる道がある、そこに、永遠の希望があるのだと、主はここで答えてくださったのです。
つまり、主イエスの中に、私たちがこの世界でもつ、様々な思い悩みの解決があるのだと、主はここで答えてくださったのです。
今日、復活節の第二週を迎えました。「ミゼリコルディアス・ドミニ」、「主の慈しみ」と呼ばれる主の日を迎えています。これは「地は主の慈しみで満ちている」と新共同訳で訳されています、詩篇33篇5節の言葉です。
この世界には様々な問題があります。けれども、主が支配してくださる、神の国に生きるときに、そこに、主の豊かな慈しみがあることを数えることができるはずだ。そのことに目を留めるようにと、教会はこの日を、そう読んできたのです。主イエスがよみがえってくださった。それは、この世界は、死に支配された絶望の世界なのではなくて、主がそれを新しくしてくださる世界であることを忘れないようにということなのです。
私たちは、この主を信じているのです。この主から新しいいのちを与えられるのです。私たちは新しく生きることができる者として、この世界の中で、それでも、望みを見出して、生きることができる者とされるのです。
お祈りをいたしょましょう。